第32話 右手には花を、左手には剣を
家に帰りつくと同時に意識を失った。
Innocent Visionだ。
(タイミングがいいんだか悪いんだか。)
母親が出てきて慌てて駆けてくる姿を他人事のように思いながら僕は夢に落ちた。
僕は以前ダルマ事件が起こったのと同じ新宿の裏にいた。
厳密には僕はここに存在していないのであの時と同じ自分以外の夢だった。
地面に捨てられた新聞に視線が移った。
日付は11月4日。
もう日付も変わっていそうなほどの夜の町は不自然なほど静まり返っていた。
僕は心のうちから沸き上がる予感に身震いする。かつて見た殺人の光景を思い出したのだ。
ゴッ
不意に鈍い音が路地の向こうから聞こえてきた。
喧嘩か何かかと思い僕の意識がそちらへと向かう。
バキッ
ベキッ
その数は1人2人ではないようで断続的に音がする。
グシャ
ビチャ
およそ人が普段立てないような音まで聞こえてきた。
怖いはずなのに足は勝手に路地へと向かっていく。
(やめろ。)
僕の思いとは裏腹に顔がつっぱったように歪む。
僕は、笑っていた。
分かっているんだ。
この先で何が起こっているのかを。
僕は見たくないと思っているはずなのに、僕は立ち止まりもせずに進んでいく。
近づけばそれだけ音は聞こえてくる。
大気に血の臭いが満ちて頭がくらくらした。
背筋に怖気を感じて帰りたいと思っているはずなのに僕は笑ってそこへと向かおうとする。
ゴンッ
グシャ
ゴキリ
まだ路地を覗き込む前に離れたここからでも骨が折れた音が響き身がすくむ。
そこで僕は気付いてしまった。
(悲鳴が、聞こえない?)
これだけの戦いが続いているのに一度たりと人の声を聞いていない。
それを不気味に思いながら僕はとうとう路地にたどり着いてしまった。
そこは魔界と呼ぶにふさわしい場所だった。
世界は赤く染まり地面に、壁に血が溢れている。
そして転がる無数の肉塊、あるものはパーツがなく、あるものはひしゃげ、胸から別人の腕が生えているものもあった。
(うっ!)
見ているだけで嫌悪感を抱く。
そこには男も女もなくただ殴り合い、殺し合う獣がいるだけだった。
最後の2人の男女が倒れた。
女は顔が原型を留めないほどにひしゃげ、男は爪に掻き切られて首筋から噴水のように血を流して共に絶命した。
(いったい、何が?)
犯人も争いの理由もわからないまま僕は夢から覚めていく。
いつまでも背中に張りついている悪寒を拭えないままに。
「…最悪だ。」
目が覚めた僕は開口一番愚痴と共にため息をついた。
「あれは血の広野か。」
血に染め上げられた大地に人の肉が枯れ木のように壁際に立ち並び、千切れた腕や足、頭や胴体が広野を彩る草木のように無造作に転がっていた。
「うう。」
思い出しただけで胃が収縮して気持ち悪さが込み上げてくる。
起き上がると自分のベッドだったので両親が運んでくれたのだろう。
昨晩は夕飯を食べていないというのにあんなものを見たせいで食欲はない。
「学校、行かないと。」
気分はドン底だが明夜と和解できた分、気を持ち直して僕は勢いよく立ち上がった。
(誰があんなことをさせたんだ?)
それでも頭の片隅で考えることをやめはしなかった。
「あ、半場君、おはようございます。」
「おはよう、作倉さん。」
教室に入ってすぐに作倉さんと挨拶を交わして和み席につくと目の前には何故か芳賀君ではなく東條さんがいた。
「おはよう、東條さん。」
「…。」
挨拶をしても東條さんは僕の顔をじっと見つめたまま無言だった。
なんだか責められているような気がしてわけもなく罪悪感がもたげてくる。
「何?」
「昨日、柚木明夜と何があったの?」
思わずドキリとさせられる的確な質問に即座に答えを返すことができない。
「なになに、面白そうな話をしてるわね。」
面白い話に目がない久住さんたちも加わってますます窮地に追い込まれていく。
「陸。」
「め、明夜。」
さらにこのタイミングで明夜が訪ねてきた。
僕が東條さんや久住さんに囲まれているのを見ると無言のまま近づいてきて
「ん。」
まるで自分のものだと主張するように僕の腕を取った。
「「あー!」」
「「おー!?」」
込められた感情の意味合いが違う叫びが上がった。
「あうぅ、柚木さんが、半場君を…」
「…そういうことね。」
「半場の野郎ー!」
「修羅場、修羅場よ!」
「にゃはは、ハーレム。」
中山さんは面白がって抱きついてくるし
「ジゴロって半場みたいな男を言うんだな。」
芦屋さんはしみじみと何かを悟っていたり
「これは面白いことになってきたわ!」
久住さんのテンションは急上昇。
「…。」
「…。」
東條さんと明夜もなんだか睨み合っていて尋常ではない感じがひしひしと伝わってきた。
(なんなんだ、いったい!?)
クラスが阿鼻叫喚の様相を呈してきた。
ボトッ、鞄の落ちる音でクラスが静まり返った。
皆が振り返った先には遅れてきたヒーロー、僕の救世主である芳賀君が驚愕した様子で立っていた。
(助けて、芳賀君!)
言葉ではなく目で訴えかける。
芳賀君は顔を俯かせて拳を震わせている。
皆が芳賀君の動向に着目し、緊張が最高潮に達した時、芳賀君が顔をあげた。
ブワッと瞳から涙が溢れ出す。
「陸の、裏切り者ー!」
芳賀君は涙の軌跡を残して走り去っていってしまった。
ポカンと見送った皆は熱が冷めたのか日常に戻っていく。
残されたのは
「…。」
左腕にしがみつく明夜と
「りく。」
いつの間にか右腕に抱きついていた東條さん、そして
「柚木さん、八重花ちゃん…。」
正面で瞳を潤ませる作倉さん、そして
「はは、もうなんでもいいや。」
自棄になる僕だけだった。
チャイムと先生の登場でクラスに帰っていった明夜だがほんのり納得がいかない顔をしていたのでまた来ることが予想できた。
正直気が重い。
芳賀君はホームルーム中に帰ってきたが泣き腫らしたように目が赤かった。
授業が始まるとクラスは静かになり、僕は最後列から皆の後ろ姿を眺めている。
(どたばたしているな。)
それでも騒がしいだけなのでましだ。
今朝の夢のようなことは、たとえあれが現実とはかけ離れているとしても、起こらないでほしいと願う。
外は秋晴れで日中でも少し肌寒くなってきたのに校庭では女子がマラソンをしていた。
1年1組と2組の女子のようで神峰と下沢の姿が見える。
快活に速いペースで駆ける神峰に対し下沢はあくまでゆっくりマイペースに走っている。
両者の性格が垣間見えるようだった。
(ヴァルキリーはどう攻めてくる?)
神峰、等々力による直接的な攻撃と下沢の精神攻撃。
そのどちらも退けたとはいえまだ彼女らの底は見えていない。
いざという時のために策を練っておかないと瞬く間に殺されかねない。
(こっちには由良さんと明夜がついてくれたとはいえ、戦力差は否めないか。)
現状で全面戦争となれば戦力外の僕がどうにか1人相手に出来たとしても由良さんと明夜には3人を相手して貰うことになる。
1対2ですら厳しい戦いが予想されるのだから1対3は絶望的だろう。
(仲間を増やせればずっと楽になるのに。)
厳しいことに変わりはないが絶望的よりは勝算がある。
しかし僕にはソルシエールを持つ者の総数を知らない。
もしかしたら気付いていないだけでたくさんいるのかもしれないが気付いていないのだから知らないと同じだ。
だから僕が唯一知っている人に頼るしかない。
(明夜を仲間にしてレベルは上がったはず。蘭さんと話をしよう。)
とりあえず方針を打ち出して顔を前に向けると額に青筋を浮かべた厳しいことで有名な数学の先生がこちらを睨んでいた。
「テスト前だというのに余裕そうな半場君にはこの問題を解いてもらいましょうか?」
こうして僕は考察の代償として数学の難問に挑み、見事…撃沈されたのであった。
「りく、ご飯よ。」
昼休みになるとすぐに東條さんが僕の逃亡を阻むように立ち塞がった。
本当に鋭い人だが最近微妙に冷静さが欠けてきた気がする。
「八重花ちゃん。半場君に無理を言ったらダメだよ。」
常識人の作倉さんが止めに入ってくれるが東條さんは嘲るように首を横に振った。
「ここでりくを逃せば、柚木明夜に取られるだけ。」
「!?」
作倉さんの顔が驚愕に染まる。
空をさ迷うように動いていた手が僕の服の袖をちょこんと掴んだ。
「それでいいわ。」
東條さんは満足そうだったが
「多分もうすぐ明夜が来て結局みんなでご飯を食べることになるよ。」
僕は水を差すことにした。
「…それは予言?」
残念ながらこれはInnocent Visionではなく僕が経験則だったが的中率はなかなり高いと思う。
僕が口を開く前に教室の前のドアから明夜が入ってきた。
その感情に乏しい瞳が左右に女の子を侍らせた僕に向けられ、わずかに細められた。
「陸、ご飯。」
「…。」
「ほらね。」
「み、みんなで行きましょう。」
東條さんと明夜は無言でにらみ合い、作倉さんが仲裁に入る。
結局僕の予想通り、東條さんと明夜の鞘当てが続きながら食堂へと向かったのだった。
そんな僕らに続く形で
「ちょっかい出せない雰囲気ね。」
「にゃはは、除け者だ。」
「八重花、本気なのかな?」
微妙に輪から外れた3人と
「陸ー。」
さらに後ろでメソメソしている芳賀君がいたのだった。
「八重花は半場くんのどこが好きなの?」
「げほっ!」
なんとなく空気が重くて口数の少ない昼食の最中、突然の久住さんの質問に僕は咳き込んでしまった。
当の東條さんが平然としているのは理不尽だ。
「…体ね。」
「体目当て!?」
僕も久住さんもビックリの回答に東條さんはにやりと笑う。
「八重花。叶が煙吹いて倒れるような冗談を言わない。」
芦屋さんの言葉通り、作倉さんは顔を真っ赤にして手で覆っていた。
「本当は体ではなくてその精神に惹かれたの。」
好意を持たれていることは目に見えていたが惹かれていると言葉で告げられると恥ずかしいものがある。
「逆境における心の強さ、窮地においての冷静な判断力、あと少し自分を卑下する所もいいわ。」
東條さんの言い回しはまるで僕が戦っている姿を見た感想のように感じられた。
(まさかね。)
疑念を内に押し込めて好いてくれる女の子に尋ねる。
「東條さんは初めて会った頃に比べて話すようになったね。明夜は相変わらずだけど。」
「ん。」
明夜は不快そうに声を漏らしたが東條さんはそれを流し見て笑う。
「待っていても好かれるなら何もしない。そうでないなら振り向かせないといけないから。」
表情はあくまで冷静なまま瞳には熱い情熱を宿した東條さんはしっかりと僕を見詰めている。
「日曜日のデート、楽しみね。」
さらにこのいたずら心である。
「!」
「ええ!?」
「おお、八重花が本気だ!」
「にゃはは、四角関係。」
「いつの間に。」
騒乱を楽しむように人心を操る東條さんを見て底の知れなさに恐怖を抱きつつ
(ただの買い物じゃなかったのかな?)
という今さらの疑問を口にする勇気はなかった。
騒がしく教室へと帰っていく一行を見送る人影があった。
下沢悠莉である。
悠莉は楽しげに前を行く陸たちを微笑ましげに眺めていた。
頬に手を当てて目を細める仕草や表情はかしましい娘たちに囲まれた少年を祝福しているように見えるが
(ああ、半場さん、あんなにデレデレして。あの緩みきった顔を屈辱に歪ませ、楽しげな心を私の従属させたいです。)
中身はとても下沢悠莉らしかった。
その逆の意味で恍惚とした悠莉の頭を神峰美保が小突く。
「痛いです、美保さん。」
「思考が口から漏れてたわよ。」
美保の指摘に悠莉は軽く口に手を当てる。
美保は獰猛な目をスッと細めて陸の背中を見た。
「楽しそうね。柚木明夜と羽佐間由良を仲間に入れて余裕ってこと?ヴァルキリーもなめられたものね。」
「それはどうでしょうね?私は今も楽しそうにしている裏で何か良くないことを考えていそうに思いますよ。」
インヴィの能力も半場陸としての底も分からない彼女らは無為な憶測を述べることしかできない。
「…あんたみたいにね。」
「酷いですよ、美保さん。」
2人は笑いながら去っていく。
敵の存在を確固としながらもあくまで“人”として。