第26話 青き闇
(またか。)
僕は夢の中にいた。
ここは地平線の彼方まで何もない砂漠。
風すらも吹かないこの場所は死んでいるという表現が正しい気がした。
その何もない世界に僕はいた。
実際は知覚だけなのかも知れないが夢なのだからどちらでもいいことだ。
僕の目の前には女の子が立っていた。
(また女の子か。)
最近女難の相でも出ていそうだからそのうちお祓いでも受けようと思っていた。
その思いが強くなった。
目の前の女の子は知り合いにはいない、知らない子だった。
銀の腰までありそうな長い髪を無造作に広げてよれよれのワンピースを纏う姿はみすぼらしいがこの世界にはぴったりだった。
(どうしたの?)
声を出そうとしたが空気が震えない。
僕がここにいないのだ。
(え?)
そこで初めて僕は気づいた。
今の僕が考えたように動けている。
(Innocent Visionじゃない?)
「ここは夢よ。」
声にならない心の呟きに女の子は確かに返事をした。
Innocent Visionを除けば明晰夢なんて見たことがない。
そしてこの夢はInnocent Visionと同様にあまりにも現実的すぎた。
(君は誰なんだ?)
またも声にならなかったが女の子には伝わったようで小さく笑った。
ただ答えはなく
その左の瞳だけが深い朱に輝くのを見た。
目が覚めると微妙にレッドラインに突入しそうな時間だった。
慌てて跳ね起きてバナナを牛乳で流し込み身嗜みを整えてダッシュで家を飛び出す。
「よし、この時間なら、走れば、間に合う。」
悲しいかな経験則でデッドラインが分かってしまうようになってしまった自分を嘆きつつ学校までの道行きを駆け抜ける。
朝から酸素を欠乏させているうちに今朝の夢は忘れてしまった。
教室に到着したのはホームルーム直前だった。
席につくと芳賀君がこちらを向いた。
「朝から健康的だな。」
「…運動不足気味だからね。」
芳賀君の皮肉にも反応できるくらい体力がついたらしい。
これまでは机に突っ伏して呻くだけだったのだから。
「でもちょっと遅かったな。ちょっと前まであの下沢悠莉が待ってたぞ?」
火照った体が一気に冷えた気がした。
(下沢が僕を?)
あれだけお嬢様を具現化したような下沢が待っていた、それは普通の男子なら心踊る気分だろう。
だけど僕は当然そんな楽観的なことは言っていられない。
担任の高村先生がホームルームを進めているが僕は耳にすら入れず考えていた。
(直接来たか。それとも搦め手のための交渉か?)
ソルシエールを使って攻撃してくるためには人気のない場所を選ばなければならない。
堂々と朝に会いに来たということはこの間の海原のように何かを伝えに来たと考えるべきだろう。
「…というわけですからしっかりやっておいてくださいね。」
「?」
いつの間にかホームルームは終わっていてクラスメイトはどこか真剣な様子だった。
命の危険も怖いが大切な連絡事項を聞き逃して学業で大変な目に会うのも恐ろしい。
「芳賀君、先生なんだって?」
なので先生が出ていった直後芳賀君に尋ねた。
やはり持つべきものは前の席に座る僕を避けないでくれる友人である。
「何って、再来週の月曜日からテストがあるから勉強しとけって話だろ?なんだ、寝てたのか?」
芳賀君は呆れ顔で苦笑した。
「テストか。」
高校に入ってからは初めてのテスト。
授業にはなんとかついていけてるがテストで解けるかは別問題だ。
「テスト…」
「ふっふっふ。お困りのようだね、半場くん。」
もうすぐ授業が始まるというのに僕の小さな呟きを聞きつけたのか久住さんが目の前に立っていた。
「テストがどんな感じのかわからないからね。」
「心配無用よ。たとえ神様が見捨てても私たちは見捨てないわ。」
「それじゃあ久住さんが教えてくれるんだ?」
それはすごく助かる申し出だった。
「んにゃ、教えるのは八重花と叶。私は生徒だから一緒にどうかなっていうお誘いよ。」
「…」
さっきの自信に満ちた様子は何だったんだろう?
チャイムの音に久住さんは急いで席に戻っていった。
何にしてもテスト対策の話を持ってきてくれた久住さんには感謝だ。
(何か見返りを求められそうで怖いけど。)
一応お礼は考えておこう、作倉さんと東條さんには。
僕はそれを念頭に起きながらも顔を引き締めた。
(でも、今はそれどころじゃないんだ。)
下沢悠莉、ヴァルキリーの1人に対抗するための手段を僕は授業中ずっと考えていた。
「半場さんはいらっしゃいますか?」
鈴の鳴るような声が昼休みを迎えたばかりの教室に広がった。
喧騒が一瞬にして止み、皆の視線が入り口のドアへと向けられる。
そこには深窓のご令嬢と呼ぶべき美少女、下沢悠莉がドアに身を隠すようにして立っていた。
下沢は僕の姿を確認して笑顔になった。
数人の男子がのぼせ上がる。
(来たか。)
用があったのだろうから来るとは思っていた。
僕は席を立ってドアへと向かう。
「半場。」
「ん?」
芳賀君に呼ばれて振り返ると彼は親指を立ててウインクしていた。
「やっちまうならバレないようにな。」
僕はにこりと笑って同じように親指を立て
「スケベ。」
グリンと手を回して親指を下に向けた。
「うわぁ!半場ァ!」
周囲からの冷たい視線に晒されて悲鳴をあげる芳賀君を無視して僕は教室を後にした。
連れてこられたのは校庭の片隅、人気はないが一応校舎から見える位置なので教室から数人の野次馬が顔を覗かせている。
「もっと人気のない場所を選ぶと思っていたよ。」
「はい?」
下沢は小首を傾げた。
下沢と僕の距離は2メートル程度、下沢の持つソルシエールなら僕を殺せる距離だ。
「戦闘になるなら目撃者がいるとお互い困るよね?」
もっとも戦闘となれば僕は一方的な被害者になるだろうから困るのは下沢だ。
だというのに下沢は風に靡く肩で切り揃えた髪を押さえながらたおやかな笑みを浮かべた。
「それではまるで、私があなたを殺そうとしているみたいじゃないですか?」
「…違うの?」
下沢は頷くとゆっくりと歩いて近くの木に手を当てた。
「私はやはりヴァルキリーには半場さんの予知能力が必要だと思うんです。」
「断ったはずだけど?」
下沢はくるりと振り返って笑みを浮かべ
「反抗的な態度を取る相手を屈服させて服従を誓うまでに仕立て上げる、素敵だと思いませんか?」
無垢な笑顔とは真逆の嗜虐に満ちた瞳に悪寒が走った。
直接的な肉体の死に対する恐怖ではなく、心が折られる精神の死に対する恐れ。
下沢悠莉の抱く負の感情はどうやら嗜虐のようだった。
「…どこかに監禁して拷問でもするつもり?」
拷問と聞いて下沢は恍惚とした表情で身を震わせた。
普通に見れば色っぽいのだろうが今は底が知れないので怖くて仕方がない。
「拷問、いいですね。電気椅子に三角馬、水車に張り付けて服従を誓うまで何度も水を潜らせるのもありですね。鉄の処女は死んでしまいそうですがくすぐり地獄もいいかもしれませんね。半場さんはどれがお好みですか?」
キラキラと瞳を輝かせて尋ねてくる下沢はどこかが壊れているとしか思えなかった。
詰め寄ってくる下沢から距離を取って首を振る。
「拷問を受けるつもりはないし屈服する気もないよ。」
「そう、ですか。」
下沢は残念そうに目を伏せ、ゆっくりと僕に近づいてきた。
神峰や等々力のような直接的な殺気とは違う足元からにじり寄ってくるような怖気に足が自然と後ろに向かう。
「話は終わったよね、それじゃあ…」
「まだですよ?」
顔をあげた下沢の左目が朱に輝き口許が歪み、そして左手に幅広の刀身に象形文字のような刻印が彫り込まれた下沢のソルシエールが顕現した。
「サフェイロス。」
「こんな所でソルシエールを出したら…」
言いかけたところで僕はいつの間にか校庭脇に植えられた木の陰に追い詰められていたことに気づいた。
この位置からだと木が邪魔で教室が見えない。
それは裏を返せば教室からも僕たちの姿が見えないと言うことだった。
(校庭だから平気だろうって油断した!)
下沢はゆっくりとした動作で僕の胸にサフェイロスの切っ先を突き付けた。
クレイモアのような巨大な剣を華奢な下沢が構えている姿はすごく違和感がある。
「…僕を殺すのか?」
もはやこの状況では僕にはどうすることもできない。
目の前の刃を突き出したまま下沢が一歩前に出れば僕の心臓は貫かれて絶命するだろう。
しかし下沢は穏やかな微笑みを浮かべて首を振った。
「言いましたね?私は半場さんを手に入れたい。ですが半場さんはそれに反抗した。反抗する相手と屈服させる目的があるのですよ。」
下沢がサフェイロスを天に向かって掲げると刀身の文字が青白い光を放ち出した。
「グラマリー・コラン-ダム。」
その言葉が紡がれた瞬間、僕の周りに半透明な青色の6枚の壁と上下の蓋が現れた。
「なんだ、これ!?」
抜け出そうとするがすでに周囲は覆われてしまい叩いたところでびくともしない。
そして壁の向こうに見えているはずの景色が大きくなっていくように見えて下沢の足が柱のように巨大になっていく。
(この空間が小さくなっている?)
壁が徐々にくすんだ灰色に変わっていく。
そして変化が収まったとき、この小さな世界は闇に包まれた。
どれくらいそこにいたのだろう。
時間も空間も判断できず、自分が瞳を開いているのかも定かではない世界は不安ばかりを駆り立てた。
「僕はどうなるんだろう?」
言葉に出したはずなのに反響しないので声が出ていたかどうかも分からない。
立っているはずなのに足の裏に地面を蹴る感覚はなく浮かんでいるのか、ずっと落ち続けているのかもわからない。
それを知る術がないのだから確認のしようがない。
目も耳も鼻も手も、五感すべてが意味をなさないここは自分が存在しているかもあやふやな地獄だった。
「これがコラン-ダム。」
無知覚空間は確かに拷問以外の何物でもなかった。
ならば脱出方法は下沢に屈するしかないのかもしれない。
「いや、負けられない。」
僕は膝を抱えて蹲る。
自分の体を触れられる感覚だけを心の支えにして僕は無の世界と戦っていた。
それからどれくらいの時間が経過したのだろうか。
気が狂いそうな静寂の中
「どうですか?私に従う気になりました?」
下沢の声が聞こえてきた。
この状況に陥れた張本人の声に安堵してしまっている自分を隠して強気に対応する。
「いつまでここに閉じ込めておく気だ?何日も帰らなければすぐに…」
「ふふふ。」
捜索願いが出されれば不利になるのは下沢だというのになぜか余裕の笑い声が聞こえてきた。
「何日、ですか?まだ5時間目が終わったばかり、半場さんがそこに入って1時間くらいですよ?」
「え?」
絶望的な気分になる。
下沢が嘘をついている可能性もあるが真実かもしれない。
その場合夜までここに閉じ込められていたら体感時間ではかなりの長期になる。
それを耐えきれるかは不安だった。
「僕はこんなものには屈しない。」
「ふふふ、強がっているのが見え見えな相手は可愛らしいですね。」
再び嗜虐心に暗い笑みを浮かべているであろう下沢の姿が容易に想像できた。
「どこにいるのかは知らないけど左目が光ると怪しまれるよ?」
「そ、そうでした。ありがとうございます。」
(しまった、落ち着かせてしまった。)
わざとバレさせて下沢を慌てさせれば活路を見い出せたかもしれなかったと今更ながら後悔した。
「…早い人ならもう服従を誓うのですが、さすがインヴィです。」
下沢の声質が変わった。
パキンと何かが割れる音と共に周囲の闇がガラスのように崩れ落ちていく。
「ならば精神だけでなく肉体も責めてあげましょう。ああ、半場さんがどんな声で鳴いてくださるか楽しみです。」
闇が取り払われた世界は白と黒のタイルがチェック柄に並んだ正方形の部屋だった。
そして壁には赤と青の扉がある。
「扉が見えますか?正解の扉を開くと次の部屋に繋がっていますが不正解ですと拷問です。10の部屋を正解できましたら出してあげましょう。」
その言葉を最後に下沢の声は聞こえなくなった。
残された僕はグッと拳を握り地面を蹴る。
感覚があるだけさっきよりはましだ。
「絶対に出る。」
僕は決意と共に赤い扉を開き、
洪水のような水攻めに遭うのだった。