第171話 空から来た海
世界から赤が消えて暗い闇が訪れた。
それだけなら喜ばしいことだがこの闇は違う。
夜ではなく闇。
生き物の気配のしない闇は赤い世界以上に不気味だった。
琴は鳥居の下で変容した世界を見上げていた。
隣にあった姿はない。
「叶さん。やはり貴女が求めたのは陸さんを癒す力ではなく、守る力だったようですね。」
琴は叶を責めているわけではない。
わかっていたことだ。
叶がこの場に留まらない選択をすることは叶が陸と出会った瞬間に決まっていたのだから。
「叶さんの未来を占ったときに必ず通過する分岐点。それが今だったのでしょうが、叶さんはいつも進むことを選んでいました。これが予知ではない、運命と呼ばれるものなのでしょうか。」
呟いたところで答えがあるわけではない。
見上げた空は暗く、世界の終わりを暗示しているようにも見えた。
「どうかご無事で。陸さん、叶さんをお願いします。」
言の葉は虚空に消え、思いは飛んだ。
琴はその場を動かずただ時を待ち続ける。
戦場に降り立った1つの存在に遠方で戦っていた悠莉と八重花も気が付いた。
対決していた美保と良子はどちらもコラン-ダムのお仕置き空間に放り込まれている。
「赤い世界が消えた。魔女の脅威は去ったのでしょうか?」
「どうかしら?少なくともこんな薄気味悪い場所が元の世界だったなんて思いたくはないわね。」
周囲を警戒するもののさっきまで溢れていたデーモンやジェムの気配がパッタリと途切れてしまった。
まるで最初からいなかったように。
あるいは赤い世界からこの世界に放り出されてしまったように。
「…。」
考えたところで情報のない現状から答えを導き出せるとは思えない。
八重花はすぐに思考を中断した。
「悠莉、りくたちが向かった方向で何かが落ちてきたのは見たわよね?」
「八重花さんが見ていたのなら見間違いでは無いようですね。空からの落とし物。勝利した人類に対する神様からのプレゼントでしょうか?」
悠莉は全く信じていない口調で嘲るように言う。
それを聞いた八重花も苦笑を漏らした。
「もしもそうなら、あれはとっておきのパンドラの箱ね。…嫌な予感がするわ。行きましょう。」
2人は真剣な顔で頷き合うと現場に向けて駆け出した。
「葵衣、何があったのです?」
緑里を支えながら歩いてきた撫子は"Innocent Vision"を追わずに立ち尽くしていた葵衣に声をかけた。
普段なら声をかける前に振り返るような鋭敏な感覚を持つ葵衣が呆けたまま反応しない。
「葵衣?」
訝しむ撫子は葵衣の肩を叩いた。
「ひゃあ!?」
それは葵衣から出たとは思えないくらいに乙女の悲鳴だった。
それこそ物心つく前からの付き合いである撫子でさえ、さらには生まれた瞬間から一緒だった緑里ですら聞いたことのない声に面食らったが当人は心臓を押さえて身を屈めていた。
緑里が撫子の手から離れてしゃがんだ葵衣に抱きつく。
「しっかりして、葵衣。ボクがわかる?」
「姉、さん?」
焦点がぶれていた瞳にようやく光が宿りわずかに落ち着きを取り戻した葵衣は深いため息をついた。
その何もかもが葵衣らしくない。
「先程何かが空から落ちてきたように見えましたけどあれは一体なんだったの?」
撫子もすでに葵衣の変調がそれによるものだと気付いていて真面目な顔をして尋ねた。
だが葵衣はフルフルと首を横に振るばかりで口を開かない。
「葵衣。なら別の質問です。半場さんは、"Innocent Vision"はどうしたのですか?この場にいないのならどこに行ったの?」
葵衣はなおも首を横に振るのみ。
要領の得ない状況だが緑里が抱き締めていてなお震え続ける葵衣を見ると強く追求することも出来ない。
撫子は親指の爪を噛んで考える。
(葵衣の尋常ではない怯え方。実戦訓練すら経験した葵衣が恐怖する相手となると…とうとう魔女が現れたというのですか?)
これまでにソルシエールを与えられたとき以外には姿を見せなかった魔女が出てきたとなれば最後の戦いは目前にまで迫っていることを示している。
(しかし、魔女が現れただけで葵衣がここまで怯えるのかしら?)
葵衣も魔女の姿を知っているしあれだけ物々しい登場では魔女の出現を予想できたはずだ。
(魔女ではなく、本来ならあり得ないものを見た?)
撫子が答えを導くには決定的なピースが足りていない。
「…海…」
「?」
だからこそ決定的な答えである葵衣の呟きを前にその重要性を理解できない。
「海、ですか?」
「悠莉さん。それに東條さん。」
そこに悠莉と八重花が合流してきた。
撫子は2人が陸に入れ込んで美保や良子と敵対した挙げ句コランダムに放り込んだことを知らないためあくまでヴァルキリーの仲間として迎えた。
尤も美保に関しては謀反をしてきたのだから体裁上は粛正として問題はなかったが。
「りくはどこ?」
八重花は挨拶もそこそこに周囲を見回して陸を探す。
だが陸はおろか"Innocent Vision"の姿もない。
「わたくしたちが到着したときにはいませんでした。葵衣は一緒にいたのですけれど今はこの通り怯えていて。」
葵衣は向けられる視線から逃げるように緑里の胸に額を擦り付ける。
普段の冷静無敵な葵衣とはまるで違う様子に悠莉と八重花は顔を見合わせて目をしばたかせた。
「花鳳様。先程の海というのはどういう意味なんですか?」
悠莉は妙に気にした様子で尋ねたが
「わたくしにもわかりません。まともに話もできない状況が続いています。」
撫子も首を捻るだけ。
進退極まった状況で真っ先に動いたのは八重花だった。
ジオードを手に葵衣に近づいていく。
「拷問か焼き入れか、とにかく別の刺激を与えて口を割らせるしかないわ。」
「だ、だめ!葵衣はやらせないぞ!」
緑里はギュッと葵衣を抱き締めて八重花から遠ざける。
だが体勢に無理があって葵衣の首を極める格好になってしまったが八重花は突っ込まない。
「……む…」
葵衣が気道を塞がれて静かに苦しんでいるが普段物静かだったり現在放心中だったりするため気付かれない。
だんだん顔色が青くなっていくのに正面にいる悠莉は珍しく難しい顔で考え込んでいて気付いていない。
「姉さん…苦し…」
葵衣がようやく正気を取り戻して緑里の腕をタップした直後
「!思い出しました。海。」
悠莉が記憶の底から答えを引きずり出した。
悠莉の珍しい声に驚いた緑里はぐっと腕に力を込めてしまい葵衣は落ちかけたが…それは余談。
「悠莉さん、何を思い出したのですか?もしや"Innocent Vision"は海に向かったと?」
答えにたどり着いた悠莉は葵衣同様信じられないと言った様子で放心していたが決意したように強く頷いて口を開いた。
「…海という単語は以前半場さんにコ-ランダムを掛けたときに抜き出したものです。半場さんの心の奥底に根付く闇。」
ごくりと八重花が固唾を飲んで陸の未知に耳を傾けた。
「半場海、半場さんの双子の妹さんで亡くなったようでしたが…葵衣様が見たのは…」
「はい。ご本人が名乗り、そして半場様が認めていました。空から落ちてきたのは半場様の御兄妹です。」
それもすでに信じられない話ではある。
もしも死んだはずの海が降ってきたというのならあの空はあの世へと繋がっていることになる。
「ここで何があったのかお話しいたします。そして…」
続けて葵衣は震えながら告げた。
「彼女は、敵です。人類の。」
空から降ってきた棺から海が出てきた時、"Innocent Vision"の皆は絶句していた。
不気味な匣から出てきた人間であることもそうだし、何より僕を兄と呼んだのだ、混乱しないわけがない。
海はキョトンとした顔で小首を傾げる。
「お兄ちゃんは驚かないんだね?」
こうして話してみると本当に海だ。
「…こうなる予感はしてたからね。」
「そっか。お兄ちゃん、未来が見えるんだもんね。」
事も無げに海は言う。
確かに生きているうちに未来視の話をしたこともあるが…そうじゃない。
海はInnocent Visionを知っている。
「せっかくの再会なのに、お兄ちゃんあんまり嬉しそうじゃないね。」
海は悲しげに俯く。
罪悪感が鎌首をもたげてくるが僕の足は前へは進まない。
ぐっと拳を握って堪えていると俯いていた海はクスクスと笑い出した。
「分かってるよ、お兄ちゃん。それで、周りにいる人たちはお兄ちゃんのお友達?あ、それとも彼女さんかな?」
「彼女。」
「彼女だよ。」
「か、彼女だ。」
「えーと、そうなれたらいいな。」
海の冗談のような問い掛けになってようやく口を開いた皆は揃いも揃ってとんでもないことを口にした。
「ちょっとちょっと!いきなり僕の立場をどん底に突き落とすような事言わないでよ!」
ここにいる全員が彼女なんて公認四股の変態野郎だと言っているようなものだ。
妹に兄の変な姿を見せないでいただきたい。
「えー、りっくんの妹さんなら取り入っておいた方が将来のためになるもん。」
蘭さんは正直に打算的だ。
真奈美が一番初々しくて癒されるが
「お兄ちゃん、私がいない間にすっかりプレイボーイに…。」
海が若干引いていた。
「すでに遅かったか。」
割と本気で落ち込んでいるのだがどうもギャグになりきれないでいる。
だって蘭さんも由良さんたちも、軽口を叩いていながらも1歩たりとも近づこうとしない。
妹である海に取り入る様子なんてまるでない。
表面上談笑をしながらもその裏にあるのは警戒と腹の探り合いだ。
僕たちの後ろにいる海原葵衣は海を警戒しているようで今にも攻撃を仕掛けそうな雰囲気だった。
「まあ、お兄ちゃんが引きこもりから立ち直ったなら嬉しいよ。」
「海のおかげだよ。」
これは本心だ。
海が生きていたときには気づかなかったが海は"化け物"の僕を恐れずに話しかけてくれていた。
その海を失って僕は無意識に人との接触を望んでいたのだろう。
だからこそ今僕はここにいる。
海は驚いた様子で目を丸くして、恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。
「や、やだな。そんな風に言われると照れちゃうよ。」
僕とは違って両親に誉められなれているはずなのに僕が褒めたりお礼を言うとすぐに照れるのも海の癖だ。
本当に、見れば見るほど海にしか思えない。
「ところでさ。」
それまで笑っていた海が突然笑みを消して目を細めた。
ゾワリと背筋に冷たい感覚が走り、足が地面に縫い付けられたように動かなくなる。
「後ろの人、お兄ちゃんの友達じゃないよね?」
「…」
答えられない。
関係性が微妙だからという意味ではなく、口すら満足に動かせないほどの圧倒的な存在感、威圧感が海から放たれていた。
その無言を肯定と取ったのか海はすっと手を前に突き出す。
その手はまっすぐに海原に向けられていた。
「お兄ちゃんを苛める奴は…みんな…」
「に…げ、ろ!」
「消えちゃえ!」
「っ!」
僕の叫びを聞いて海原がウインドロードを展開して飛び込んだ。
風の力で空間の大気を操り超高速移動を可能とするグラマリーは回避に使えば無敵の技だ。
シュン
だが、海原が飛び込もうとした風の道が海の手から放たれたキラキラと乱反射したような光の波動によって撃ち壊された。
放り出された形になった海原が放心した様子でゆっくりと振り返る。
海はなおも手を海原に向けたまま睨み付けていた。
「ひっ!」
海原があり得ないくらい怯えている。
僕も恐ろしいと感じていたがそれでも止めるために動こうとした。
それは海原を助けたいというわけじゃない。
海に人殺しをさせたくないという思いによる行動だった。
だが体が言うことを聞かない。
海は海原の額に手のひらを突きつけて感情のこもらない瞳で見下ろした。
「あ、うあ…」
普段冷静で感情を表に出さない海原ががくがくと震えている。
「海!」
僕はうまく動かない口で妹の名前を呼んだ。
海はゆっくりとこちらを振り向いて、手を下げた。
「ふぅ、ちょっと疲れちゃった。家に帰ろうか。お兄ちゃんのお友達も招待してね。」
海は相好を崩すとさっきまでの気配を微塵も感じさせない様子で家の方向に歩きだしてしまった。
「……。」
その行動の真意が全く読めず僕たちが身動きを取れずにいると海は立ち止まって振り返った。
「せっかくまた会えたんだからお話ししようよ。いろいろ話したいことがあるんだから。」
確かに僕も海に聞きたいことはたくさんある。
"Innocent Vision"の皆に確認する意味で視線を向けると全員頷いてくれた。
一緒に来てくれるのは心強い。
尤も海はそれをわかった上で皆を誘ったのだろう。
「よかった。それじゃあ早く行こ。」
海は楽しそうにスキップしながら先へ先へと行ってしまう。
海原が気にはなったがさすがに連れて行くわけにも行かない。
目的地は分かっているから別にいいがあまり遅くなると僕もあの光で攻撃されるかもしれない。
仕方がないので海原を放置して僕たちは海の後についていく。
「陸、気を付けろよ。」
「…わかってるよ。」
由良さんの忠告を僕は苦々しい顔で頷いた。
「さっきの攻撃、ソルシエールは見えなかったけどグラマリーだった。」
明夜も僕の脇に立って先程の海の攻撃について忠告してきた。
「そう、みたいだね。」
「りっくん、御家族に挨拶しに行くならやっぱりお土産が必要かな?」
蘭さんが腕に抱きつきながら尋ねてきた。
「…この状況でいつも通りの蘭さんを尊敬するよ。」
「えへ、褒められた。」
蘭さんはつくづく大物だ。
そして
「半場、大丈夫?」
「ありがとう、真奈美。その気遣いで十分癒されるよ。」
「それはよかった。」
真奈美は僕を心配してくれている。
いつの間にか団子状態で歩いていた僕たちの方を振り返った海はクスリと笑い
「仲良しなんだね。羨ましい。」
ただ楽しそうに笑っていた。