第168話 戦場を離れて
「ン…」
鼻が触れ合うどころか肌や唇の感触がわかるくらい近くに由良さんがいる。
近すぎるが覗き込んだ瞳にはありありと困惑と羞恥の感情が浮かんでいて、そこに復讐に燃える黒い炎はない。
「うー、ん…むぅ…」
正気に戻ったのかさっきとは違う意味で抵抗しようとしているみたいだったがここまでやってしまったので折角だから由良さんの触れた感触を楽しむ。
後で怒られるなら役得を先に貰ったっていいだろう。
別にキスをしたかった訳じゃない。
いや、由良さんみたいな綺麗な人としたくないという意味ではなく、ただ不意討ちで意識を別の事柄に向けさせようと思っていただけだ。
だから抱き締めて動きが止まったところで歯の浮くような台詞とかとっておきの面白い話をしようと思っていたのだが、思った以上に由良さんが暴走するのが早かったため結局力ずくになってしまった。
初めてにしてはえらく濃厚な口づけを終えると由良さんは少しボーッとした様子で目ではなく顔を真っ赤にしたまま僕を睨み付けていた。
「陸…覚えてろよ。」
苦し紛れの抵抗は拗ねているみたいで大変可愛らしい。
僕としても初めての事なわけだが状況が状況なのと由良さんが動揺してくれたおかげで思いのほか落ち着いている。
「うん。今のファーストキスは忘れないよ。」
自分でも歯の浮きそうなセリフだと思うがボッと火を噴きそうなほど由良さんが首まで真っ赤に染まってヘナヘナと膝をついた。
どうやら完全に元に戻ったようだ。
ほっと一安心して由良さんから離れた。
「りっくん!」
駆け寄ってくる蘭さんたちに作戦成功を伝えようと振り返ったら
「おぶふっ!?」
蘭さんの人間ロケットがまともに腹に直撃して吹き飛ばされた。
「ぐふぅ。」
背中から落ちた直後に腹の上にも衝撃が来る。
蘭さんが馬乗りというかマウントポジションで、笑っている。
目の端をひくつかせながら。
「蘭、さん?」
蘭さんの背中に嫉妬の炎が赤い空を揺らめかせて見えるようだ。
むしろこのまま倒れこんできてキスしようとするので肩を押し返してどうにか留める。
「(ドキドキ)」
「真奈美、見てないで助けてよ。」
蘭さんの向こうに見える真奈美も頬を赤く染めて興味深そうに成り行きを見守っているだけで助けてくれる様子はない。
「りーっくーん?どうして由良ちゃんにだけキスしたのかなー?」
「Innocent Visionで見た方法で助けただけだよ。」
嘘だったがそれを証明できるのは僕だけだから真実と変わらない。
蘭さんは不服そうに口を尖らせる。
やはり僕の言葉だけでは信じられないらしい。
「それにあれは正気に戻すためにやったことだから。ねぇ、由良さん?」
首を巡らせて由良さんに助けを求める。
蘭さんがこんなで真奈美もあてにならない上にヴァルキリーの2人が冷たい目でこちらを見ている以上頼れるのは由良さんだけだ。
ペタリと地面に女の子座りしていた由良さんは僕と目が合うと頬を赤くしてプイと顔を背けた。
(その反応は…由良さん?)
「そ、そうだ。あ、ああ、あれはキスじゃないんだからな!」
((ツンデレキター!))
たぶん蘭さんと僕の心の声がシンクロした。
予想だにしなかった由良さんのめちゃくちゃ可愛らしい反応に蘭さんも唖然としていた。
その隙に僕は蘭さんを持ち上げて抜け出す。
蘭さんは不満げだったがそれ以上突っかかってくることはなく、真奈美が手を貸して由良さんは立ち上がった。
由良さんの目はヴァルキリーの2人に向いている。
敵が目の前にいるならば由良さんは戦おうとするかもしれない。
その動向を警戒しながら、場合によっては止めに入るつもりで見守っていたら
「…迷惑をかけたな。すまない。」
由良さんは深く頭を下げた。
「りっくん、大変だよ!まだ由良ちゃんおかしいままだよ!」
「くっ、やっぱりあれくらいじゃ衝動は押さえきれなかったみたいだ。」
僕と蘭さんは驚きのあまり錯乱してしまった。
「…あんなこと言ってますけど、いいんですか、由良先輩?」
「…俺もらしくないと思ってるよ。」
騒がしい"Innocent Vision"を前に花鳳と海原はすっかり戦う気を失ったようだった。
「わたくしたちは貴女を殺すつもりでしたので礼を言われることではありません。それでは改めて"Innocent Vision"とヴァルキリーの戦いを…」
アヴェンチュリンを構える花鳳だったが攻撃を始めるよりも前に
「ガアアアア!!」
大音響の咆哮が体の芯までをも震わせた。
「何の音!?」
「アレだ!」
真奈美がキョロキョロと周囲を見回し、由良さんが離れたビルの方角を指差した。
そこには白と黒の巨人が壮絶な肉弾戦を繰り広げている光景だった。
「なにあれ!?怪獣大決戦?」
「蘭さん、何で目を輝かせてるのかな?」
「あれは、緑里のスペリオルグラマリー。」
「相手はジェムの集合体でしょうか?」
あまりにも桁違いの大きな戦いに驚いている僕たちとは違って前情報があった花鳳たちは冷静だった。
「しかし姉さんが毘沙門を使うほどとなるとデーモンの猛攻が予想されます。援護に向かいますか?」
海原は既に僕たちには構わず花鳳と会話をしていた。
ただ、こちらを無視しているというよりは海原緑里を心配しているだけので嫌な感じはしない。
「そうなると明夜の方も心配だね。由良さん、動けそう?」
なので僕たちもあえてヴァルキリーの意向を聞かずに話を進める。
そうすればなし崩し的にヴァルキリーとの戦いを避けることができるからだ。
由良さんは真奈美の肩に掴まったままだが
「当然だ。」
しっかりと頷いた。
無理をしているのはわかったが今は由良さんの強がりを信じるとしよう。
「真奈美、由良さんをお願い。蘭さんは先に行って明夜を助けてあげて。あ、それとも僕が支えて2人で行ってもらった方がいいかな?」
言ってから思ったが蘭さんと真奈美を先に行かせた方が戦いが楽になるはずだ。
ここは明夜の為にも2人に先に行ってもらった方がいいかもしれない。
「いや、真奈美でいい!」
「「ダメ!」」
名案だと思って提案したが皆に激しく抵抗されてしまった。
「?まあ、いいけど。」
そんなわけで蘭さんは一足先に明夜のもとに向かい真奈美と由良さんが後に続く。
僕は後を追う前に振り返った。
巨大な白と黒の巨人の戦いとその手前に見える2人の背中。
今守り手のない僕なら狙えるだろうに振り返る様子はない。
見逃してくれたのだと解釈して僕は由良さんたちを追いかけた。
明夜を助けるために駆けつけた僕たちだったが
「すごい…。」
「俺たちの助けなんか要らなかったか。」
僕たちの目の前では異形の群れを前に跳び、駆け、斬る1人にして2人の舞踏が行われていた。
剣を担う猛々しくも美しい舞いはデーモンやジェムを流れるように斬り倒していく。
疲れは見せているものの剣閃は淀みなく鋭く、アフロディーテの動きに揺らぎはない。
怒濤のように押し寄せる異形の波を明夜は左の刃一つで散らしていく。
表情を変えず、作業みたいにヒトだったものを切り捨てていく姿に僕は底冷えするような恐怖を感じた。
(明夜は人殺しじゃない。僕たちのためにデーモンを食い止めていてくれたんだ。)
デーモンが消滅すると噴き上がる闇色の靄が霧散するよりも早く生み出されるため濃くなっていく。
「とにかく明夜の加勢をしよう。真奈美と蘭さんは手薄な所に向かって。由良さんは力を回復させつつ音震波で狙撃。不測の事態にはInnocent Visionで対応するから。」
これが"Innocent Vision"の王道パターンだ。
全員が揃っているなら明夜と真奈美が前衛で由良さんが援護、蘭さんも援護や防衛に回るという布陣もある。
「明夜!」
僕が声を張り上げると明夜はピクリと動きを止めた。
猫が耳を立てて周囲を探るように首を巡らせて僕に気付いた。
同時に真奈美と蘭さんが近づいていくのに気付いたらしくアフロディーテを回収していた。
「さあ、デーモンを蹴散らすよ!」
目の前には黒き異形の大群。
だけど"Innocent Vision"の仲間が集った今、僕は恐れることなく向かっていけた。
"Innocent Vision"とヴァルキリーの戦場にデーモンが集まったことでようやく町の騒ぎは鎮静化し、太宮神社もわずかに落ち着きを取り戻していた。
不安になった子供や老人と話をして落ち着かせていた叶はようやく一息ついて本殿に足を運んだ。
年期を感じさせる殺風景な大広間には怪我をしたり気を失った人たちが野戦病院のように床に寝かされていた。
寒い時期だが暖を取る毛布類が圧倒的に不足しているためだった。
「裕子ちゃん、芳賀君…久美ちゃん。」
目覚める気配のない3人を見て叶は悲しげに目を伏せる。
芳賀は顔が歪むほどにボロボロで久美も元に戻ったとはいえ指先はかなりの重症だった。
(不安だったんだよね。)
いつも5人で一緒だったのに、仲が良いのは何も変わっていないのに、それぞれの中の優先順位が変わったためにバラけてしまった。
その中で久美が一番「友達5人で仲良く」を願っていたからいつ誰かが欠けてもおかしくない状況の不安に耐えきれなくなり、たまたま近くにいて裕子を奪った芳賀に怒りをぶつけてしまったのだ。
叶は傷のせいで唸る久美の額の汗を拭いてやり、額に張り付いた髪を鋤いてあげた。
「どんなことになっても私たちはずっと友達だよ。」
聞こえていないことを承知で諭すように声をかけると心なしか久美が微笑んだように見えた。
「ん…ここは…」
久美の介抱を終えて立ち上がろうとした叶は後ろから聞こえてきた声に座ったまま振り返った。
そこに寝かされていたのは叶とリボンだけが色違いの制服を着た少女で彼女は額に手の甲を当てながら現状を理解しようとしているようだった。
その相手を叶は知っていた。
「等々力良子先輩…」
叶は半分だけ振り返った体勢で呆然と固まった。
乙女会に所属していて、学校の女子にファンが多くて、そしてヴァルキリーのソーサリス。
八重花と同じ世界にいる人。
叶が動けずにいると視線に気付いた良子は首を動かして叶を見た。
「君は、たしか八重花の友達の…」
「作倉叶です。」
叶はその短いやり取りで少しだけ落ち着いた。
叶は陸たちの話を聞いていろいろと知っているが良子は叶の名前すら知らなかった。
怯える必要などないと理解したからだ。
「ここはどこなんだい?」
「太宮神社です。等々力先輩は気を失ったまま運び込まれたんです。」
その言葉で何があったのかを思い出した良子は苦笑いを浮かべて目元を腕で隠した。
「他のヴァ…ごほん、乙女会のメンバーはいるのかな?」
「いえ。少なくともここには来ていません。」
「そうか。」
短く呟くと良子は顔をしかめながら上体を起こした。
そのまま立ち上がって体調を確認する良子を叶は座ったまま見上げている。
「無理しないでって止めないんだ?」
「私はお医者さんじゃないので無理しているのか分かりませんし、場所が空けば他の方も寝かせてあげられますから。」
陸の敵だからか割と冷たい叶の言葉に良子はポカンとしたあと小さく吹き出した。
「へぇ、意外だ。」
「?」
小首を傾げる叶に良子は笑いかける。
「君はもっと臆病な人だと思っていたけど意外に逞しいんだね。」
バカにする風ではない素直な称賛に叶も笑みを返す。
「奥手なままじゃあの人の隣には立てませんから。」
陸の周りには強い女の子がたくさんいて彼を狙っている。
だから声をかけてもらうまで待つような受け身では他の子にも、陸自身にも置いていかれてしまう。
だから叶は変わろうと思って今も努力している。
陸の隣を歩くに値する女になるために。
「恋する乙女は強いんだね。」
叶の気持ちを代弁するようにもう一度笑った良子は叶に背を向けて出口へと向かう。
「あたしは一方通行の恋で強くなったのかな?」
最後に誰にも届かない呟きを残して良子は太宮神社から去った。
「よろしかったのですか?」
不意に声をかけられたが叶は動じない。
いつの間にか琴が近くに立っていても、琴先輩だから、と納得してしまっていた。
「等々力先輩もやるべきことがあるみたいでしたから止められません。それに、私たちが知っていることを知られるのは陸君たちに迷惑がかかります。」
「…叶さんは強くなったのか強かになったのか、どちらなのでしょう?もうすぐ時間的には夜になります。外にいらっしゃる方々を屋内に誘導しますのでお手伝いをお願いします。」
「分かりました。」
苦笑する琴に続いて叶も立ち上がる。
大広間を出る前にもう一度振り返って裕子と久美の顔を見た。
「…」
「叶さん?」
「はい。今行きます。」
神社の廊下を歩きながら縁側から空を見上げると相変わらずの赤い空だ。
陸たちはこの世界を救うために戦っている。
ヴァルキリーも自分たちの信念のために戦っている。
自分には何ができるのだろうと叶は悩む。
陸は帰りを待っていてほしいと言っていたがそれは以前の受け身の自分と同じではないかと。
(私は…)
自分にできること。
それが陸をどう助けられるか。
それを考えながら歩いていた叶は
「あうっ!」
琴が立ち止まっていることに気付かなくてぶつかってしまった。
鼻を擦りながら
「どうかしたんですか?」
琴の行動を尋ねるが
「…いえ、なんでもありません。」
琴は首を横に振るだけだった。
再び歩き始めた琴は叶に聞こえないほど小さな声で
「やはり、叶さんは…」
そう、呟いた。