第145話 ソーサリスの猛攻
「始まっちゃった。」
蘭は陸から頼まれたお使いの帰りに世界が赤に染まる瞬間を見た。
これでもう楽しい日々が終わりなのだと思い、蘭は目を落とす。
(笑顔の裏に秘めた残忍な闇のせいで本当の友達が出来なかったランに出来た仲間、"Innocent Vision"のみんな。でも今日でおしまい。ランの描いた楽しい夢のお話はここまでだね。)
大混乱の街を見て寂しげに寂しそうに笑う。
「ランもりっくんとおんなじで神様に嫌われちゃってるからね。」
蘭は赤い空を睨み付けた。
そこに敵が存在するような鋭い眼光もすぐに弱くなり空が滲んだ。
「江戸川様。」
「ふぇ!?」
突然かけられた声にミニツインテールを逆立てるほど驚いて振り返った。
そこにはいつの間にか黒塗りの高級乗用車が止まっていてその前には海原葵衣が立っていた。
「葵衣、ちゃん…」
蘭はばつが悪そうに葵衣の名前を呼んだ。
葵衣は蘭の闇の部分の被害者であり、その日から今日まで登校してこなかったため蘭は罪悪感を覚えていた。
だが目の前に立つ葵衣からは怒りや憎しみのような感情は感じられない。
いつも通りの葵衣だった。
「この赤い世界は魔女の手によるものなのでしょうか?」
口調までもいつも通り、内容も事務的なため蘭は葵衣の内面を見極められないでいた。
「うん。魔女がいよいよ動き出しちゃった。葵衣は撫子ちゃんのところに行くの?」
むしろ葵衣がここにいることこそが異常なのだ。
誰の目から見ても葵衣の居場所は撫子の側にしかない。
だが葵衣は首を横に振った。
「いえ、ご当主様の護衛です。現状の確認のために声をかけさせていただきました。」
車の窓の向こうは見えないが花鳳グループのトップが乗っているらしい。
蘭はそんなことに興味はなく
「葵衣ちゃん、いいの?」
心配そうに尋ねた。
葵衣は、口の端を少しだけ上げて小さく首を振った。
「私はお嬢様の補佐の任を解かれた身、ご当主様をお守りすることが今の私の職務です。」
葵衣は揺らがない。
そう教育されたからではない、葵衣がそうあろうと努力してきたからだ。
蘭にもそれが分かるから何も言わない。
…つもりだった。
「たまには、自分の気持ちを優先させてもいいと思うけどね?これはおねーさんからの忠告だよ。」
蘭はおどけたように笑うとピョンピョンと距離を取った。
葵衣は瞳を閉じ
「お心遣い、感謝いたします。」
深く頭を下げて車へと戻っていった。
異常な世界を車が走り去っていく。
それを見送った蘭の表情は優しかった。
「さてと、ランももう少し素直にりっくんのために頑張ろっと。」
蘭は自分の気持ちを優先させるべく壱葉へと駆け出していった。
僕たちは戦った。
敵を倒す力のない僕と直接戦闘が不得手な下沢は死力を尽くしてジェムの猛攻を予測し、防ぎ、斬り倒した。
「はあ、はあ。」
「これで、終わりですね。」
僕たちの回りにはジェムやデーモンの残骸が転がり、黒い瘴気を噴き出しながら消滅していく。
黒靄が晴れた時、敵の姿はなかった。
達成感が胸を支配する。
視線を向けると下沢も同じ気持ちらしく笑っていた。
汗だくになっているのに今はその汗の輝きすら魅力的に映る。
これが吊り橋効果なのだろうか。
だが今の感情と高揚感は恋と錯覚しても仕方がないことだ。
そしてその相手が下沢みたいな美人なら錯覚でも何でもいいと思えてしまうのも無理ないだろう。
「やりましたね、半場さん。」
「はは、本当にね。」
僕たちは健闘を讃え合うように見つめ合い
「随分と面白いことになってるわね。」
驚きのあまり硬直した。
声の主は僕たちの前からやって来た。
それはこれから向かう先であり、さらなる激戦が予想されていた方角である。
だが彼女は1人のお供を連れただけで陽炎を背負いながら悠々と進んできた。
実力の違いは目に見えている。
「言ったはずよ。りくに近づく女は誰であろうと許さないと。」
烈火の視線で下沢を射抜くのはこの戦いで一番会いたくなかった相手。
「八重花…」
冷静な思考の内に激しい感情を持つソルシエール・ジオードの所有者、東條八重花。
「東條さん。」
「八重花。」
僕たちは戦慄をもって八重花と対峙した。
八重花は薄い笑みを浮かべながら右手に持ったジオードを弄ぶ。
「頼れるものは何でも利用するのは構わないけどその人選は私への挑戦と受け取らせてもらうわよ?」
同じヴァルキリーに所属するのに八重花ではなく下沢を選んだのが気に食わないのだろう。
「だけど八重花が宣戦布告するからお願いできなかったんだよ?」
「う…。それは…」
八重花も無茶だという自覚はあるようで言葉を濁したが
「だからってヴァルキリーのソーサリスに助力を求めるのは反則よ。」
強引な理屈で結論付けた。
まあ、それは概ね同意見だが。
「そういうわけだから、下沢悠莉、覚悟してもらうわよ?」
八重花の突き付けたジオードに赤い炎が立ち上る。
下沢はわずかに身を引きながらサフェイロスを構えた。
"Innocent Vision"としてはヴァルキリーのソーサリスが共倒れしてくれる状況は有り難い。
このままいけば少なくとも1人は減るし戦闘に時間がかかれば"Innocent Vision"の増援が来る可能性も高くなる。
そう考えて…僕は下沢の横に並んだ。
「半場さん?」
「…。」
下沢が驚いたような声を出し、八重花は笑みを消して目を細めた。
「一応僕の仲間が来るまでは共闘って約束だからね。ここで傍観を決め込むのはさすがに居心地悪いし。」
結局僕がこんな分の悪い選択をしたのは"人"の情のためだ。
どんなに"化け物"だと自分に言い聞かせたところで僕は"人"を捨てきれないらしい。
それが少し嬉しい。
「半場さん、ありがとうございます。」
下沢は表情を和らげて微笑みを浮かべ、逆に八重花は難しい顔で眉を寄せた。
「いろんな意味でりくを相手にはしたくなかったけど、ちょっと怪我するくらいは我慢して。」
こんな時でも僕を優先させる八重花だったが戦う気はあるらしい。
僕も拙いながらファイティングポーズを取って戦意を示す。
「さあ、これで2対1だ。」
「この勝負は私だけのものではなくなった以上負けられません。」
「直接戦闘が苦手なのは知ってるからりくのInnocent Visionはハンデよ。」
僕が加わると知っても八重花の余裕の態度は揺るがない。
僕たちは下沢を前衛、僕を後衛とした今日即席で使った陣形を取って八重花に相対した。
八重花の右手には赤き炎の剣、左手には青き炎が揺らいでいる。
一触即発の展開に場の緊張はいよいよ高まり
「無視するなー!」
叫び声が水を差した。
「ああ、そう言えば。」
八重花はジュエルと一緒にやって来ていたのをすっかり忘れていた。
「気付きませんでした。」
「ぎゃん!」
下沢の辛辣な言葉が続き
「茜、いたのね。」
「八重花さんまで!?」
八重花も冗談だか本気だかわからないひどい扱いをして、茜と呼ばれたジュエルはがっくりと肩を落とした。
八重花はその肩に手を乗せる。
「ソーサリスにとってジュエルなんて虫けらみたいなものなんだから仕方がないわ。」
「全然慰める気ないですよね!?」
ジュエルの茜は涙目になるとキッと顔を上げて僕を睨み付けてきた。
「仮にソーサリスにそう思われるのは仕方ないとしても戦う力のないインヴィ以下だって言うのは納得できないたたたたた!」
茜の言葉が途中から悲鳴に変わる。
八重花が肩に置いた手に力を込めたのだ。
「りくに近づく女は許せないけど、りくの悪口を言う人も許せないわ。」
「ごめんなさいごめんなさい!」
絶叫しながら謝ってどうにか解放されたジュエルの茜は掴まれた肩を擦りながらジュエルを現出させた。
鈍い金属光沢の幅広の武骨な西洋剣だった。
(芦屋さんの義足剣に似てる。同系統のジュエルなのか。)
「八重花さん、インヴィとやらせてください。」
2対2、しかも片方がソーサリスならその意見は確かに妥当。
八重花は少し悩む素振りをした後意見を求めるようにこちらを見た。
実際不利になるのはこちらだ。
僕と下沢が挑んでどうにか八重花に太刀打ちできるかと言ったところ。
それを分断された場合僕は戦えないことはないが果たして下沢1人で八重花に対抗できるのか。
横を見ると下沢はすべてわかっているように頷いた。
「大丈夫です。こう見えて私もソーサリスの1人ですから。」
強がりだと思ったが2対2の混戦に持ち込むと下沢は八重花とジュエルの2人と戦うことになってしまう。
それなら僕がジュエルを引き受けた方が下沢も八重花に集中できるはずだ。
「わかった。相手になるよ。」
心を決めて僕の敵を正面から見る。
「いい度胸ね。この桐沢茜の名前を刻み込んであげるわ。」
剣を両手で握り構えを取った桐沢の表情には余裕が窺える。
武器を持たない僕に負ける気なんてまるでないんだろう。
「茜。戦うのはいいけど大怪我させたり殺したら許さないわよ。」
「ハードルが上がったじゃないですか!」
八重花と桐沢はやいのやいのとじゃれていて完全にこちらを侮っているのが見えた。
それでも戦意ばかり高く逃がしてくれる様子はない。
「やるしかないみたいだね。」
「御武運を。」
最後に頷き合って僕たちは戦うべき敵の前にゆっくりと歩み出していった。
壱葉高校の校庭にまで出てきた撫子たちを校舎と校庭に溢れるジェムの大群が囲んでいた。
校内すべての人間がデーモンに変わったわけではないため校舎の中から断続的に悲鳴が聞こえる。
悲鳴が途切れるのはその声の主がいなくなったか、あるいは与えられた恐怖や胸に燻る理不尽への怒りが魔道の力で感情を増幅されてデーモンへと変えたのか。
ただ一つ言えることは確実に人の数は減少の一途を辿っている。
そして、人であって人の常識を超越した存在であるソーサリスはジェムやデーモンの数を減少させていた。
「日は出ていなくとも。」
撫子がアヴェンチュリンを翳して虚空に円を描くと前方の地面にも撫子の描いた形の円が刻まれていく。
外とを別つ境界の内側には黒き異形の群れが蠢いている。
撫子が
「日輪はここにあります。プロミネンス!」
アヴェンチュリンの石突きを地面に打ち付けると法円の内側が太陽のごとき光に包まれ内部にいたジェムたちを焼き尽くす。
光が消えたとき、そこには何者の姿もなかった。
撫子は自らの行為の結果を見て肩の力を抜くと小さく息をついた。
後方から迫るジェムを相手にしていたヘレナがザッと靴底を滑らせながら撫子の隣に立った。
「こう数が多くてはきりがありませんわ。いっそ学校を吹き飛ばした方が早いのではなくて?」
物騒な意見ではあるが壱葉高校がデーモンの最たる排出現場となっているのは分かっていた。
それをどうにかするだけでも今後の戦いに有利に働くとの考えだった。
ヴァルキリーの理念のためなら何であろうと躊躇わない撫子だがヘレナの案には難色を示した。
「すでに隠蔽が不可能なほど被害が出てしまった今、校舎を破壊するのは問題ありませんが…」
撫子は一度言葉を区切り赤く染まった空を見上げた。
「この後に予想される"Innocent Vision"や魔女との交戦を考えるとここで力を浪費するのは避けるべきではないでしょうか?」
確かに撫子のグラマリー・コロナを使えば校舎を一撃で破壊することも可能ではあるが破壊対象が大きい分力を多く消費するし時間もかかる。
それに魔女がジェムやデーモンを大量に生み出したのは"Innocent Vision"やヴァルキリーの戦力を削ぐためだと考えるのが妥当であり、それに逆らうのは理にかなっている。
「そういうことなら仕方がありませんわ。しかし沸き続ける敵を相手にしていてはいかに雑魚が相手とはいえ疲れてしまいますわ。」
話を聞き付けた緑里が敵陣の中から戻ってきて合流する。
3人は背中合わせに立った。
「とりあえずこの場から退きましょう。」
「ここに"Innocent Vision"が現れないなら移動するしかありませんわね。」
緑里は右手で印を切ると3枚の人形を空に向けて投げあげた。
舞った人形はひらひらと落下しながら徐々にその姿を大きくしていく。
デーモンがジュエルの力を放つべく手を差し向け、3人を囲うように展開した人形を撃ち抜いた。
紙が散り散りになったとき、そこには誰もいなかった。