第144話 黒き異形の進撃
僕と下沢は人々が悲鳴をあげながら逃げ惑い、黒き異形が人や建物に襲い掛かる地獄絵図のような町を駆けていた。
僕は左目の奥に意識を集中させてInnocent Visionを発動させている。
「そこの屋根の上から来るよ!」
「はい。」
僕の声に少し後ろをついてきている下沢が返事をした。
直後飛び込んできたジェムが青色の壁に封殺される。
下沢がサフェイロスで一突きすると青い宝石はパキンと音を立てて粉々に砕け散った。
下沢は軽く息をついて微笑む。
「やはり半場さんのInnocent Visionは恐ろしいですね。不意討ちに罠を張れるなんて反則過ぎますよ。」
「僕の力なんて大したことないよ。僕1人だとどこから襲ってくるか分かっても逃げることしかできないから。」
僕も戦う力があればと今日ほど痛感したことはないが無いものをねだっても仕方がない。
「本当に、不思議な方ですね。」
下沢の視線がくすぐったくて視線を逸らす。
「それにしましても"Innocent Vision"の皆さんはどうしたのですか?半場さんを見捨てているような方々ではありませんよね。」
下沢は微妙に痛いところを突いてくる。
協力してもらっているのに黙秘はさすがに不義理か。
「魔女対策に少し用事をお願いしてたんだけど、裏目に出たね。」
その用事のせいで"Innocent Vision"は散り散りになり魔女の攻勢に分断されたようなものだった。
この異変には気付いているはずだからそのうち駆けつけてくれるとは思うけど少なくともそれまでは下沢に頼るしかない。
「お願いした僕が聞くのもなんだけど"Innocent Vision"の皆が集まったらどうする?」
僕としては戦わないで済むならそれに越したことはないがヴァルキリーにしろ"Innocent Vision"にしろソルシエールの衝動は強いらしいので一緒にはいられないかもしれない。
「私は今回半場さんと敵対する気はありませんから皆さんが集まったら安全なところに避難するつもりです。太宮神社がちょうどいいですね。」
下沢は本気で戦う気がないらしい。
和解の第一歩ではあるのだが下沢の悪癖を考えると友好を深めていいものか少し悩んでしまう。
尤も頼った時点で手遅れではあるのだが。
「でも神峰…さんが聞いたら怒るでしょ?」
一応敬称をつけると下沢はクスリと笑った。
「ですから美保さんには会わないようにしましょうね?」
お茶目な笑みにドキリとした。
本人は気付いていないようでホッとしたような残念なような。
「叶さんたちは逃げてるだろうからどっちに遭遇するかは運次第だね。」
「Innocent Visionに期待しています。」
確定した運命を見せる目に過度の期待をされても仕方がないのだが僕は答えず曖昧に頷いてまた駆け出した。
「「ソニック…ウェーブ…」」
クォーツの力を持ったデーモン数人が一斉に身体の一部と化したジュエルを突き出した。
空気の密度の変化で空間が歪んだように見えた直後、突風めいた風が狭い廊下に放たれた急激な気圧の変化と風の衝撃で教室のドアは折れ窓カラスが盛大に割られて吹き飛んでいく。
その人為的な災害の威力を前にヘレナは一歩前に出た。
「集まってようやくこの程度、これでは使い物になりませんわね。人の形を捨ててまで手に入れた力がこれでは不憫すぎますもの。」
主の意に応えてセレナイトが月の光を刃に纏う。
「その姿では生きていくのも辛いでしょう?一思いに滅ぼして差し上げますわ!」
ヘレナはマントを靡かせてセレナイトを振り被ると迫る風の壁を一閃、不可視の衝撃すべてが一瞬で消滅した。
ヘレナは間を置かず床を滑るように駆けると手前にいたデーモンを真下から真っ二つにした。
悲鳴を上げる間もなく漆黒の煙を血のように撒き散らして消滅する同胞を見て人を捨てたデーモンたちはわずかに後退った。
「力もなければ覚悟も足りない、救いようがありませんわね!」
逃げ出しそうなデーモンの側面に瞬時に回り込んだヘレナは
「ソニックウェーブ!」
吸収した力を開放し瞬間的な突風でデーモンを壁に縛り付けた。
「あ、ああ…」
「やめ…」
「闇に飲まれた脆弱な自分の心を呪え、ですわ!」
ヘレナは命乞いをするデーモンをつまらなそうに見つめ、セレナイトを全力で振るい壁ごと切り裂いた。
だが息をつく間もなく廊下の奥からはデーモンが押し寄せてきていた。
「ヘレナさん、下がって!」
「ミドリ、任せますわよ。」
ヘレナの脇を抜けて前に出た緑里は懐から赤い紙で作られた人形を取り出した。
「酒呑童子の力はかごめだけじゃない!」
緑里が立ち止まり、右手の人差し指と中指の2本を揃えて印を組むと酒呑童子は廊下いっぱいに横一列に並んだ。
「廊下みたいに狭い所でなら逃げられないよ。」
緑里がベリルを前に振ると酒呑童子の手が上下に激しく振るわれ、そのまま前進を始めた。
鋭利な刃のついた肉の壁に向けてデーモンは攻撃を仕掛けるが見掛けによらず素早い動きでかわされ腕が可動なだけのお粗末な斬撃に切り裂かれる。
「…邪魔…」
デーモンの1人が闇色の光を手に纏った。
アルミナのジュエルの力までもがデーモンの力で無理やり引き出されていた。
振るわれる光刃は
ヒュン
「うあ!」
酒呑童子の隙間を越えて飛来した白鶴が起点である腕を貫いた衝撃で力を放つ前に消滅した。
「相手が酒呑童子だけだと思ったら大間違いだよ。」
緑里の周りには4つの折り鶴が飛んでいていつでも飛び出せるようになっていた。
攻めあぐねるデーモンに迫る酒呑童子、その後ろからは緑里がにじり寄っていく。
「さあ、かかってきなよ。ボクが相手だ。」
人の多い商店街通りにはジェムやデーモンも多いと予測して少し迂回したのためあまり襲われなかったが商店街に近づくとやはり敵の数は増えてきた。
「ここまで敵が増えるとサフェイロスでは不利ですね。」
下沢は疲れを我慢した様子で呟く。
ここまでほとんど走り通しでソルシエールを振っていたのだから無理もない。
むしろソルシエールの力で強化されていなければとっくに足を止めていただろう。
「叶さんたちがどっちに逃げたか分からないけどここを抜けないと先に進めないね。」
かく言う僕もInnocent Visionを使いながら走り続けていたので疲れてきていた。
一応男の子なので弱味を見せないよう虚勢を張っている。
「どちらに向かったのかまではわかりませんか?」
「目の前の脅威がなくなればそっちも見えるかもしれないけど今は難しいね。」
僕が今使っているのは極近未来に自分の回りで起こる事象を視るInnocent Vision、クリスマスの決戦で手に入れた力だ。
一方他人の行動を見るのは従来のInnocent Vision、アカシックレコードにアクセスして未来を読み取る力が必要になる。
この2つは似て非なるもので特に後者は意識が飛ぶこともあるため戦闘中に使うには危険が伴うのである。
「そういうことでしたら、私が頑張るほかありませんね?」
下沢は下がっていた腕を持ち上げて構えを取る。
「…ここからまた迂回して敵の少ない道を抜ける手もあるよ。」
下沢はフッと微笑むとブンと力強くサフェイロスを一振りした。
左目と刀身の文字が煌々と輝きを放ち圧迫されるほどの力を感じる。
「お気遣いは嬉しいですが、今は一刻を争う時です。今の私は半場さんの駒なのですから気にせず最善の手を打ってください。」
僕は一瞬下沢悠莉に見惚れてしまった。
整った容姿だけではない。
穏やかな中にも気高い思いを秘めた彼女の在り方に魅入られたのだ。
「どうかされました?」
不思議そうな顔をする下沢から逃げるように僕は首を振りつつ前に目を向ける。
手伝ってくれている下沢がここまで頑張ってくれるつもりでいる以上僕も全力で挑まなければ失礼だ。
「それなら弱音は聞かないよ。…だけど、指示通りに動いてくれるなら僕はこれから起こるすべての事象を読みきることで君に傷1つ付けさせない。」
「…」
偽らざる決意を告げると下沢は呆然と僕を見てきた。
頬が赤く見えるのは左目の輝きのせいか?
「…本当に、心強いですね。今の一言で胸に痞えていた不安が嘘みたいに消えました。」
「僕も今は信頼させてもらってるよ。」
横目で確認するのは一瞬、僕たちが前に踏み出したのに合わせて異形の大群が一斉に襲いかかってきた。
叶たちは壱葉から線路沿いに倉谷へと向かう道を走っていた。
「はあ、はあ、何なんだよ、あれ!?化け物以上の化け物でもいるのか!?」
芳賀は不安と困惑を紛らすために声に出して叫ぶが他の3人は逃げ続けることで生じる肉体的な疲労と精神的な重圧から反応を返す気が起こらないほどに疲れきっていた。
「あたし、もうダメ。」
一番最初に音をあげたのは裕子だった。
「にゃはー、足が棒になるよぉ。」
1人が崩れるともはや限界を迎えた彼女らに抗う術はなく
「私も、ちょっと休憩したい。」
3人は地面に座り込んでしまった。
芳賀はすぐに気付いて激励しようと口を開いたが
「あ…んんっ!」
声をあげすぎて喉の調子がおかしくなったようで何度か咳払いをしたあと頭を掻きながら地面に腰を下ろした。
幸い周囲にジェムの姿はなくつかの間の平和な時間だった。
「私、そこの自動販売機で飲み物買ってくるね。何がいいかな?」
こんな時でも叶は優しく、皆のために動こうとする。
「こんな世界に自販機って、シュールね。あたしスポーツドリンク。」
裕子はツッコミを入れつつお金を手渡す。
「悪いな。俺は裕子と同じもので頼む。」
芳賀も相当疲れていたらしく足をダラリと伸ばしたまま動けないようで申し訳なさそうに手を振っていた。
「かなっちだけだと大変だから一緒に行くよ。」
「ありがとう、久美ちゃん。」
2人は一緒に道に設置された自動販売機に向かった。
世界が赤く染まっても電気は通っているし電話も通じる。
商店街では電気屋のテレビがバラエティー番組を放送している前で殺戮が行われるというシュールな光景が繰り広げられていたりもした。
叶と久美はポツンと立って光を放つ自動販売機に到着した。
「にゃはは、場違いだね。」
「浮いてるよね。」
苦笑しながらとりあえず2人の分のスポーツドリンクを買う。
「んー、オレンジジュース。」
「私はココアにしようかな。」
よくない意味でファンタジーの世界に迷い込んでしまった気分だったため取り出したジュースの冷たさや温かさが現実感を確かなものにした。
2人は2本ずつジュースを持って来た道を戻る。
「にゃは、これからどうなるのかな?」
疲れたようにため息をつく久美を心配しながらも叶は答えない。
(これが魔道ならきっと陸君たちがなんとかしてくれるはず。陸君が助けに来てくれるまで無事でいないと心配かけちゃうから頑張らないと。)
叶は非現実が現実と重なってしまった災いを嘆くのではなく今できることを見据えていた。
それが陸や琴と出会って手に入れた叶の強さだった。
「琴先輩、真奈美ちゃん、八重花ちゃん、みんな大丈夫かな?」
「にゃはは、かなっちはいつもみんなの事ばっかり。怖くないの?」
尋ねる久美は笑みを浮かべているが不安の色を隠せていない。
一方少し前まではおどおどして誰かの後ろについていた少女は考える素振りからして恐れている様子がない。
「それはもちろん怖いけど、きっと陸君が助けてくれるから。」
「りくりく?」
陸の正体を知らない久美がそれで納得できるわけもなく首を傾げた。
それでも信じている叶の瞳を見て憧れの延長線上なのだろうと久美は勝手に解釈した。
裕子たちの所に戻ると2人は身を寄せ合いながら眠っていた。
「…せっかく買ったのに。」
「疲れてたんだよ。後で飲めばいいから少し休ませてあげよう?」
緊張感の足りない2人に久美が珍しく文句を言うのを叶は宥める。
叶は芳賀の横にスポーツドリンクを置くと久美の手を取った。
「久美ちゃんも少し休むといいよ。ほら。」
叶はそのまま久美を裕子の隣に座らせて裕子の方に押す。
「ん…」
裕子はわずかに顔をしかめたがすぐにまた規則正しい息遣いに戻った。
「かなっち…」
「今はゆっくりと休んで。」
撫でられた久美は温かな手の感触を感じながら目蓋を落としていく。
最後に見えた叶の表情がまるで聖母のように優しく穏やかなものだったのを見ながら久美は眠りについた。