第141話 とある夜の疼き
葵衣は病室の窓辺から暗く沈んだ町を眺めていた。
本来は面会時間を過ぎているのだが花鳳に連なる者の特権という権限で緑里は葵衣の病室に訪ねてきていた。
普段の規則に反することはしない緑里が外聞をかなぐり捨ててまで病室にやってきた理由など
「葵衣、撫子様を、助けて!」
主である撫子のために決まっていた。
葵衣は窓に反転して映る緑里の姿を感情に乏しい瞳で見つめる。
葵衣が返事をしないことにも構わず緑里はベッドに顔を埋めて泣いてしまいそうになるのを我慢する。
「ボクじゃ撫子様の身の回りのお世話で手一杯だからお手伝いなんて出来ないよ。それにデーモンって人からジェムになる敵まで出てきたせいでヴァルキリーもバラバラになりかけて、もうボクじゃどうにもできないんだよ。」
妹である葵衣よりも能力の低いことを自覚している緑里は普段は絶対に弱音を吐かないことにしている。
役立たず、無能と言われるのは辛いし何より撫子や葵衣にまで迷惑がかかるからだ。
歯を食い縛ってでも耐えて自分に出来る可能な限りを尽くす。
だが今回はその忍耐すら許容できなくなるほどの事態だった。
宿敵の"Innocent Vision"は健在で、守るべき人たちの誰がデーモンであるかわからない状況、結束すべき仲間が揺らいでいては…撫子が耐えられない。
「撫子様は気丈に振る舞ってるけど本当は凄く疲れてるのが分かるんだよ。でも、ボクは…何もできない。」
無力さにうちひしがれながら助けを求めて顔を上げた緑里だったが葵衣は窓の外を向いたままだった。
「葵衣、戻ってきてよ。やっぱり撫子様にはボクじゃなくて葵衣が必要なんだよ。」
「それは出来ません。」
緑里の説得を葵衣はきっぱりと断った。
愕然とする緑里に葵衣は儚く、どこか自嘲するように笑みを浮かべながら振り返った。
「私の任は当主様によって解かれた以上もう戻ることは不可能です。」
断る理由は至極事務的な言葉。
緑里はカッとなって立ち上がる。
「葵衣!」
「私たち海原の者にとって仕えるべき主の言葉は絶対だと、教わってきたでしょう?昔からお嬢様だけを追い掛けていた姉さんは忘れているのですね。」
葵衣の瞳が一瞬悲しげな光を宿し、またすぐに消えた。
「私は撫子お嬢様の補佐役では無くなった、だからすべて姉さんにお任せします。」
「ッ!」
一瞬緑里は怒りで葵衣を睨み付けたが体ごと顔を背けて走って病室を出ていった。
窓の外を眺める葵衣は物憂げに目を閉ざした。
「お嬢様…姉さん…」
思い浮かべた2人の顔が曇る姿を想像しただけで左目が朱に輝き、手にはソルシエール・セレスタイトが現出していた。
力なくセレスタイトを握る葵衣はそのまま窓を開けて窓縁に腰掛けた。
冬の夜の寒風が肌を刺し葵衣を責め立てる。
葵衣は瞳を閉じて息を吐く。
「私が感情を抑えきれなくなっている。引き金が以前よりも緩くなった。恐らくはゲシュタルトの影響でしょうが…それだけでしょうか?」
葵衣は悩む。
冷たい風が頭をクリアにして行くがデーモンに関わる情報のない葵衣には不明な点が多すぎて真実へと至ることが出来ない。
瞳を開くといつもの静かな輝きに戻っていた。
「…情報が必要ですね。どうかお嬢様、ご自愛ください。」
届かない声に本心を乗せ、葵衣は窓を閉ざした。
琴は行灯に照らされた自室で宿題を片付けていた。
神社では基本筆を使うことが多いがさすがに学校での筆記用具はノートでありシャーペンである。
それでも達筆な書体で文字を書き連ねていた琴はペンを走らせていた手を止めるとペンを置いてそのままノートまで閉じてしまった。
「…またなのですか、"太宮様"?」
琴は疲弊した様子でため息を漏らした。
今日だけで既に数回、"太宮様"の予言を受けていた。
そのどれもが凶報、しかも人物においても複数に渡る乱れ具合。
次こそは良い知らせであることを願いつつ筆と硯、紙を持って部屋を出る。
暗い廊下を歩いて奥の間に向かう最中、外に面した縁側を通過するときに琴はふと空を見上げた。
正確に言えば月と町を。
空に浮かぶ細い細い月が朱く染まっているように見えたのだ。
町は朱の涙に沈んだように静けさを保っている。
「…不吉。」
これから記される予言を見るまでもなくその光景は不安を抱かせた。
顔を前に戻して奥の間を目指しながら琴が思い浮かべたのは叶、そして陸だった。
(陸さんに関わる事象に大きな暗雲が立ち込めてきたように思います。友として心配していますよ。そして叶さんが町を覆う不吉な風に晒されないことを願います。)
奥の間に到着した。
琴は襖を開くために道具一式を床に置いた。
スッと戸を開いても誰もいない。
(あるいは、叶さんが悪しき風に立ち向かうだけの勇気を得られんことを。)
琴は奥の間に入り襖を閉めた。
撫子は自宅にいた。
いつもならヴァルハラで遅くまで花鳳家での仕事をこなしつつヴァルキリーの行く末について考えている頃であったが今日は父に呼ばれたのだ。
あまりいい話ではないと覚悟して望んだ撫子だったが現実は予想よりも上を行く悪い話だった。
撫子は明かりもつけず暗い部屋の中でソファーに身を沈めていた。
「ジュエリアの全国展開が無期延期…」
言い渡されたグループの決定はいまだ犯人の手がかりさえ掴めない工場および貨物の襲撃と以前から話題には上っていたジュエリアの製造方法の秘匿性から大量生産が出来ない点、その他不況の煽りで再販売計画に回せる予算が捻出出来そうにないという経営陣としての常識的な判断の結果だった。
だが他の役員にとっては話題性のあった一商品だったが、撫子にとっては表と裏、どちらにおいても全身全霊をこめた一大プロジェクトだったのだ。
それが延期…中止でないのが経営陣の良心であるが今の撫子には何の慰めにもならない。
「…どこで間違えたのでしょう?」
ジュエリアの出荷時期?
全国展開を大々的に報道したこと?
クリスマスに"Innocent Vision"に決戦を挑んだこと?
(あるいは、"Innocent Vision"に、半場陸さんに関わろうとしたこと自体が間違っていたのかもしれません。彼は…異質です。)
決戦で見せたあの朱色の輝きはソルシエールの輝きと同質だった。
デーモンの一件で男女区別が曖昧になったとはいえソルシエールを持つ男は確認されていない。
そして陸も武器としてソルシエールを現出させてはいなかった。
「彼の力は…彼の存在は、異常です。」
対峙した撫子はInnocent Visionの力以上に半場陸という存在に恐怖を抱いた。
撫子は額に手を当てて天井を見上げ、わずかな光に照らされる影を見つめる。
それはまるで忍び寄る魔の手のようで撫子は身震いするとソファーに横になった。
「わたくしはどうすればいいの?…葵衣。」
撫子の心もまた暗い闇の直中にあった。
蘭は壱葉高校の屋上にいた。
閉ざしていた瞳を開くと頬を一筋の涙が伝った。
「とうとう、終わっちゃうんだ。」
陸が与えてくれた平穏は時間制限つきだと知っていたはずなのにその時を迎えると分かってしまうと悲しくなった。
蘭はオブシディアンを左手に握る。
月明かりはほとんど無くとも街は光に溢れていて黒い鏡石の中で輝いている。
黒いフィルターがかかったような真逆の街はまるで明日を映し出したようで
「魔界みたいだね。」
蘭は力なく笑ってオブシディアンを下げた。
ジェムの出現しない静かな街はいっそ不気味で、そう考えてしまう自分に苦笑する。
「ランはどっちなんだろ?もう、わかんないや。」
蘭は屋上に寝転がる。
様々な感情が小さな胸に渦巻いている。
明日、どうなるかわからない。
きっと大変なことになるだろう。
あの優しい少年に苦難を与えるように。
「…頑張れ、りっくん。」
蘭はそう呟いて瞳を閉ざした。
八重花は自宅で傷の治療をしてから部屋にいた。
昼間の凶行は気の迷いとしか言いようが無かったが衝動である以上紛れもない本心でもある。
「実際、我慢の限界は感じていたけど、今日の決壊の仕方は常軌を逸していたわね。」
まるで他人事のように分析しながら包帯を巻いた左腕に目を移す。
あの時は精神が肉体を凌駕した状態だったらしくなんともなかったが少し気が落ち着いた辺りからズキズキと痛み出した。
「私がこんな無茶をするなんてね。」
口調は自嘲するような風だったが表情は自分の行動にまるで納得していないものだった。
「そもそも私が陸とのデートよりも過去をぶり返して宣戦布告をすること自体がおかしいのよ。まるで感情の箍を無理やり外されたような嫌な感じね。」
陸に告げた内容に嘘はない。
普通でいようと我慢してストレスを感じていたことも事実だ。
だが、その怒りや妬みを無理やり引きずり出されたように八重花のもう1つの側面である客観的な冷静さが感じていた。
八重花はすでに痛みが引き始めた驚異的なソーサリスの身体機能強化に驚嘆しながらパソコンに向かった。
「『エクセス』、起動。」
万能検索ツール『エクセス』を起動させて壱葉周辺の検索を開始する。
「…ここのところ傷害事件が多いわね。どれも喧嘩の延長で事件性は薄い。だけど…」
カタカタとタイピングの音を立てながら検索項目を変更。
「病院の通院者の精神科、カウンセリングへの利用者が増加している。ストレスを感じる人が増えているの?」
八重花はさらに情報の海へとダイブしていく。
見えない化け物の計画の尻尾を掴むために。
僕は部屋の電気をつけずベッドの上に座り込んでいた。
「はぁ。」
漏れ出るのはため息ばかりだ。
「そろそろ潮時かな?」
もともとはヴァルキリーの意表をついて学校に戻り混乱させるだけで良かったのだが、僕の欲で学校に留まることを決めたのだ。
もう一度、少しの間だけでも"人"の半場陸でいたかったから。
だがそのせいで叶さんや琴さんを巻き込み、黒原君をデーモンにしてしまい、八重花にあんな宣言までさせてしまった。
「僕のわがままで沢山の人に迷惑をかけてるな。」
迷惑と言えば"Innocent Vision"の皆には悪いことをしたと思っている。
わざわざ狙われやすい学校に連れ戻したことでヴァルキリーとの確執がいっそう表面化し何度も戦うことになった。
「皆のために、そして何より僕のために、魔女とのゲームを終わらせないと。」
僕は机に移動してパソコンを起動させる。
「魔女は何かを探している。それを先に見つけ出せばいい。」
魔女の探し物は人か物か。
それだけだと膨大な候補が出てくるが実際はもっと絞り込めるはずだ。
「物なら魔術書の類いか魔法に関係するものだろうけど可能性は低い。」
ジェムが物を探している姿は見ていないし壱葉周辺に場所を限定できているならとっくに見つけているはず。
「そうなると人か。」
だがこれも判断が難しい。
具体的にどういう人を探しているのかわからないからだ。
だけどこれもジェムの行動からある程度推察できる。
「最初は人を無理やりジェムにし、次は無から生み出し、最後は人に憑依させていた。魔女は強いジェムを作るための実験をしていたみたいだ。」
そうしてたどり着いたのが魔力の高い人間。
そうなると手駒であるジェムを強くする苗床を探していたとも考えられる。
(だけど、それでいいのか?)
自分で導いた結論に僕は疑問を抱く。
それならばなぜ魔力がもっとも高いはずのソーサリスを狙わないのだろうか。
原理が未知である以上、感情が突き抜けた人だけがソーサリスなれると言われれば納得しなければならないが、魔力が高い人間にソルシエールを与えた方が強くなるように思うのは検討違いではないはずで、魔女がそれを知らないわけがないはずだから釈然としないものがある。
(ソーサリスとジェムは生み出された目的が違う?)
魔女はソルシエールを与えたヴァルキリーや"Innocent Vision"が自分を倒そうとしていることに何とも思っていない節がある。
手駒となるジェムを作り、生み出したソーサリスで遊んでいるようにすら感じる。
(何が目的なんだ?)
遊んでいるのか、それともすべてに意味があるのか、わからない以上万全の状態で魔女との戦いに挑まなければならない。
僕はパソコンから離れるとベッドに倒れ込み左目に手を添えた。
「…Innocent Vision。」
それは呪文のように僕の存在をスイッチさせる。
「どうか良い夢を。」
ささやかな願いを口にして僕は夢に落ちた。