第140話 とある夜の静寂(しじま)
魔女は砂漠の世界から「目」を使って夜の町を眺めていた。
無遠慮に夜の闇を照らし出す町の明かりは愚かしくも好ましい。
「もう少し、あと少しよ。」
魔女は喉の奥でクックッと声を漏らす。
「目」はただじっとどこかの屋上から町を、世界を見ている。
その「目」が空を見上げた。
天にある月は糸のように細く、消え行こうとしていた。
「いよいよ時が盈ちる。最後の静かな夜を無自覚に謳歌するといいわ。くくく。」
暗い笑いが砂の世界に響く。
「目」は悲しむように瞳をゆっくりと閉ざした。
ヘレナは自宅で家族と過ごしていた。
「もう日本にいるのも数ヵ月か。振り返ってみれば3年などあっという間だったな。」
ヘレナの父はコーヒーを飲みながら感慨深げに呟いた。
ヘレナは父の都合で日本にやって来て、留学生として壱葉高校に入学した。
そのときヘレナは壱葉高校のあまりにも普通すぎる学校に失望を覚えたものだ。
異文化交流を積極的に図る生徒が少ないばかりかむしろ外国人だというだけで避けようとする生徒たちの有り様を見たことで学校が嫌いになりかけた。
だが別のクラスとの合同授業の際、花鳳撫子と出会って変わった。
祖国にも進出を始めている花鳳グループの総帥の娘、それは他の生徒とは別の存在のように思えた。
撫子は遠かった。
言語の慣れなどというレベルではない。
人として、存在としての格が違ったのだ。
ヘレナはそれを知って絶望することはなく、彼女を超えることを目標とし必死に日本について学び、対抗してきた。
だがまだ追いつき、追い越せたとは思っていない。
「ヘレナはこの3年で立派になったな。」
「レディとして磨きがかかったわ。」
「当然です。元からワタクシはレディですもの。」
ワタクシという呼称も撫子を真似たものだ。
憎いとすら思って追いかけていた相手が今は仲間であり、友である。
ヘレナは1人だけ紅茶の入ったカップの水面を見詰める。
(あと数ヵ月、穏やかに終わるとは思えませんわ。ですが、去るその時までは助けて差し上げますわ。)
決して口にはしない誓いを胸に秘めて、ヘレナは団欒の夜を過ごす。
由良は高級マンションの一室で電気もつけず立ち尽くしていた。
「やっぱり俺に今の生活は合わないな。」
学生でいることが場違いだと感じる。
かと言って仕事をする気もない。
由良はとことん社会不適合者だった。
「4月からはもう1回2年か。」
そうなると明夜や陸の友人と同学年、クラスメイトになることも十分にあり得た。
由良は先の事を考えて苦笑する。
少しは楽しそうだと思ったことが、そんな自分の心境の変化がおかしかった。
一時期は世界全てを壊したいほどに憎んでいたというのに。
「だが、魔女。お前だけは絶対に殺す。それが俺の生きている理由だ。」
怒りに荒ぶる感情を宿す瞳を閉ざして決意を口にする。
「…全部終わったら、またここに帰ってくることもあるかもな。」
由良は最後にかつての光景を幻視し、それを振り払うように背を向けた。
バタンと閉じた部屋の中にはもう誰もいない。
美保がリビングに入ると姉の神峰真由がTシャツにショーツだけという姿でソファーに寝転がりながら雑誌を読んでいた。
「真由姉、そんな格好でいるの彼氏に見られたら引かれるか襲われるわよ?」
「んー?彼氏いないから大丈夫。」
ずぼらで女を磨くことにわりと無頓着な真由は足をパタパタさせるが雑誌から目を離そうとはしない。
読んでるのもファッション誌ではなく真由が購読している月刊の漫画だ。
「そういう問題じゃないでしょ。」
美保は呆れたように答えて占拠されたソファーの端に腰かけた。
真由がこのくらいの忠告で言うことを聞かないことくらい生まれてからずっとの長い付き合いで分かっている。
ドラマが始まる時間が近いのでコマーシャルを適当に眺める。
「そういう美保ちゃんは彼氏作らないの?」
雑誌を読みながら何気無く尋ねてきた真由の質問に美保は返答に悩んだ。
そう言えば彼氏が欲しいと思ったことがないと。
「今は悠莉ちゃんが彼女だけどいつまでも一緒じゃないんだよ?」
「…ちょっと待ちなさい、姉。誰が彼女よ?」
美保の苛立ち込みのツッコミも真由は柳に風。
伊達に神峰美保の姉ではなく、この緩さにツッコミを入れ続けてきたから美保がキレやすくなったとも言える。
「そのうち美保ちゃんにも彼氏が見つかるよ。」
「まずは自分の心配をしなさいよ。先に行き遅れになるのは間違いなく真由姉なんだからね。」
「ふふふ。」
真由は答えず笑うだけ。
それが嬉しそうだったから美保はあり得ないと思いつつ尋ねる。
「いるの、彼氏みたいな人?」
「うふふ。」
真由は笑うだけ。
それが答えでもある。
「嘘だー!」
なんとなく認めたくなくて悲鳴をあげる美保。
ドラマが始まっていたが美保の興味はすでに別の事に移っていて、問い質し、はぐらかされる。
神峰家はいつもと変わらず平和だった。
良子は夜の壱葉を走っていた。
先日陸と遭遇した辺りも含めたコースを最近走り込み織り混ぜるようにしていた。
(いないな。)
さすがに連日会えると思うほど良子もお気楽ではない。
陸が帰宅に警戒していることは予想している。
(だけど次に不用意にあたしの前に出てきたら…)
今度は迷わずに殺そうと決意していた。
八重花をどう扱うべきか、良子はここのところずっと考えていた。
(八重花はどんなことをしてもこちらを向いてくれない。でも、相手にしてくれない訳じゃない。)
良子が見つけたのは妥協点。
一番が陸なら仕方ないと。
(八重花の親友には敵わないかもしれないけど、八重花の友達になりたい。)
良子はやっと自分が焦りすぎていたことに気付いた。
パートナーが欲しいからと気に入った相手を引き込んでアピールして、結局八重花は迷惑していたのだとわかったのだ。
(だから全てをやり直す。たとえあたしがインヴィを殺して八重花に恨まれたとしても、たとえマイナスからの付き合いになったとしても地道に仲良くなっていこう。)
良子はようやく以前の凛々しさを取り戻した。
大地を踏み締める足もしっかりとしている。
速度を上げて熱のこもった肌で夜気の冷たさを感じる。
(インヴィ、次こそ決着をつけさせてもらうよ。次は…本気でいく。)
良子は思いをすべて地を蹴る力に変えて駆け抜けていった。
悠莉は風呂から上がった後自室の机について
「ふぅ。」
小さくため息をついた。
綺麗に整理された机の上には携帯電話が鎮座している。
いくら眺めたところで変形するとか異世界からの助けを呼ぶ声がするなどの異常現象は勿論なく、電話としての基本機能である電話やメールも受け取った形跡はない。
「ふぅ。分かっていることとはいえ、寂しいものですね。」
悠莉が待っているのは陸からの連絡だった。
だけど陸と悠莉は敵同士、しかも陸は悠莉に苦手意識を抱いているのを察していた。
(それは、コランダムで心を汚されれば誰であろうと警戒するでしょう。)
以前は気丈に振る舞いながらも瞳に映る怯えを隠しきれない陸に嗜虐心を刺激されて興奮したものだったが今は距離を置かれていることを寂しいと感じていた。
「これが、恋というものなんでしょうか?」
悠莉は自分の心が理解できず不安げに目を閉じて両手を胸にあてた。
心臓の鼓動は一定で、いつもより少し早く感じる。
「これまで他者を欲することなんてありませんでしたからね。」
悠莉は良くできた子供だった。
両親の期待に答え、それ以上の結果を示す。
勉強でも芸術でも、体力面はあまり芳しくなかったが逆にそれが欠点もあるのだと周囲を安心させる要因となり敬遠されることはなかった。
悠莉はいつも笑顔で皆と接していた。
期待をかけられても笑顔、頼まれ事をしても笑顔、心無い言葉を投げ掛けられても笑顔、悠莉の表情にはいつも笑みが浮かんでいた。
だが、その裏で悠莉は他者に押し付けられる勝手なイメージにうんざりしていて、その顔を歪ませてやりたいと思うようになっていった。
初めは言動の端に辛辣な本音を混ぜてみた。
相手は複雑な顔をした。
ゾクゾクしたが、足りない。
学校で飼っていたウサギに毒となる食べ物を少しずつ与えて衰弱死させた。
飼育係の子は大層悲しんだ。
その子が引っ越す日、最後の別れで2人きりになれたときに真実を明かした時に見せた驚愕と絶望の表情に悠莉は雷に打たれたような快感を覚えた。
その子とは当然一度も連絡を取っていない。
それから成長していくごとに悠莉は他者の絶望に震える顔を引き出すにはどうすればいいかをより効率的に考えるようになっていった。
お嬢様と扱われる自分を妬む者を逆に追い詰めて心を壊し、告白してきた相手に無理難題を突きつけて困らせもちろん受け入れない。
そうして形成された心の壁とその内側に潜む本性。
それを魔女に見初められてソルシエールを与えられた。
より強い、他者を拒絶するための壁を。
「本当に困ったときには連絡を下さるでしょうか?」
それが今は電話があるかないかで心を揺らしている。
(強い力を得たことで変わったなんて、皮肉なものですね。)
力の意味を共有する形で友と仲間ができ、不思議な力を持つがゆえに出会った陸に惹かれている。
「蘭様、ごめんなさい。私は忠告を破ってしまいました。」
クリスマスパーティでルチルに入ったとき、責められながら蘭に忠告されたのだ。
りっくんには近づくな、と。
その時は頭が真っ白で頷くことしか出来なかったが結局守れなかった。
「これは、お仕置きですか?」
ブルッと悠莉は身を震わせた。
色っぽい表情で見つめた先の携帯はやはり沈黙したままだった。
叶は宿題に向かいながらも手は動いていなかった。
別に分からないと言うわけではない。
そもそも問題を見ていないのだ。
ノートに向けられた視線はその実内側に向いていた。
(黒原君が怪物に変身して陸君が取り押さえた。)
それはあの燃えるような夕日で見た初めての非現実な光景。
それをすんなりと受け入れたのはやはり陸や琴の不思議な力に慣れたからだろう。
(だけどその後に何があったのか覚えてない。陸君の様子だと私が何かをしたみたいだったけど。)
叶はシャーペンの尻をこめかみに押し当ててみるが記憶が蘇ったりはしない。
(怪物になった黒原君は元に戻ったみたいだし、何が何なのか、わからないよ。)
叶はぎゅっと自分の体を抱き締める。
もしかしたら自分も気付いていないだけで不思議な力を持っているのではないかという不安を抱いた。
(怖い。もし私に力があったとしても、戦うなんてできないよ。)
まだ陸の戦いしか見ていないが本人からInnocent Visionは戦い向きの力じゃないと聞いていた。
つまり陸の仲間である明夜たちやヴァルキリーのソーサリスはもっと危険な戦いをするということになる。
もしも自分が同じような力を持っていたとしても戦いに身を投じることなんて出来るとは思えなかった。
(…でも、八重花ちゃんは陸君と同じになるためにソルシエールを手に入れた。)
陸から詳しく聞いたわけではない。
それでも八重花が乙女会にいるという事実は簡単にその結論を導けた。
(すごいな、八重花ちゃん。)
陸のために自分が大きく変わってしまうことを恐れない強さに感心してしまう。
(でも、きっと陸君はそんなこと望んでなかったよ。)
だけど、陸の思いは叶の方が理解していた。
明夜はビルの上で風を受けながら建川の町並みを眺めていた。
今日はジェムもデーモンを現れず静かな夜だ。
空は快晴だが新月が近いため月が細く、外灯の差さない屋上には光が乏しい。
そんな風の音だけが断続的に響く暗い頂で明夜は大地と空の境目を見つめていた。
その表情は敵と相対したときのように鋭く険しい。
「嫌な流れ。」
静かすぎる夜はまさに嵐の前の静けさのようで、刺すような冷風に混じる生暖かさが逆に背筋を冷たくさせる。
「…。」
町に動きはない。
だが、確実に何かが変わろうとしていた。
明夜は右手に目を落とした。
今は現していない神の爪、アフロディーテを幻視して己のやるべきことを問い掛ける。
(魔を払うのが私の、オニキスの使命。)
以前は人から魔へと堕ちたジェムを狩り、人を襲う無から生まれたジェムを討ち滅ぼし、そして今は人のまま魔に取り込まれた人間と戦おうとしている。
明夜は拳を握って顔をあげる。
平和に見える町の中にジェムに取り込まれた人がいる。
今は陸やソーサリスの前でしか姿を現していないが日常生活の中で突然人がデーモンに変わったら大惨事になりかねない。
それを守りきれるか、無表情な明夜の瞳がわずかに揺れる。
「…守る。陸とみんながいるから。」
1人で戦い続けていた明夜は仲間を頼ることを知った。
だから不安はない。
むしろ口にわずかな笑みさえ浮かべて夜の町に出ていった。