第139話 東條八重花の芯
(りくを手に入れると宣言して結構経つけど、私、何も手に入れてなくないかしら?)
八重花は授業もろくに聞かずそんなことを考えていた。
(最終的にはりくの全てを手に入れるとしてその過程でりくのファーストキスとかりくの初めてとか手に入れられるものはあるわ。)
それが最近はヴァルキリーに拘束されることが多く、叶が積極的にアプローチをかけているため一部では陸と付き合ってるなどという噂が出回る始末。
さっきだって手作り弁当なんて好感度アップアイテムの使用を叶に許し、Innocent Visionの力を使われたとはいえ十数人の追跡を振り切られてしまった。
戻ってきたとき微妙な雰囲気だったのは気になったが今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
(何とかしないといけない。)
八重花は握っていたペンがへし折れるくらいの決意を込めて拳を握り締めた。
放課後、予定では叶さんに話を聞くことにしていたが昼の時点で望まない結果ではあったが話が終わってしまったため時間が空いた。
("Innocent Vision"のみんなと今後の打ち合わせでもしようかな?)
「りく。」
予定が確定しかけたタイミングで八重花からの声がかかり思わず苦笑する。
「りく、付き合って。」
昼と同じ構図。
周囲に目を向けるとおおらかさは無くなったが騒ぎ立てることはない半場陸クラスメイトの会の皆さん。
だが安心できない。
相手は八重花なのだから。
僕は鞄を手に取り腰を浮かせながら尋ねる。
「別にいいけど、なに?」
これでも敵対関係の間柄、友達感覚でホイホイついていくのは躊躇われる。
八重花は意地の悪い笑みを浮かべて用件を告げた。
「デートよ。」
「半場ァ!!!!!!」
震える咆哮を上げたクラスメイトだったが僕はすでに教室外に脱していた。
当然こうなることを自覚しながら爆弾を投じた八重花も楽しそうに隣を走っている。
「ふふ、愛の逃避行ね。」
「そうかもね。」
このまま八重花と一緒にすべてから逃げ出してしまうのもいいかもしれないとちょっとだけ考えてしまった。
八重花は驚いたように目を見開いた後ニンマリと笑みを浮かべた。
「とりあえずは追われる現実から逃げましょう。道案内よろしく。」
「はいはい。」
僕たちは久し振りに立場を気にせず笑い合った。
別にどこに行きたかった訳じゃない。
ただ追われるから逃げてきた。
学外にまで及ぶ執拗な追跡から逃れるために発車ギリギリの電車に飛び乗った。
「思った以上にしつこかったね。」
飛び乗った電車内で息を荒らげながら言うと八重花も息を乱して汗を拭った。
「りくがInnocent Visionを出し惜しみするからよ。」
「使い続けてるとそれなりに疲れるから。それに光るし。」
文字通り目を光らせながら走っていたら不気味すぎる。
八重花は電車の窓から流れていく景色を物憂げに見つめていた。
「…建川に向かうわね。」
「…そう、だね。」
僕と八重花にとって忘れられない場所だ。
制服の上から左腕に触れる。
他の傷は消えたのにあの傷だけは呪いのように薄く残り続けていた。
八重花には残っているのだろうか。
あの約束は八重花に希望を与えてしまい、こちら側に引き込む原因の一端を担うものだ。
(消えていて欲しい。)
八重花を繋ぎ、僕を縛るものを。
八重花は何を思っているのか、その横顔からは判断できない。
「…」
僕も八重花に倣って窓の外に目を向ける。
建川はすぐそこまで近づいていた。
最近は夜に来ることが多かった建川の昼は老若男女、人で溢れていた。
夜に見るよりも若者の割合が減り、スーツ姿の人たちが増えている。
学生の姿がちらほら見える中を僕と八重花は歩いていた。
「…。」
「…。」
デートと呼ぶにはいささか距離感があり、弾む会話もない。
向かう場所は言わなくても、言われなくても分かっている。
だけど何が起こるかは分からない。
Innocent Visionで確認するなんて無粋な真似をするつもりはなかった。
八重花から告げられるであろう言葉を受けることが贖罪ともいうべき僕に出来ることだから。
無言のまま歩き続けて、僕たちはあの日事故にあったあの場所へとたどり着いた。
すでに数ヵ月経っているから当然割れた窓はなく、破片も落ちていたりしない。
どうやら違う店が入ったようで窓の向こうに見えるものが変わっていた。
「りく、覚えてるわよね、この場所?」
「もちろん。」
八重花も僕が本気で忘れていたとは思っていないようで軽く頷くだけ。
「ここが今の私、本気になった東條八重花の始まりの場所。」
その言葉は重い決意を孕んでいて、その重圧が僕にのし掛かってくる。
「りく、あのあとに交わした約束、覚えている?」
「…うん。」
傷が残ったら責任を取る。
傷を負わせてしまった負い目から叶えられないのにそんな口約束をした自分が許せない。
だけど過去は取り消せないから、今がある。
八重花はゆっくりと左の袖を捲っていく。
そこに…傷はなかった。
八重花は苦笑を浮かべる。
「もともとりくと違って深い傷でもなかったもの。何ヵ月もあれば消えてしまうわ。」
「そうなんだ。痕が残らなくて良かった。」
その言葉は額面通りの意味、そしてその裏でほっとしている自分に気付いて僕は自己嫌悪した。
八重花は泣いているとも自嘲しているともつかない表情を浮かべると俯いた。
顔に陰が差す。
「これでりくとの約束も反故。」
八重花は捲りあげた左腕の傷があった場所に手を添え
「…なんて、許さない!」
烈火のごとき激情を瞳に宿した顔をあげて右手の親指の爪を左腕に突き立てた。
「!?やめるんだ、八重花!」
事態の異常さに思考が飛んだが持ち直した。
八重花は僕の制止を聞くこともなくズブリと爪を腕にめり込ませていく。
皮膚を突き破った傷から真っ赤な血が流れて肘に伝って地面に滴り落ちる。
痛みを感じていないはずがないのに薄笑いを浮かべながら傷を拡げていく八重花の異常さは、僕以上に周囲を騒然とさせた。
ここは建川、不夜城のようなこの町で人の姿が消えることはほとんどない。
「ふふふ、こんな傷程度で私とりくの絆を切れさせはしない。」
八重花は周囲の反応など気に止めることもなく、親指をゆっくりと滑らせていく。
かつてあった傷をもう一度刻むように。
その狂気が僕を縛り付ける。
「八重花…止めて…」
「りくが悲しむことはないわ。これは私自身への誓い。最近の生ぬるい関係を受け入れてしまいそうだった私にあの時の想いを思い出させたのよ。りくに近づく者すべてを排除してりくを手に入れる、それが私、ソーサリスの東條八重花の芯よ。」
ビッと右手を払うと血が飛沫を上げて舞う。
左腕からは血を滴らせながら八重花は動けない僕の前に立ち、右手で頬に手を触れた。
血に濡れた親指が頬に触れ、血の臭いを強く感じた。
「どうしてこんな…」
「運命よ。運命が私を建川に呼んだ。遊びは終わりだってね。」
八重花の目はいつもの冷静さがなく、内に宿す熱い感情を映していた。
激しくも優しい笑みを浮かべた八重花は
「ん!?」
顔を寄せると躊躇なく唇を押し付けてきた。
「んっ。」
八重花はわずかに上気し細めた目で呆然とした僕の目を覗き込み、突き放した。
「少しの間お別れよ、りく。次に会うときは敵同士。そして最後には絶対にりくを手に入れてみせるわ。」
背を向けて去っていく八重花は最後に一度だけ半身で振り返り
「…たとえ、友達だろうと焼き尽くしてね。」
悪魔のように壮絶な顔で避ける人波の中に消えていった。
頬にヌルリとまとわりつく血を拭うこともできず立ち竦み無情なる世界の天蓋を仰いだ。
「どうして…こんなことに…」
こうして、東條八重花は僕の日常から姿を消した。
顔に血をつけたまま立ち尽くしていたため気が付くと気味悪がるような視線を向けてくる人たちが大勢いた。
(化け物の僕には誰も近づいてこない。)
それが被害妄想だと理解しつつも自己の存在を貶めた僕の心を守るには壁を作るしかない。
このまま帰って今日は誰とも関わらずに過ごそう。
「あら、半場さん?」
だけどこの世界の神様は僕が嫌いだから
「下沢…悠莉。」
「はい。」
人混みの中に下沢を配置したのだ。
下沢は周囲から変な目でみられるのを気にした様子もなく僕の前までやってくると何も言わずに頬についた血を取り出したハンカチで拭ってくれた。
「あ、ハンカチ…」
「構いませんよ。」
見るからに質の良さそうなハンカチが鮮血で汚れていく。
代わりにきれいになった僕の手を引いて下沢は歩き出した。
「あの…」
「ここではゆっくりとお話もできません。」
少し強引に引っ張ってくれるのが今は少しだけありがたい。
連れられて入ったのはファーストフード店でなぜか下沢が奢ってくれた。
まだ寒いのにミルクセーキを注文した下沢はストローを差しながら
「これは報酬の前払いです。話していただけますね?」
そう、前置きをしてくれた。
これで僕は話さなければいけなくなるようにされた。
「…僕は君たちの敵なんだよ?」
だけど下沢が優しくしてくれる理由はない。
だから戸惑ってしまう。
すると下沢は意外そうに目をわずかに見開くと今度は目を細めてクスクスと笑った。
「気になる方に手を差し伸べるのは普通ですよ。」
いろんな意味に聞こえたが話したかった僕は深くは追及せず話し始めた。
「東條さんがそんなことを。」
話を聞いた下沢は絶句と言った様子で握っていたミルクセーキのカップを置いた。
「…僕には、あれがソルシエールの暴走みたいに思えた。」
改めて状況を確認してみると八重花の不可解さに気付いた。
学校で誘われたときや駅に向かっている間は普通だったのに建川行きの電車に乗った途端に人が変わったようになった。
そして激情を映し出した瞳、あれはまるでソルシエールを発動したときの朱色が滲み出していたように見えた。
烈火のごときとはまさに瞳が赤く見えたからだ。
そこから導き出したのはソルシエールの暴走、約束の反故を恐れた八重花が負の感情を肥大化させすぎてソルシエールを取り出さないまま衝動にとりつかれたのではないだろうか。
(八重花は心配だけど、このままじゃ明夜たちだけじゃなく叶さんたちも危ない。)
「ふふ、私はあまり必要ではなかったみたいですね。」
僕が考えをまとめたのを見ただけで悟ったらしい下沢は苦笑していた。
だけど必要なかったなんてことはない。
少なくともこの時僕は下沢に救われたのだから。
「そんなことないよ。話せたからうまく纏められた。事情を知らない人にはあんまり話せる話じゃないから。」
下沢はミルクセーキをジュゾゾと音を立てることもなく飲みきった。
これがお嬢様の実力か。
「少しずつですが、何かが大きく変わろうとしているように思います。デーモンと呼ばれる新種のジェムが人の中に潜むと聞いた時からずっと、漠然とした不安がまとわりついているように感じているんです。」
知らなくても感じているのか、魔女が動き出したことを。
だがさすがに教えるわけにはいかないし何より僕自身分かっていないことの方が多い。
「ジェムが大規模な攻勢を仕掛けてくる可能性は十分にあるからヴァルキリーも警戒した方がいいよ。」
「そうですか。提言しておきますね。」
こうして普通の学生みたいに下沢と差し向かいで会話をする機会が来るとは思ってもみなかった。
こうして見ていれば下沢はいかにもおしとやかなお嬢様で美人だ。
周りの男性客もチラチラ見ている。
「僕を捕まえようとは思わないの?」
これはある意味で本題だ。
特殊な事情があったとはいえ僕と下沢は敵同士。
この場で突然仕掛けてきてもおかしくない間柄のはずだ。
だが下沢は憂いを含んだ視線を空になったカップに向ける。
「半場さんと、"Innocent Vision"と戦う意思が私にはもうありませんから。」
僕がセットについてきたフライドポテトを差し出すと下沢は細い指で摘まんで口に運んだ。
それも1本を一口じゃなくて小さくちぎりながら。
「クリスマスパーティで私は半場さんたちに完敗しました。所属こそ今でもヴァルキリーですが敵対する意思はありません。」
下沢はトレイに敷いてあった紙に取り出したペンで何かを書き込むとそれを僕に手渡した。
それは下沢の携帯の電話番号だった。
そのまま下沢は立ち上がる。
「信じていただけるとは思っていません。それでも私の力が必要だと感じたときにはそこに連絡してください。」
下沢は最後に何か呟いて店を出ていってしまった。
「…複雑だな。」
友達の八重花は敵対宣言して、敵のはずの下沢は戦う意思はないという。
決戦を前にしてずいぶんと人間関係がこじれたものだ。
僕はこんがらがる頭でセットメニューを平らげるのだった。