第126話 動き出す魔の手
ヴァルハラにいの一番で駆け込んだ緑里は肘をテーブルについて組んだ手に額を乗せて頭を下げていた撫子に詰め寄った。
「どういうことなんですか、撫子様!?葵衣が大量虐殺って、拘束って!?」
「落ち着きなさい、緑里。」
憧れている撫子が憔悴していることにすら気付かず緑里は撫子の肩を掴んで揺する。
「葵衣がそんなことをするわけがないんです!葵衣に、葵衣に会わせてください!撫子さ…」
パンッ
捲し立てていた緑里は頬を叩かれた衝撃で呆然となった。
目の前には泣きそうなほどに顔を歪めた撫子がいる。
掴んだ手からは撫子の震えが伝わってきた。
「ボ、ボク…」
「…。皆が集まったら説明します。少し休んでいなさい。」
緑里は弱々しく頷くとフラフラとした足取りで椅子に座って俯いてしまった。
撫子は着衣の乱れを正し、気まずそうに目をそらしながらドアのところに立っているヘレナに気付いた。
撫子は困ったような笑みを浮かべた。
「見苦しい姿を見せましたね。」
「構いませんわ。貴女がやらなければワタクシがミドリを止めましたもの。」
撫子は小さくありがとうと呟いて大きなため息をついた。
時計の針の音が異様に大きく聞こえる重たい沈黙が続き、
「遅くなりました。」
「どういうことなんですか!」
ようやく残りの4人が合流した。
皆が席に着くのを確認したがいつもならそのタイミングで運ばれてくる紅茶がない。
それが一層葵衣がいない事実を際立たせていた。
「花鳳様、先ほどのメールはどういうことですか?」
比較的冷静な悠莉が撫子に話を促した。
頷いた撫子は一つ息を吐いて顔をあげる。
「今回はヴァルキリーのプライドを擲ってまでして決行に踏み切った地図奪還作戦でしたが残念なことにインヴィおよび地図の奪取はなりませんでした。」
普段ならここで互いの失態に文句の一つも出ようものだが今日に限っては無言、むしろあまり興味がない。
それを分かっているので撫子も特に何も言わず確認だけで済ませた。
「その過程で葵衣にもジュエル部隊を率いて出陣してもらい、江戸川さんと交戦に入る連絡がありました。」
そこまではここにいる全員が理解していた。
問題はここから先なのだ。
「葵衣だけソーサリスが1人で不安があったためわたくしの腹心を数人、万が一に備えて尾行させ、監視するように伝えておきました。」
葵衣たちが蘭を尾行していたのだから尾行者の尾行という変な構図だ。
「その彼らからジュエル部隊が乱闘を起こしていると連絡がありました。葵衣にも連絡を入れたのですが通信機が壊れたようですぐに切れてしまいました。私は江戸川さんのグラマリーである可能性を考慮して近付かず監視を続けるように指示を出しました。」
撫子が言葉を区切る。
悠莉は静かに立ち上がりお茶を淹れて皆に振る舞った。
「ありがとうございます、悠莉さん。美味しいですよ。」
「葵衣様ほどではありませんが。」
恐縮した悠莉が席に戻り、いよいよ真相が語られる雰囲気に固唾を飲む。
「異変が起きたのはしばらくしてからとのことです。ジュエルが倒れ、葵衣は江戸川さんに迫ったそうですがすぐにジュエルの所まで戻り…身近にいたジュエルの首を撥ね飛ばしたそうです。」
絶句、世界のすべてから音が消え去ったような状況だった。
「その後も葵衣は目についたジュエルに斬りかかり、次々に殺していったと。危険な状態だと判断した彼らは鎮圧用の麻酔弾を撃ち込みどうにか鎮静化させることに成功しましたがその時にはすでにジュエルは全滅していたとのことでした。」
「…。」
誰も何も言わない。
言えるはずがなかった。
ソルシエールという非日常の力を使っているとはいえ仲間を惨殺する狂気を葵衣が宿していたなど信じられるわけがなかった。
「撫子様。葵衣は、今?」
すっかり弱ってしまった緑里を痛ましく思いながらも今の撫子に笑いかける気力はない。
「厳重に拘束したのち花鳳に縁のある病院へ移送したわ。精神に異状をきたしていた可能性があったので精神科の方へ回されたそうよ。」
「うあ、あ…」
緑里は溢れ出した涙を止められず声をあげて泣く。
ヘレナは黙って胸を貸してあげていた。
「つまり犯人は江戸川蘭と見て間違いないわけですね?」
この状況にあって無関係な人間のように何の感慨も見せず事実を追及しようとしたのは八重花だ。
「八重花、今は…」
「先延ばしにしたところでヴァルキリーから被害者が増えるだけです。今のうちに対策を講じなければ同じ手段を使われてヴァルキリーは内部から瓦解しますよ?」
八重花の意見は戦略的には非常に正しい意見だ。
だが人間としてはどこかが狂っているとしか思えなかった。
部下の命が失われ、仲間の心が狂っても平静でいられることこそが異常であると。
「東條、いい加減に…」
「いいよ、美保。」
激昂して立ち上がった美保を制したのは緑里だった。
ヘレナから離れて目元を拭った緑里は力強い目を八重花に向ける。
「確かに東條八重花の言う通りだよ。葵衣はヴァルキリーが無くなるのを、撫子様の理想が止まってしまうのを望んでいないから。だから戦わなきゃ。」
八重花はフッと笑っただけだった。
一番傷ついているはずの緑里が顔をあげたため皆も不安を押し込めて現状に向き合う。
「葵衣が目覚めれば判明するでしょうが間違いなく江戸川さんのグラマリーでしょう。幻覚を見せられていたと考えるのが自然ですね。」
「でも防げるのかな、そんな攻撃?」
良子の発言は単純ながら着眼点が鋭い。
目に見える攻撃として放たれない技を防ぐ方法はないように思えた。
「防ぐことはできないかもしれませんが解除することはできると思います。」
そこに投ぜられた悠莉の言葉は天恵にも等しく感じられた。
「腹心の方々はジュエルが内戦を始めた後も監視されていたのですよね?その段階でオブシディアンのグラマリーが発動していたはずですから有効範囲は存在するはずです。」
「それはそうですわ。ですから問題はそれを防ぐ方法が…」
「葵衣先輩は止まりました。つまり影響を受けていない人間が遠距離から衝撃を加えれば正気に戻せるか、最低でも暴走は防げます。」
一見暴論のようだがよく考えてみるとそれくらいしか方法が無いことに気が付いて皆が口を閉ざした。
「近づくなってこと?面倒くさいわね。」
美保が焦れたように頭を掻く。
「遠距離から衝撃を加えられるのは美保と緑里、八重花と花鳳先輩位だね。」
「まさかドルーズやサンスフィアをぶつけるつもりですの?」
ヘレナは髪を抱き締めるように良子から距離を取った。
美保の光刃も危ういが八重花と撫子のグラマリーは間違いなく髪が大変なことになる。
「そうなると江戸川蘭対策はボクがすることになるね。白鶴なら速いし威力もある程度制御出来るから。」
「…それしかありませんわね。」
葵衣を貶めた相手を前にして緑里が飛び出さずにいられるかという不安はあったが打開策が無い以上緑里に頼る外なかった。
「やはり"Innocent Vision"は危険です。わたくしたちの前に姿を現して何を企んでいるのかは不明ですがこれ以上野放しには出来ません。早急に策を練り"Innocent Vision"を排除しましょう。」
今は葵衣を堕とされた悔しさを前に進むための力に変えてヴァルキリーは立ち止まらなかった。
マンホールから下水道に入りどうにか逃げ延びた僕は風呂に入ってベッドに倒れた。
肌のあちこちが軽い火傷を負ってピリピリと傷んだ。
「八重花、あれで本当に捕まえる気だったのかな?」
あの炎に飲み込まれたら無事では済まないはず。
もしかしたら避ける前提で走り回らせて疲れたところを捕縛するつもりだったのかもしれない。
「そういえば皆は大丈夫だったかな?」
地図を狙っていたと言っていたから皆もヴァルキリーに襲われただろう。
地図なんてどうでもいいが戦闘で傷ついてないか心配になって"Innocent Vision"の3人にメールを打った。
「心配要らないわ。」
メールを送信し携帯から目を離した瞬間、目の前に白髪赤目の少女が笑って立っていた。
「ッ!?」
ベッドから転がり落ちながら片膝をつくいつでも動ける体勢にした。
「魔女。」
「久しいわ。クリスマスイブ以来ね。」
クスクスと魔女は上機嫌に笑う。
何がおかしいのかと疑問に思った頭の角で、
(ここは、夢じゃない?)
現状こそがおかしいことを理解していた。
これまではInnocent Visionの夢の中でしか魔女とは会わなかった。
それが現実で出会ったことが酷く悪いことのように思えた。
「その目はちゃんと動いているようね。私はまだ、ここにはいないわ。」
僕の心を読んだように疑問に対する答えが返ってきた。
だがそれはどういうことだろう?
僕は手を伸ばしてみた。
「あれ?」
目視した距離は十分魔女に手が届くはずだったのに魔女にはわずかに届かない。
恐る恐る前に進んでみても魔女はやはり少しだけ離れた位置のままで届かなかった。
それはまるで魔女の移っているフィルムが目に入っているような状態、見えているのに、聞こえているのに、決して触ることはできない。
「ふむ。その考えは概ね正しいわ。私は実体ではなく目に映る映像に割り込んでいるの。」
相変わらず考えを読まれているが気にしても仕方がない。
「立体映像だと思えばいいか。」
魔女は満足そうに頷いた。
椅子に座る仕草まで完全にそこにいるようにしか見えないため頭がおかしくなりそうだった。
「触れない相手にもお茶は必要ですか?」
「その気遣いで十分よ。」
魔女はますます上機嫌。
これはいい話でも聞けるかと…身構える。
魔女の笑みが楽しげから愉快へと変貌した。
「そろそろ本格的に動き出すわ。一月近く待ったけれど、もう限界よ。」
それはまるで僕が悪いと言っているような口振りだった。
「具体的には何のために?」
ずっと謎だった魔女の目的。
生み出したソーサリスを手駒にするでもなく、
ジェムを使って世界征服を目論むわけでもなく、
僕の前に現れてゲームを吹っ掛けてくる。
その根底にある理由は
「ふふ、秘密よ。」
ある意味予想通りの答えだった。
「だけどヒントはあげる。私はとある物を手に入れるためにジェムを動かす。ただ殺戮を楽しむためでは無いわ。ジェムが人を殺すならそれは私の目的のためにその命が必要だったと考えなさい。」
「それは、最近ジェムがジュエルを狙っていることも含まれるんですね?」
魔女はニヤリと笑うだけだったが否定はしなかった。
「賢しい、賢しいわ。それでこそゲームをするに相応しい相手。私は目的の物を手に入れること、そちらはそれを見つけ出して阻止すること。これがラストゲーム、ベッドするのは…」
魔女は人差し指を僕に差し向けた。
それだけのことで心臓が鷲掴みにされたように苦しくなった。
「互いの命。そちらが勝てば世界から魔女の脅威は去り、私が勝てば野望がついに実現する。」
「ヴァルキリーはどうなんです?」
魔女は意外そうな顔をしてすぐに戻った。
「ゲームに第三者の妨害が入った方が楽しいでしょ?もしもヴァルキリーに負けるようなら私は所詮その程度の存在だったというだけのこと。」
魔女はヴァルキリーに負ける気など欠片も無いらしい。
つまり"Innocent Vision"を敵と見ているということ。
「それともうひとつヒントを出しておくわ。私の探し物は基本的に壱葉や建川、つまりこの辺りにある。範囲を定めた方がやりやすいでしょう?」
慈悲のように言っているが罠をその周辺に張り巡らせるつもりだろう。
もしくはすでに下地は作り終えて潜ませているのか。
僕の思考は読めているだろうが魔女は余裕の表情を崩さなかった。
魔女は組んでいた足を解いて椅子から降りる。
「他に質問はあるかしら?」
「別に"Innocent Vision"の力だけでクリアしないといけない決まりは無いですよね?」
「ヴァルキリーに協力を仰ぐ?別に構わないわ。ルールは宝探し以外何もない。」
魔女は僕の眼前まで歩み寄ってくると目を細めて嗤った。
「楽しいゲームにしましょうね、Innocent Vision。それじゃあ、良い夢を。」
魔女の姿がぶれて初めから誰もいなかったように静かになった。
僕は大きく息をついてベッドに仰向けになった。
「いよいよ、始まるのか。」
魔女とのラストゲームが。