第11話 夜明けの向こう
「はあ、はあ!」
緊張と日頃の運動不足で大した距離でもないのに息が切れる。
救いである大通りまであと少しだというのにそこまでの道のりが無限に続くように感じる。
今更ながら足が震え出した。
一刻も早く逃げなければならないのに足は止まろうとする、それを抑え込んで出口へと駆ける。
「おいかけっこはおしまいだよ、インヴィ。」
ぞくりと背筋を駆け抜けた悪寒にとうとう足が止まってしまった。
(あり得ない。)
奥歯のぶつかり合う耳障りな音を聞きながら考える。
(僕がこの道に出るときに等々力はまだ立ち止まっていた。それが、すぐ後ろにいるなんて、あり得ない。)
だが、僕の背後にいる。
狩猟者が獲物を捉えた愉悦に浮かべる表情で狙っている。
(振り返るのが、怖い。)
追い付かれたという現実を受け入れることが怖い。
それでも振り返らなければ死が待ち受けている。
「くっ!」
意を決して僕は体ごと振り返った。
視線の先には
誰もいなかった。
何もいなかったことへの安堵といたはずのものがいないことへのさらなる恐怖で頬がひきつっていた。
ここにいないのだとしたらさっきの声はどうして聞こえたのか、普通なら恐怖心が生み出した幻聴だと思うだろう。
だけど僕は彼女らが超常的な力を扱うことができることを知っている。
それだけなら「幻聴を聞かせる力」とも考えられるが、残念なことに僕も彼女らと同様“化け物”なのだ。
(もしも何らかの力を使って僕に追いついたとして、振り返った時にその姿がないのなら…)
夢で見た等々力は僕をどうやって殺そうとしたか。
僕は顔を上げてビルに挟まれて狭められた空を見上げた。
そこには暗い灰色の空を背に深紅の刃を煌めかせ、左目を朱色に輝かせて悪魔のような笑みを浮かべた等々力の姿があった。
「終わりだよ、インヴィぃ!」
その高さはざっと見で5メートル以上、人が飛び上がれる高さではない。
未知の恐怖に足がすくんでしまい振り返って逃げることもできない。
それでも唯一の救いは、Innocent Visionによって上空からの一撃があるという予備知識があったこと。
そのわずかな知識が最後の最後で生存へと意識を向けさせた。
僕は膝を折り、上を見ないまま伸び上がる力を利用して、等々力の足元に向けて飛び出した。
「このぉ!」
しかし等々力も明らかに無理な体勢からラトナラジュの軌道を変えて下をすり抜けようとした僕のふくらはぎを斬りつけてきた。
「ああっ!」
切り落とされはしなかったものの焼けるような痛みに立ち上がることもできず呻き声を上げることしかできない。
等々力は無茶な体勢だったにも関わらずしっかりと着地して大きく息をついた。
「ふう。土壇場であたしに気づいただけじゃなく避けようとするなんて、やっぱり君は油断できないね。」
僕の脇に立った等々力は僕の目の前にラトナラジュを突きつけてきたのがわかる。
「花鳳先輩辺りは君を迎え入れたいと言っていたけど、それは…ええと…しししし?」
「獅子身中の虫…」
「そう、それ。そのしししなんとかに君は絶対になる。だから…」
ラトナラジュが僕の背中、心臓の裏側に向けて構えられた。
もはや這って逃げる気力も奪われ、ただ迫る死の恐怖に震えることしかできない。
「うう、…」
「悔やむなら力を持たずに能力を持ってしまった自分を恨みな。」
遂に死へと導く槍の切っ先が僕の心臓を射殺さんと振り下ろされた。
体勢こそ違うがこれはInnocent Visionが見せた通り、僕が上から等々力に突かれるという夢が現実になった。
以前の神峰の時も結末を見なかったため土壇場で柚木さんに助けられたが今回も助けられるような幸運があるとは思えない。
“化け物”の僕は魔女の騎士に打ち倒される、ファンタジーな解釈に乾いた笑いが漏れた。
そして紅のハルバードが引き絞られ、僕の胸を刺し…
貫かなかった。
いつまで経っても胸を穿つ痛みは来ず、不審に思って首を捻ると
等々力は直前でラトナラジュを止めたまま僕ではなく大通りへの入り口に目を向けていた。
「弱いものいじめか、魔剣使いも随分と墜ちたものだな。」
それは氷のように冷たい嘲りを宿す凛とした声だった。等々力がギリッと奥歯を噛む。
「どうした?見ていてやるからさっさと終わらせろ。」
顔も名前も存じ上げていないが味方と言うわけではないらしい。
「羽佐間、由良。」
等々力は忌々しげに絞り出すような声で相手の名を呼んだ。
「俺を知ってるのか?だが俺はお前を知らないぞ。」
「柚木だけじゃなく君もなの?」
「柚木?誰だ、それは?」
話を聞く限り噛み合っていないようだったが等々力の注意が完全に僕から離れているうちに少しずつずらしていた体を起こして一気に距離を取った。
「しまった!」
「へえ、やるな。」
痛む足を庇いつつ振り返ると不覚に悔しそうな表情を浮かべた等々力の向こうに端正な顔立ちの美女と呼ぶべき、壱葉高校の制服を来た女の子が面白そうに目を細めて立っていた。
等々力は僕と羽佐間を交互に睨み付け、僕ではなく羽佐間に向き直った。
「ん、相手が違うんじゃないか?」
「足に傷を追わせたインヴィなら逃げられても追い付ける。花鳳先輩の誘いを断り、ここで目撃した君を倒す方が重要だよ。」
「…へえ。」
それまで楽しそうに細められていた瞳が別の意味で細められた。
羽佐間がすっと左手を虚空に伸ばす。
「判断は悪くない。だが根本的に間違えているな。喧嘩を売っていい相手かどうかをな。」
羽佐間の静かな声に等々力が怯んだのがよくわかった。
その“怖い女の子”が僕に目を向けた。
「そいつと一緒におねんねしたくなければ目と耳と鼻と口と穴という穴を塞いどきな。」
慌ててやろうとしたが
「どうやっても手が足らないから!」
「はは、それはそうだ。なら耳だけでいい。」
言われた通り両手で耳を覆って塞ぐ。
それを見た羽佐間は頷き、
「さて、一気に終わらせるぞ。」
左目が朱に染まった。
差し出された左手には氷のような冷たい透明感のある水晶のような刃が生み出された。
「クリスタロス…。」
「間違えるな。こいつは玻璃だ。」
羽佐間が玻璃を構えた瞬間、不快な気分になり膝をついた。
等々力も同じようで頭を片手で押さえている。
(音?)
そう思って手を緩めてみたが頭痛は強くなっても音は聞こえなかった。
それは音ではなく空間そのものを極微細に振動させているような、脳を直接揺さぶられるような感覚。
その発生源である羽佐間だけは玻璃の放つ力の影響を冷静に観察していた。
「墜ちろ、超音振!」
瞬間、震えていた大気が明確な攻撃性の振動となって襲ってきて、
それは耳を塞いだくらいでどうにかなるものではなく僕の意識はプツリと途切れた。
ハッと目を開くと僕は見知らぬところで横になっていた。
ドアの開く音に警戒しつつ相手を見ると
「目が覚めたのかい。そりゃよかった。」
人の良さそうな警察官だった。
何でも巡回中に路地から表通りに向かって倒れていて足に怪我をしていたからとりあえず交番に運び込んでくれたのだという。
見ず知らずの通り魔に切られたと言って切り抜けると例の昏睡事件のこともあって送ってくれることになり、生まれて初めてパトカーに乗った。
帰りつくと異常に心配してきた両親を宥め、風呂に入る気力もなくてベッドに倒れ込んだ。
「…疲れた。」
その言葉を言い終わると同時に僕の意識は眠りに落ちた。
翌朝、昨晩の羽佐間のことを考えながら教室に入った僕は
「おはよう。」
僕の席に座って待っていた柚木さんの存在に絶句してしまった。
「どうして、ここに?」
もう会えないのではないかとか思っていたのでなんとかそれだけ絞り出す。
柚木さんは首を傾げ
「昨日、探してたって聞いたから。」
至極真っ当な理由を述べた。
この出会いが大きな転機となる、そんな予感がした秋の朝だった。