古典は古典として何故残るのか
フェルナンド・ペソアという詩人は生前無名で、死後にトランク一杯の原稿が見つかって、そこから彼の名前が徐々に広まったそうである。
有名になった芸術家というのはそういう人が多く、長生きした場合はその人の晩年、早死にした場合は死後に名が売れたりするパターンが多い。哲学者なんかにもよくある。
一方で、その当時、大いに世の中を席巻していたものが、時間が経つと誰も見ないようになったりする。具体例を上げなくても、それぞれに思い浮かぶだろう。
何故そうなるのか、と自分は不思議に思っていた。今も不思議と言えば不思議である。
例えば「小説家になろう」というサイトがある。このランキングを見ると、多くの人の評価、アクセスが高いものがランキング上位に並ぶ。なので、民主主義であり、人びとのそれぞれの評価が集約されたものである。だから、そのナンバーワンこそが最高だと言いたい所だろうが、このランキングにはある種の傾向性があって、その傾向のものがランキングに名を連ねる。また、これは他のサイトでは、そのサイトの傾向性があり、もっと広く言えば、現在の日本には、その当時(つまり今)の傾向性があって、その傾向に従って評価が集まる。
理屈から言えば、ナンバーワンのものが、多くの人の評価を集めたわけだから、時間が経っても残ると考えたいが、多分そうはならないだろう。歴史的に見てもそうだろう。というか、自分の視点から言えば、「異世界物」は残らないだろうし、村上春樹もそれほど長生きしないだろうと思う。
それで、これは、どういう事なのだろう。今、自分が言ったのはただの僕の主観である。それに比べて、「異世界支持者」は非常に大勢の人である。かなうはずがない。しかし、異世界物が、この先も支持され続けると思う人は、異世界大好きの人でも心から信じられないのではないか。今、あるものが正しい、あるいは好き、面白いと言っているが、それが十年後もそうか、二十年後もそうか、と心の底から言えるだろうか。
自分の知っている人で、普通の人だが、話していると、昔言った事と主義主張が変わっている場合がある。にも関わらず、彼はその変化に気づいていない。これは自分には驚くべき事だったが、喋っている本人はなんとも思っていない。僕の理解では彼らは、空気に合わせて自分の主張を作る為に、そもそも自分の主張というものがない。そこで、世の中が正しいと言っているものが自分にとっての正しさとなる。だから、彼にとっての自分とは自分をなくす事である。
古典というのは何故残るのだろうかというのは不思議なポイントだが、人は、もっと深い存在だと言っても良いのではないか。つまり、どれだけ軽薄なコンテンツにのめり込んでいる人でも、その深層には極めて複雑なものがあって、彼ら自身もそれを見ようとはしない。見たくないし、目をそむける。しかし、「それ」はいつか、彼の眼前にやってくる。その時、彼は、自分の内奥に気づかなくてはならない。古典となるものは、そういう内奥をつついて刺激するようなものではないか。
視点をかえれば、「なろう」にはある傾向性があり、「note」にもある傾向性がある。僕の見た限り、「なろう」は「オタク・保守」であり、「note」は「リア充・自己啓発」という雰囲気である。これらの雰囲気、傾向に合致したものが、そこで評価される。逆に言えば、「なろう」のノリを「note」に持ち込んでも、評価されるか微妙だろう。
だが、「なろう」的なものも「note」的なものもこの世界には存在する。また日本以外に国が存在し、多くの人がそれぞれの自己中心性を持って生きている。更に言えば、人類の外側にも自然はある。人類が最高であるとして、自然を滅ぼすのも今や可能になったわけだが、それをすると、人類も滅ぶとわかってきたから、環境を守らざるを得なくなったのだろう。
トータルで何が言いたいかと言うと、評価というものは、人びとが思っているほど客観的なものではないという事だ。もう少し言うと、そもそも客観的な評価などないと言った方が良いだろう。そして、評価は、そのグループ内で極めて高く評価されていても、それが一時の熱狂である場合、あっさり消えてしまう。
古典として残るものは、時代をくぐり抜けるような「他者性」を持っている。空間的には、違うグループに働きかける「他者性」を持っている。しかし、それが、その時代、そのグループ内部においては理解されず、孤立するというのは十分考えられる。そのグループは熱狂している。流行りが渦巻いている。流行りに乗らなければ、「他者性」を欠いているとされる。しかし、「他者性」を欠いているのはそのグループの方ではないか。
古典として残るものは、自己の孤独を武器に、世界に向かって広がっていく。世界に対する広がりは、グローバルな広がりというより、むしろ、個々の閉鎖性を破っていくものであって、それを真に理解するとは、自分の閉鎖性を破る事と同義ではないかと思う。そこで古典とは、常に深いものに呼びかける事によって表皮的なものと対立する。この対立において、時間が彼に味方をする。彼は長いスパンにおいて生き、短いスパンにおいて軽蔑され、唾棄される。しかし、彼はより深いものに自分の中心を置いているので、「やがて」人びとが自分の元にやって来るのを期待する事ができるだろう。それまで、彼は孤独である。彼は、そんな時間的偏差の中を生きる。人よりも遅れて、あるいは、人よりも進みすぎて。