少女愛欲の六月
「ねえ、一平。私、超能力者かもしんない」
「なんですかー、奈緒先輩。またなんかすごいこと、はじめちゃいましたかー」
「未来が見えるんだよ」
「はあ」
いつもの放課後、いつもの化学室。私たちは部活に取り組んでいた。六月の雨の日の化学部の活動内容は、ずばり神経衰弱。二人は実験テーブルをはさんで向かい合っていた。
「ねえ、見ててよこれ。全部あけるから」
私は記憶の通り、残ったトランプを表にしていく。めくったトランプはすべてペアになっていく。
「わ、わ、奈緒先輩どうしたんですか。どういうマジックですか?」
「たねも仕掛けもないから。これ、超能力だから」
私は連続十八枚めくって圧勝した。
「でも、今は賭けをやってるんですから、ズルはだめですよ」
一平はまるで信じていない。でも仕方の無いことだ。私も信じていないのだから。
「そうだね。アイスの権利は一平にゆずるよ」
「奈緒先輩、アイスはさっきのゲームです。今のは、ここの掃除をやらない権利です」
「うん。掃除はいっしょにやろうか」
「はい」
私たちは、何も話さずに掃除を始めた。
私の名前は後藤奈緒。高校二年生で化学部部長だ。相棒の名前は森本一平。たった一人の一年生部員。
私たちは四月から毎日ずっと部活を続けてきている。だから、心はそこそこ通じ合っている。何も言わなくてもお互いの考えていることは大体わかる。だからといって、そうそう踏み込んだ話もしない。そんな関係だ。
最近の化学部は、特にこれといった活動はしていない。
もうすぐ、化学の授業で面倒な実験が始まる。化学部にはその予備実験の依頼が来ることになっている。しかし、その時期は、はっきりしていない。私たちはそれまで、待機のトランプ活動を続けることになる。
私は一平を大事にしている。それは化学部の部長としてではない。一人の女として大事にしている。要するに恋をしているのだ。でも、この恋はクラスメートの物とは違う。私はこの子を手に入れたい。すべてを奪ってしまいたい。そういった強烈な肉欲にとりつかれている。しかし、今のところ、特にこれといった行動は起こしてはいない。
化学部は三年生をのぞけば、私たち二人しかいない。もし一平との関係が崩れれば、化学部は破たんする。化学部という、もろい容器に入れられた私たちは、この容器を守ることにつとめなくてはならない。だから、私は一平に手を付けない。当分は、そういうことにしておくつもりだ。
「よし、終わり! 一平、帰ろう」
「はい。奈緒先輩」
私は化学室に鍵をかけ、鍵を職員室に返却しに行った。
一平はまだ帰ってはいない。まだ昇降口にいる。なぜなら、一平は傘を持っていないからだ。走ってコンビニに行くか、小降りになるのを待つか、考えあぐねている。なぜ確信しているか。それは、私に予知能力があるからだ。私は白昼夢を通して未来を知ることができる。
今朝見た白昼夢は、これから昇降口で起こることについてだった。私はこれから大きな傘を一平に渡すだろう。だから私は家から大きな傘を持ってきた。そのあと起こることについては分からない。ただ、この傘を渡すことが正しいやり方なんだと思う。
「一平!」
「あ、奈緒先輩」
一平は昇降口のひさしの下で雨をながめていた。逆光を切り取る一平の輪郭は、どことなく品格を漂わせている。
「一平。ここに傘があるわ。一平にかしてあげる」
「あ。でも、そうすると奈緒先輩が困るじゃないですか」
私は傘を差しだす。一平の反応を期待してにやけてしまう。
「どうする?」
「…………駅まで一緒に帰りましょうか」
「よし!」
私は傘を一平に渡した。そして二人は一つの傘の中に入った。
私たちの高校は進学校だ。だから、部活には特に力を入れていない。人気のある部ですら、ちょっと楽しむ程度の活動しかしていない。こうなると、化学部なんかは、もう全く人気が無いということになる。なにせ、教科科目である化学の名を冠する部活動なのだ。「部活でまで勉強するのか、ふざけるな」と思われるのが普通だろう。私にもわかる。しかし、実験をやってみると、面白いことがわかるかと思う。化学実験は、物理実験よりアグレッシブで、生物実験よりもブリリアントだ。
「一平は、楽しんでる? 化学部は楽しい?」
「また難しいことを言い出しましたね。実験は楽しいですよ」
「トランプは?」
「もっと楽しいですよ」
「一平は達観してるよね。化学部の事なんかどうでもよさそうに見えるよ」
「いえ。化学部で過ごす時間はすごく有意義ですよ」
一平はこっちを向いてくれない。ずっと前方を向いている。はるかかなたを見すえている。
「一平には何を言っても柳に風だね。あたりさわりのある答えはないの?」
「…………そうですねえ。僕が化学部で時間を過ごすのは、それとは違う理由があるからです。そういったあたりの事ですか?」
「それとは違う理由って? はっきりと言えないの?」
「今は言えません。そのうち話すかもしれません。それに、何も言ってくれないのは、奈緒先輩も同じじゃないですか」
「私が? 何を?」
「化学部で活動する理由ですよ」
そんなことを聞かれても、答えようがない。化学部の活動は惰性で続けているだけだ。もちろん、目下最大の理由は一平と過ごす時間だ。だが、これは全力で隠しているのだからばれるはずはない。
「私は化学が大好きだからね」
「ですよね。僕も化学が大好きなんですよ」
「「だから」」
言葉がぶつかってしまった。
「奈緒先輩どうぞ」
「うん。一平は化学部をやめないでくれよ」
「僕も。奈緒先輩がいる限りやめたりしません」
学校から駅までは徒歩二十分だ。私たちは学校のある住宅地を抜けて、商業地域に入った。灰色の雨空の下ではどのビルも灰色にくすんで見える。このまま駅前通りに入れば、後五分で駅に到着する。
私は、駅にたどり着きなくなかった。なぜなら、一平と少しでも長く一緒にいたいからだ。でも、私の歩みは、刻一刻と一平との時間を削っていく。わたしは、まだまだ一平を連れまわしていたい。かっこいい一平を従えて、商店街をねり歩きたい。
一平はいい男だ。背も高いし胸板も厚い。セクシーだ。制服に隠れた、まだ見ぬ鎖骨をコリコリしたい。
「一平は、『罪作り』とか『おんな泣かせ』とか、そういうことはないの?」
「こりゃまた、切り口がななめですね。奈緒先輩は、僕の事をそういう風に見てるんですか?」
「一平はかっこいいからね。女の子たちが、放っておかなかったんじゃない?」
「残念ながら、彼女いない歴十五年ですよ」
「へー!」
マジ至宝じゃないですか。
「いやですねえ、もう。奈緒先輩はどうなんです?」
「…………処女なのですよ?」
「あっ……。すすすいますぇ……」
一平は目を伏せてしまった。少し顔が赤い。照れているんだろうか。恥ずかしがるのは私の方なのに。だって、乙女のトップシークレットを教えてしまったんだから。
私たちは駅についた。駅舎には、ほとんど飾り気は無い。アイボリー一色で塗られたコンクリートの建物だ。それも今は灰色にしか見えない。私たちは階段を上がって、今は改札の前にいる。一平の家は駅の向こう側にある。一方、私の家は二駅離れたところにある。だから、私たちが一緒に帰るときは、いつもここで別れている。今日もここでお別れの時間だ。
「じゃあ、奈緒先輩、傘はお返しします」
「いや、貸しておいてあげるよ」
「向こうの駅から歩く時に困るでしょう」
「実は折り畳み傘も持っているんだ」
私はバッグからそれを取り出す。
「え、じゃあ、この傘は?」
「一平に貸すためだけに持ってきた。今朝わかったんだよ。今日、雨が降る事と、一平が傘を持って来ない事」
「どうやって?」
「超能力」
「…………では、そういうことにしておきましょう」
「信じてくれないのも、無理もない。私も信じていないんだから」
「どういうことです?」
「何でもない時に夢を見るんだ。白昼夢だよ。その中での出来事は、遠からず実際に起こる。今のところ、的中率は百パーセントだ。どう思う?」
「面白いですね。未来予知ですか。神経衰弱のたねあかしが、それっていうわけですね」
「そう。超能力、信じる気になってきた?」
「そうですね……。僕は……、超能力でなく、奈緒先輩を信じることにします」
かわいい事を言う。背筋がぞくぞくする。
「ありがとう。それじゃあ、またあした」
「はい。お疲れ様です」
私はそのまま改札を通り、ホームへと降りて行った。そして、ホーム上を少し歩いたところで、後ろから声をかけられた。
「後藤奈緒先輩。ちょっとお話があります」
振り向くと、同じ学校の制服を着た小柄の女の子がいた。知らない顔だ。学年色は一年生。切羽詰まった表情を見せている。
「いいよ。どうぞ」
「森本君と仲良くしないでほしいんです」
「もり……一平と? なんで?」
「私たち一年生女子は、森本君をめぐって争わないように協定を結んでいるんです」
「なんなのそれ」
「ぬけがけの禁止です」
「なにそれ、痴情でももつれてんの?」
「そうならないための協定です」
イラッとする。
「それで私にどうしてほしいの?」
「森本君と仲良くしないでほしいんです」
「仲良くなんてしてないよ」
「名前で呼び合ってるじゃないですか。一緒の傘で帰ってたじゃないですか」
「くだらない。私は協定なんて結ぶ気ないから」
「だめです。これはみんなで守っていることだから」
「なんなの。セックス禁止とでも書いてあるの? 禁止じゃないんなら、勝手にさせてもらうわよ。じゃあね」
私は背を向けて黄色の点字ブロックの上を歩き始めた。そいつは歯噛みしている。そして、か細い、震える声で言った。
「私、あなたを許さない。あなたをめちゃめちゃにしてみせる」
ずいぶんと嫌われたものだ。しかし、私が悪いわけじゃない。恨むなら恨め。一平は私のものだ。
くだらない。本当にくだらない。私はそのまま電車に乗った。
次の日の天気も雨だった。六月だからしかたない。私たちは湿気でくっつきやすくなっているトランプでセブンブリッジをやっていた。
私たちは怠惰な時間を過ごしている。でも、それも悪くはない。一平と過ごすなら。
その時、私は新しい白昼夢を見た。この白昼夢こそが私の超能力の源だ。
白昼夢で見たことは実際に起こる。そして、それに従うといいことが起こる。
私が、白昼夢を見るタイミングはいつもバラバラだ。いつ見るのかは定まっていない。授業中でも自転車に乗っていても、見るときは見る。
白昼夢の中の景色は、古いモノクロ映画のように見える。薄暗く不鮮明だ。私は、その中から情報をすくいとる。
今回の夢はマークシートについてだった。私がマークシートに何か記入している。二と七を塗りつぶしている。これだけだ。何のマークシートかも、わからない。
そして、今回は続けてもう一つの夢も見た。目の前に女子生徒がいる。その女子生徒が不意に車道に飛び出す。車がすごい速さで近づいてくる。そして、一平がその女性を歩道に引き戻す。
自分から、かかわりに行かない夢ははじめてだ。私はどうしたらいいんだろう。でも、あの女性は無事で済んだんだ。どう間違っても、事故になることはあるまい。特に困ったことにはならないだろう。考えたところで、なにもできない。
それよりもマークシートをどうしたらいいかを考えるべきだ。こちらは、私からのかかわり方で、どうころぶかは変わってくる。
ここまでで現実に戻った。白昼夢を見ている時間は、実際の時間で二秒もかからない。一緒にいる人にも気づかれないほど、わずかな時間だ。
「一平。私、マークシートに記入したいんだけど、どうしたらいい?」
「マークシートになにかしちゃいましたか? 何のマークシートです?」
「わからない。これくらいの大きさ。わかる?」
私は、両手の親指と人差し指で、四角形をつくる。
「わからないマークシートですか。テストですかね」
「テストじゃない。そんなに項目は多くないよ。私は二と七を塗りつぶしたい」
「うーん。宝くじ……。宝くじじゃないですかね」
「自分で数字を書くような宝くじなんてあるの?」
「ありますよ。そうだ、今日も一緒に帰りましょう。宝くじ売り場に行ってみませんか」
わたしの頬がほころぶ。
「うん。行こう、一緒に行こう」
私たちは手に手に傘をもって、並んで歩いた。昨日と比べると一平との間隔は空いている。多少の不満は残るが、そうそう簡単に距離を詰めていってもつまらない。獲物はもう目の前にあるんだ。楽しんで楽しんで、そして、毒牙にかける。私が一方的に搾取する。
私は無言でそんなことを企てていたが、一平の声で我に返った。
「ここですよ。宝くじ売り場」
「銀行? なの?」
「そうです。ちょっと紙をもらってきますね」
大通りに面した白いビル。その一角にオレンジ色のひさしが出ている。それが宝くじ売り場だ。空はまた一段と暗くなってきている。雨は止みそうにない。一平が紙を持ってくる。
「奈緒先輩、これじゃないですか?」
「あ、これだよ。この紙だよ。間違いない」
「超能力だと二と七をマークするんでしたっけ?」
「そうなの。こことここ」
私はシャーペンを取り出し、二か所を塗りつぶす。
「ほかの場所は塗りつぶさないんですか?」
「うん。この二か所」
「ということは、ミニってやつみたいですね。だから、ここを塗りつぶすと完成」
「あ、ありがと」
「僕も奈緒先輩にあやかって一枚買ってみますね」
一平も私と同じところにマークしていく。
「いいの? お金、むだになっちゃうかもしれないよ」
「神経衰弱で無双されましたからね。むしろ、お金は増えると思いますよ」
「ありがとう。私の事を信じてくれて」
「いえいえ。奈緒先輩のナイトとしては当然です」
一平はオペラのお辞儀をした。
「一平はかわいいね。白馬に乗って迎えにきてくれたまえ」
「許されるなら、白のプリウスで」
私たちは、そんな取りとめもないことを話しながら、帰路についた。
私たちが駅前通りに出たときには、雨は小降りになっていた。そこで、あの女の子を見かけた。私に、一平と仲良くするなと言ってきた子だ。はじめは、私がその子をたまたま見つけたように感じた。でも、私は数秒後に気付いた。あの子は私たちの事をずっとつけていたんだ。今は何かやる気で姿を現したんだ。あの子、やる気だ。
私はそこで立ちくらみを起こした。これは、いつもの白昼夢じゃない。本物だ。
脳の血流が急激に減る感覚。意識レベルが下がり、立っていることに集中できなくなる。私はそこで、私から分離した。
私は、私自身を見た。目の前に私と思しき女生徒がいる。ふらついている私がそこにいる。それを見ている私は誰なのか。私は遠のく意識の中で、私の行く末を見つめていた。そして、符号は合致した。私の見た白昼夢はこれだ。目の前の私が車道に飛び出す。車がすごい速さで近づいてくる。そして、一平が私を捕まえ、歩道に引き戻す。
私が意識を保っていられたのはそこまでだった。
「奈緒先輩、奈緒先輩」
私は目を覚ました。私は椅子に座っている。しなだれかかっている。ここはコーヒーショップ。意識を失ったところから目と鼻の先だ。私はオープンカフェのテーブルセットで休憩していた。
一平は心配そうに私におおいかぶさっている。なんだ、一平の膝枕じゃないのか。
「よかった。起きてくれた」
泣きそうな声を出している。情けないなあ。
「私、どうしたの? どうやってここまで来たの?」
「僕が抱えて連れてきたんですよ」
「ありがとう。抱えてって……、土のうみたいに?」
「ち、ちがっ。……っがいますよ。お……お姫様だっこです」
「あら素敵」
その一言は、寝ぼけていた私から、眠気を吹き飛ばした。お姫様抱っこを覚えていないとは不覚。
どうやら、一平は道路で気を失ってしまった私を、ここまで運んできてくれたらしい。私とバッグ二つと傘二本とを同時にだ。男の子はすごいな。
しかし、当の一平は私の体を気にするばかりだ。私は「平気」と「大丈夫」を何度も言った気がする。私は、なんともない。心身ともに問題ない。
「一平は私を病気にしたいの?」
「そうじゃありませんが、少しでも悪かったら……ああ」
「病気じゃないよ。今は気分もすっきりしてるしね」
「奈緒先輩、さっきのあれですけど……。覚えてますか?」
「多分覚えてない」
「奈緒先輩は、車に飛び込んだんですよ」
ああ、夢じゃなかったんだな。まさか、知らないうちに車に飛び込むなんてね。おかしなことが起こるもんだ。だが、私がおかしくなっているとは思いたくない。ちょっとした、めまいという事にしてしまいたい。
「くるま……。いや、どうなんだろう。ちがうんじゃないかな」
「車に飛び込んだのは、覚えていないんですか」
「覚えている。でも飛び込んだのは私じゃないんだ」
「飛び込んだのは、奈緒先輩の意思じゃなかったって事ですか?」
「うん。そう」
「あのセリフは覚えてます?」
「なんか喋ってた?」
「飛び込む前に叫んでましたけど…………」
「…………どんなふうに?」
「『この女は、一平君には似合わない』って」
私はぞっとした。私は、ちょっと幽体離脱した程度にしか考えていなかった。でも、私が出て行った後のこの体は、思ってもいないことを叫んだ。強固な意志をもって叫んだ。何かが狂ってる?
「信じてもらえるかな。それを言ったのは私じゃない」
「悪魔憑き……じゃないですか?」
「笑えないよね」
「どうします?」
「帰ってシャワーでも浴びてそれから考えるよ。あっ……」
「奈緒先輩?」
そこで私は白昼夢に入った。いつもの超能力の方だ。
私は最寄り駅のホームにいた。日付を示す手がかりは視界に入っていない。混み方から時刻を推測すると、ほぼ現在といったところ。私は電車を待っている。
ふと振り向くと、遠くにあの女の子がいる。さっきも見たあの子だ。まだ後をつけているんだろうか。その子は私の目ガン見しながら、唇だけでこう言った。「死ね!」
私は誰かに突き飛ばされて、体のバランスを失った。そして、そのまま線路に転落した。
白昼夢はここまでだった。夢を見た時間は現実では一瞬だ。目の前には一平がいる。景色も、さっきとなんら変わってはいない。私は安心した。
「一平。今…………。なんでもない」
私は、新しい夢を一平に報告しないことにした。不安になるだけの夢なんて、知っていても迷惑なだけだ。
「奈緒先輩? 不安なことは全部話してください」
「だいじょうぶ。『今から、家に帰ろうか』って言おうとしたところ」
「動いても平気なんですか? 少し休んでいた方がよくありませんか?」
「構わないよ。少なくとも体は悪くなってはいない」
「おうちの人を呼びましょうか?」
「大丈夫。自力で帰るよ」
私は椅子から立ち上がった。多少はよろけるかもしれないと考えていたが、そんなことはなかった。体調は万全だ。一平はまだ不安そうに私を見ている。
「歩けるんですか?」
「もちろんだよ」
私は、バッグを抱え、椅子を戻した。一平は急な提案に慌てているようだ。
「奈緒先輩。ま、待ってくださいね。待ってください。僕も一緒に……。そうだ。家まで、一緒に行きましょう」
「一平の家に行くの?」
「奈緒先輩のおうちまでお送りします、という意味です」
てっきり、一平のおうちにお持ち帰りしてもらえるのかと思ったよ。残念。
「それじゃあ、送ってもらおうかな。私のナイトさん」
「はいっ!」
私たちは、駅の改札まで階段を上り、改札からホームまで降りてきていた。私の右側には、一平がぴったりとはりついている。私に何が起きても離さないといった感じだ。
私の体は完全に元に戻っていた。予後は問題ないといえる。しかし、さっきの幽体離脱は大問題だ。さっきから、その事ばかりずっと考えているが、考えがまとまらない。私の「体」には自殺願望でもあるんだろうか。
私はちょっとミスをした。さっきの白昼夢は、駅のホームが舞台となっていた。私は、わざわざ、その舞台まで出向いたかっこうになる。もっとも、私には一平がいる。一平が守ってくれれば、危ないわけがない。あの夢の出来事が起こるはずはない。
そもそも、私は家に帰ろうとしているんだ。駅で電車に乗らずして、どう帰るというのか。
私たちは、あまり話さなくなっていた。一平は私の心配ばかりを口にしている。わたしは、そんな一平をうとましく感じており、あまり返事をしていない。自然、私たちは無口になっていった。
私の家の最寄り駅には、急行が止まらない。だから、私たちは各駅停車を待っていた。あと数分ののちには、目の前の線路に各駅停車が滑り込んでくるはずだ。
「一平、おこってる?」
「なんでですか?」
「私がちゃんと返事をしないから」
「奈緒先輩には、もうすこし自分を大切にしてほしいんです」
寝た子を起こしてしまった。
「僕は奈緒先輩には、えと、できれば、本当は病院に行ってほしいと思ってるんです。タクシーでも救急車でもいいですから――」
私は、一平の声を聞かないことにした。
病院に行く必要はない。家まで送ってもらう必要すら感じない。すべては考えすぎだ。もう悪魔憑きは起きない。そういう結論に持っていきたかった。
私はふと振り向いてホームの人を眺めた。そして残念なことに、あの女の子を見つけてしまった。その子は私をにらみつけると、あの言葉を口にした。「死ね」
女の子がそう言った瞬間、私のすぐ近くから同じ言葉を聞いた。一平だ。
「死ね」
一平が動いた。男の子の強靭なバネが私を突き飛ばす。一瞬の出来事だった。私は点字ブロックの内側から線路まで落ちていった。
私は線路に落ちた時に、意識を失ったらしい。線路に真っ先に飛び込んでくれたのは一平だそうだ。一平が助け起こしてくれて、無事救急車へ。私は、暗く冷たい雨空の下で轢死せんとしていたところを、からくも救い上げられた。
私は病院のベッドで目覚めた。私のそばには、医師と一平。人のぬくもりはありがたい。
医師は何事もなかったように、問診を始めた。今回の失神は脳震盪だったらしい。私は、今回の失神でも、心身ともに影響がなかった。運がいいんだろう。
両親も私に会いに来てくれた。ふだん、かまってやれなくて済まない、といったようなことを三十分くらいだらだらとしゃべり続けた。両親というのは、いつでもどこでも誰にでも、うっとうしいものだ。私の両親もそうだ。だが、今、このひと時はとてもありがたく感じた。私の両親も、世間一般の慈愛あふるるご両親ズと変わりなく、私を愛してくれていると知った。
私は一日、入院することになった。頭をぶつけているため、精密検査が必要らしい。明日の検査メニューを並べられて、ちょっとうんざりしてしまった。私は、かかってもいない病気のために、肌をさらしたくなかった。しかし、検査だけはどうしても外せないと言い聞かされた。これは私の義務として、甘んじて受けよう。
一平も病院にいた。私と話さないまでも、廊下や部屋の隅にいるのは見えていた。一平は、申し訳なさそうな面持ちで、終始うなだれていた。私は一平とたくさん話したいと思っていたが、なかなかそんな機会が無かった。一平は、私の両親が帰った後、私のベットの前までやってきた。一平のために私は『何も気にしていない』という態度を貫こう。
「奈緒先輩。ごめんなさい」
一平が深く頭を下げた。
「ん? なにが?」
「……奈緒先輩を線路に突き落としました」
「一平。私の事押そうとした? してないんじゃない?」
私には確信があった。私がめまいを起こして道路に飛び出したこと。一平が私を突き飛ばしたこと。この二つの現象は、リンクしている。私は自分から道路に飛び出してはいない。だから、一平も何もしていない。
「どうしてわかるんです?」
「超能力」
私は嘘をついた。小さなかわいい嘘だ。
「奈緒先輩はすごいですね。なんでもお見通しですか」
一平のほおに一筋の涙がつたう。
「だから一平は悪くない。それどころか。助けてくれてありがとう」
「奈緒先輩、奈緒先輩…………」
一平は、ぴーぴー泣いた。一平は私よりも重症だな。私と一緒に入院してくれないものだろうか。
私は一平をなぐさめるだけで、その他の事を考えなかった。衝撃的なことが多かったからかもしれない。何もかも、終わったこととして片づけたかった。これからについて、何も不安が無いと思いたかったのだろう。
私は眠った。そして眠りの中で、例の夢を見た。
化学室の中だ。その窓際に一平がいる。そして、それにのしかかる私がいた。私は、自分の体を一平にこすりつける。私たちは、じっと見つめあう。
そして二人はキスをした。
二日後の今日は五月晴れだ。
おととい検査入院した私は、昨日さんざん苦しい検査を受け、今日は授業を受けている。
私は一平の事が気がかりでならなかった。あのあとは、一度メールをもらったきりだ。その一度のメールも、宝くじが当たっていたという内容のものだった。私は不服だった。私をもっと親しい友人と感じてくれたと思ったが、そうではないんだろうか。
私は、夢の出来事を思い返していた。あの夢は嘘をつかない。私は近いうち、一平のキスをゲットできる。私は何度もその夢を思い出しては悦に入っていた。
放課後、私は化学室へと急いだ。昨日休んだだけだったが、もう何日も化学部に行っていない気がしていた。私は小走りで化学部へと近づいていった。そして、途中で女生徒にぶつかった。いや、ぶつかったのではない、ぶつかられたようだ。そしてその女生徒は、なんと、あの女の子だった。私が車道に飛び出した時にいた女。私がホームから転落したときにいた女。悪い予感がする。この女、また私に何かを?
女は、目をつぶった。それと同時に私はめまいを覚えた。やりやがったな。この女、どこまでしつこく食い下がるんだ。ふざけんな! 貧血がひどくなる。くそったれ! 意識がおぼつかなくなる。その中で私は倒れるまで罵声を浴びせ続けた。
私は、目を覚ました。私は何かをされていると思ったが、私自身には何も起こっていなかった。あの女は、私に悪意を持っているのに、私に何もしなかった?
私は、化学室へ急いだ。一平の身が危ないと思ったからだ。
私は化学室の扉を静かにあけた。すると、窓際に一平がいた。
そして、それにのしかかる私がいた。
私は驚いた。あそこにいるのは間違いなく私だ。じゃあ、私自身は何だ。そういえば、この扉は取っ手の位置が高い気がする。そうだ。取っ手の位置が高いんじゃない。私の背が低くなっているんだ。
そして、私の体は……、おっぱいが小さくなってるじゃないか。それに制服の学年色が一年のものにすり替わっている。
あの女は、他人の中に入り込み、操ることができる。そして私は、おそらくあいつのぬけがらに入れられている。
私は化学室に入ろうとした。しかし、足が動かない。足が接着剤でくっついたかのようだ。進むことも戻ることもできない。
私は叫んだ。喉がつぶれるほど思い切り叫んだ。しかし、私の喉から音が出ることはなかった。
一平にのしかかっている私が、こっちの私に視線を送る。優越感に満ちた笑みだ。くやしい。とめに入りたい。しかし、足はすくみ、声はかすれ、何もできない。見守ることしかできない。
さかりのついた女は、自分の体を一平にこすりつけている。私に見せびらかしている。
『ふざけるな!』
『それは私の役得だ!』
『おまえなんかにかっさらわれて、たまるものか!』
そして二人はお互いの唇を、むさぼりあった。