プロローグ
――僕は絵描きだ。
いや、正確には、絵描きだった。
今となっては、魔法使いの類となっている。
「テツヤさーん。そっちはどうですかー?」
透き通った女の子の声が本棚の奥から聞こえた。
「こっちは終わったよ。スズさんの方は?」
「もう少しかかりそうですー。 手伝ってもらえますかー?」
わかった、と返事をして、本棚の奥に山積みにされた書類の所まで向かう。
書類の山の隣にある小さな木の椅子に座り、机に置かれた書類と睨めっこしている女の子に話しかける。
「まだ、かなりの量が残ってるね……」
「そうなんですよね……」
手に持っていた羽ペンを置き、はぁ、とため息を吐く。
目の前にいる女の子、スズは僕をこの図書館に居候させてくれた子だった。
彼女と出会わなければ、今頃僕は野垂れ死んでいただろう。
「まったく、先生ときたら。いきなりこんな無理難題を押し付けて!」
艶のある長い茶髪を垂らし、大きく伸び上がる。
ブレザーの様な学生服である程度着やせしているが、あまり隠しきれていない。
綺麗な顔つきに、スタイルの良い身体。背は僕よりも少しだけ小さい。
緑色の瞳がこちらを向くと、不思議そうに声を掛けてきた。
「いつも聞いてますけど、どうしてこうすると、目を逸らすんですか?」
「目のやりどころに困るだけだよ。それで、どこまで進んだの?」
「えっとですね――」
僕がこちらの世界、いわば異世界に来たのは、もう一年も前になる。
売れない絵描きだった、けれど自分の描きたい絵を描き続けた結果、自分の描いた絵の中に取り込まれてしまった。
それからというもの、現実よりも住みやすい異世界での生活を続けていた。
現実の自分よりも若返った、学生という姿で。
最後の書類を紐で括り、皮の表紙で挟んで一冊の本にした。
「やっと終わりましたー!」
嬉しそうに笑ってから、スズは机に突っ伏してしまった。
夜も更けて、学生の皆はもう眠りに就いているだろう時間だ。彼女が疲れるのも無理はない。
「お疲れ様、スズさん」
「はい、お疲れ様です。お陰で助かりました……」
すっかり干上がっているスズが、声を絞り出す様に言った。
「大丈夫? 動けそう……にはないか」
「私はもうここまでです……おやすみなさい……」
すぐに彼女の寝息が聞こえた。どこでも気楽に眠れる事は、スズの長所と言えるだろうか。
いくら図書館で寝泊りしている僕達とはいえ、このままここに寝かせておくのも気が引ける。
部屋まで運んであげたいところではあるが、以前は彼女を運んでいる最中に『先生』に見つかり、しばらくネタにされた事があった。
だから、迂闊にスズには触れない。
「……まったく」
上着をスズに掛け、彼女の隣に座る。今夜はここで夜を明かすのだろうか。
胸ポケットに仕舞ってあった筆入れを取り出し、中の絵筆を手に取った。
現実世界から唯一持ってくる事ができた、僕の商売道具だ。
空に円を描く様に筆を動かす。すると、黒で塗りつぶされた円が現れた。
「先生、こちらは終わりましたよ」
円に向かってそう告げると、返答が返ってきた。
「はい、お疲れさん。スズはいつも通りか?」
低く綺麗な女性の声。僕達が先生と呼んでいる人の声だ。
「疲れて眠ってますよ。どうしましょう?」
「部屋まで運んでやれば良いだろう?」
「……またネタにしませんよね」
「それは、お前さん次第だな」
黒い円が消え、先生の声も消える。
遠くにいる人とも話ができる魔法。僕の使える魔法の一つだ。
筆のみで顕現される僕の魔法は、この世界にいる他の魔法使いのものとは違いがある。
呪文を必要としない、という事が大きな違いだろうか。
その代わりに、魔法を想像して描く事を必要とされている。
「便利ではあるけど、まだ慣れないな」
先生の下で修行を積んできたが、一年経ってもイマイチ使い方がわかっていないのが現状だった。
「さてと。またネタにされなければ良いけど」
眠っているスズをゆっくりと抱き上げ、本棚の間をすり抜ける。
広間まで出て階段を登り、スズの部屋のドアを開ける。
「土足で女の子の部屋に入るつもりかね?」
迎えてくれたのは、彼女の飼っている黒猫だった。
「シャム……あまり大きな声を出さないでくれないか」
「ほほう? 大義名分もありと見た」
シャムと呼んだ黒猫の隣を抜けて、スズをベッドに寝かせる。
制服のままだが、こればかりは仕方がない。
「それで終わりか?」
「これ以上何をしろって言うんだよ……」
「お前も男ならわかるだろう」
「……そもそも、スズとはそんな関係じゃない」
「ほう? いつの間に呼び捨てになるほど親しくなったのかね?」
ニヤニヤと笑ってみせるシャム。正直、面倒臭い。
それよりも、いつものスズの悪い癖が出る前に、ここから出たい。
「――テツヤさん」
間に合わなかった。
振り返れば、目を瞑りながら服を脱ぎ始めているスズの姿があった。
「これ、邪魔です。脱がせてください」
彼女の悪い癖。それは眠りながら裸になる事。
どうも服を着ながら寝る事が気に入らないらしく、どうあっても脱ぐ、もしくは脱がせる癖がある。
夢遊病の如く行動するためか、本人自体はまったく事を覚えていない。人には言えない悩みのタネだった。
「勘弁してくれ、スズさん……」
「お前も男だろう? 時には耐えなければならない時くらいあるものだ」
「テツヤさん?」
ぼーっとした顔でブレザーを脱ぎ捨て、リボンを解き、ワイシャツのボタンを乱雑に外していく。
スカートはすでに横のチャックが下ろされていた。
「わかったから、ちょっと待ってくれ」
「脱がせてくれるんですか?」
「……降参するよ。その代わり下着は自分で脱ぐ事。いいね?」
通じているかはわからないが、言わないよりはマシだろう。……たぶん。
手際よくワイシャツを脱がせ、スカートのベルトを外す。
座ったままだと脱がせにくいので、横になってもらってからスカートも脱がせた。
悲しいかな、この作業にも慣れてしまった。あっという間に綺麗なスズの純白の肌と白い下着が露になる。
下着に外そうとした手を捕まえ、安全な位置に戻してから、スズから離れる。
「後は任せたよ、シャム」
「相変わらず、詰めが甘い」
「好きに言ってくれ。僕も、もう寝る」
ドアを開くと、後ろで衣擦れの音が聞こえた。
振り向かずにそのまま部屋の外に出て、ドアを閉める。
「――で、感想は?」
「いつも通りの、穢れを知らない女の子でしたよ、先生」
そう返して振り向けば、僕達が『先生』と呼んでいる女性がいた。
短めの黒髪、襟元の肌蹴た白いシャツにタイトな青いズボン。
大人の女性らしい顔つき。
そんな人が壁に背に腕を組み、タバコを咥えていた。
「またこんな所でタバコですか。いつか火事になりますよ」
「仕方ないだろう、身体が求めているんだ」
適当な所に灰を落とし、そしてまた咥えなおす。
そんな人がこの図書館の支配人とは、到底思えない。
「さすがに今回は酷使し過ぎたか」
「今回も、ですけどね」
「それは悪い事をしたな。お礼に一杯奢ろう」
「僕、まだ学生なんですけど……」
煙を吐いて、クスクスと笑う。
そして紅い瞳を向けて、僕に言う。
「中身は違うだろう。私の部屋で良いな?」
僕の返答も聞かず、火の点いたタバコで円を描く。
円の内側に呪文や線を描き、魔法陣を完成させた。
辺りの景色が一変し、先生の部屋である書斎まで連れていかれた。
「適当な所に座ってくれ。酒を持ってくる」
それだけ告げて、書斎の奥に行ってしまった。
この部屋には窓もドアもない。転移でしか出入りできない空間だ。
来てしまった以上、もう先生からは逃げられない。
「待たせた。さ、飲もうか」
この世界で唯一、本来の僕を知っている人。それが先生と呼んでいる人だった。
本来の名前はわからない。きっと、聞いても教えてくれないだろう。
表の顔は図書館の支配人。裏の顔は魔術書収集家。
どんな手を使ってでも欲しい書籍は手に入れ、高額で売りさばく。お陰でいろいろな所から狙われていたりする。
被害に遭うのが先生だけなら良いのだが、当然近しい存在である僕やスズにも被害が及ぶ。
それらに対処するため、先生の下で毎日の様に修行していた。
今夜も魔法の練習を、酔いながらこなしていく。
先生の言う『絵筆使い』として。
お久しぶりです、ろじぃです。
新しいものに手を出してしまう癖がまた出てしまいました。
更新は相変わらず不定期ですが、よろしければ読んで頂ければと思います。
では、また次回まで。