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あや 伊勢物語編

春の心

作者: 蒼月 氷水(そうげつ ひすい)

一、


 世の中に たえて桜の なかりせば


 千里万里に花が散る

 春ののどかなる光の中で

 千里万里に花が舞う

 薫る風に誘われて

 見渡す限りの桜の並木に男は息を吐く。

 美しい。

 咲き匂うばかりの花の数。

 右を向いても左を向いても、ただ花のみがある。

 美しいが、まるで花に溺れそうである。

 その色に、その香に、その気に。

 今にも飲み込まれそうである。

 だからであろうか。

 こうも胸がざわつくのは。

 その美しさに感銘し、胸が高まっている。

 だがそれ以上に強く、

 ざわり、ざわりと心が騒ぐ。

 何者かが己の奥に潜んでいて、震えながら桜を覗き見ているようだ。

 用心深く、ひっそりと、桜を見ている。

 それは不安であろうか、恐れであろうか。

 その正体が分からない。

 どちらも似ているようで、違うようである。

 締め付けられるように強く、

 胸の奥から湧き立つこの心苦しさは、

 思慕だ。

 だが、何に?

 この桜にだろうか。

 美しく、静かに花を散らすそれを見上げれば、

 身を切り裂かれるような悲しみが刹那によぎる。

「何故、こうも心が乱れるのか・・・」

 漏れ出た声は頭上から降ってきたようである。

 己の心が天に溶けて、花弁とともに降りてきたのだろうか。

 それとも花そのものの囁きであろうか。

 見上げる先に誰の姿があるわけでもない。

 空を覆い隠すように枝が伸び、

 目線を降ろした先にも、振り返った先にも、

 ただただ花のみがある。

 人の姿もなく、音もなく、

 ただ一つ、はらりはらりと散る花が、

 美しく、そして何よりも、

「恐ろしい」

 それは己の声であったか。

 ざわりと心が揺れる。

 一体何が揺らしているのか。

 一体何に震えているのか。

 この花か。

 別の何物か。

 分からない。

 分からぬままに、ただ、

 花を見ている。


「時というのは残酷なものだな」

 朝の庭に、薄く光が差し込んでいる。

 春のまだ柔らかい若葉の上では、露が光を受けて煌めいている。

 その庭に一人、男は立っている。

 年の頃は三十程であろうか。

 細面の白い顔を、庭の一点へと向けて、言葉を紡いでいる。

「どれほど美しく咲いていた花も、栄華を誇っていたものも、いつの間にか老い、時とともに散っていく」

 誰に向けて語っているようでもなく、男はただ庭を見つめている。

 庭の草木もまた、男を見つめ返しているようである。

 しんと、男の声に耳を澄ましている。

「花も人も、時の中で流れ、散っていくことに変わりはない。それなのに、人だけがそれに心を惑わす。抗おうとする」

 風がふいに庭へと忍び込む。

 ささりささりと草が鳴く。

「人というのは、哀れなものだな」

 答えるように、草が揺れている。

興風(おきかぜ)様」

 屋敷の中より、老人の声が響く。

(さい)(おう)

「どうかなされましたかな」

「どうとは?」

「そのように、人の心を思うなど、珍しいこと・・・」

 興風は軽く笑んで、屋敷へと目を向ける。

「面白い話を聞いた」

「面白い話?」

「旅の者が、京の西、山崎の向こうを通った時のことだそうだ」

 それは、白昼のことであった。

 都より離れていれば、人の姿もない。

 ただ一人、道を歩いていた。

 けれど、その孤独な旅路を慰めてくれるものが一つ。 

 桜であった。

 季節は春の盛り。

 決して多くはないが、道のあちらこちらで、桜と出会う。

 見る人の姿もないのにひっそりと咲く花に心を満たしつつ、男は京へと向かっていた。

 その途中。

 かつりと、

 どこからか音がしてきた。

 始めは特に気にも留めていなかった。

 微かな音であった。

 足を止めずに歩いていると、

 かつりと、

 また音がした。

 かつり、かつりと、

 歩むにつれて大きくなる音に、ようやく足を止める。

 辺りを見渡せば、前方に一際大きな桜の木があるのに気づく。

 樹齢百年は超えているであろう、太い幹や枝の先に、満開に花を抱えている。

 その桜の下に、一人の男が立っていた。

 かつりと、

 どうやら音はそこからであるらしい。

 近づくのは、恐ろしい。

 しかしここ以外に道はない。

 そろそろと近づいて見れば、音の正体が分かった。

 男が、桜の幹に釘を打ち付けている。

 かつり、かつりと、

 打ち付けられている釘は2、3本。

 何故そのようなことをしているのか。

 知りたくもあるが、恐ろしい。

 迷いながらも、

「もし、どうなされましたか」

 声を掛けたのは、男の顔を見たからである。

 男は泣いていた。

 二十歳になるかならないかの男であった。

 頬を涙に濡らしながら、無言で泣いていたのだ。

「もし、何をなさっているのです」

 男の手が止まる。

「このようなもの、なければ良かったのだ」

「このようなもの?」

「そうすれば・・・」

 男が目を閉じる。

 はらりと、瞼の隙間から涙がこぼれる。

 男はそのまま、桜の根元に倒れ伏した。


「それで、どうなったのです?」

 老人の声が言う。

「その者、妖にでも変じましたか?」

「いいや、しばらく介抱したら、すぐに意識を取り戻したらしい」

 しかし、自分が何をしていたのか男は覚えていなかった。

 この辺りに住んではいるが、いつここまで来たのかも覚えがないらしい。

 妖のものにでも憑かれたのであろうか。

 旅の者はその男を家へと送ることにした。

 男を放っておくのも哀れな気がしたのだ。

 その道中で、男は自分が妻を亡くしたばかりであることを語った。

 幼い頃より見知った中で、想いあって結ばれた仲であった。 

 愛しい者を失った悲しみのせいであったのだろうか。

 けれど、何故桜であったのか。

 桜に、特に強い思いがあったわけではない。

 心が弱っていると、人は思いのよらぬことをするものなのであろうか。

 そのような話をした。

 しかし、別れる間際、ふと男が言葉を漏らした。

「昔、二人で桜を見に出かけたことがありました。花も人も、愛しい時間は一瞬で過ぎ去ってしまう・・・」

 男は首を横に振る。

「時と言うのは、悲しいものです」


「なるほどのぅ」

「男が妖に憑かれたか、それとも自らの心に妖が生じたかは分からないが、興味深い話ではある」

「しかし、それだけですかな」

「それだけとは?」

「その話に何か続きがあるか、他に何か知る話でもあるのではございませんか?興風様の心を動かす何かが」

「・・・多少、似た心を持つものを知っているだけのことだ」

 興風が微かに笑む。さわりと風が草の香をまとって揺れる。

「それに、もしやあれと関係しているかもしれぬ」

「あれとは?」

「今頃、『業平』はどこにいるのであろうな」

 その行方を探るように、興風は天を見上げる。

 その先には、どこか儚げな薄い空色が広がっていた。


二、


「助けていただきたい」

 声が言った。

「桜が」

 男の声であった。

「桜が、私に囁いてくるのです」

 庭の方から聞こえてくる。

 障子を通して、昼の光が部屋に入り込んでいる。

 童女は障子へと近づく。

「桜が」

 男の声が重ねて聞こえてくる。

 童女は僅かに障子を開く。

「桜が、私を襲うのです」

 風と共に、それが中へとひとひらふたひら、

 舞い落ちて、消えた。


 桜が散っている。

 道のあちらこちらに桜の木がぽつりぽつりとある。

 風もなく、静かに花の散る中に、

 男が一人立っている。

 花びらがあちらにひらり、こちらにひらり、

 散っているのを眺めている。

「何か聞えますか?」

 興風が問えば

「はい、声が」

「どのような?」

「たくさんの小さな声が、何か囁いています」

 答える男の声も、囁くほどに小さい。

「途切れ途切れで、何を言っているのかは分かりませぬ」

「聞こえるか、あや」

 興風が傍に止められた車へと問う。

「いいえ」

 童女の声が答える。

「けれど、興風様」

 その声は、鈴の音のように高く、

「あれは桜でしょうか?」

「あれにとっては、桜なのだろう」

「どうなされるのですか」

「あの者が戻らねば、どうにもなるまい」

「間に合うでしょうか」

「さて・・・」

 目を向けた先で、男が桜を見上げている。

 その目から、はらりはらりと涙が落ちる。

「何故、泣いているのです?」

 興風が問う。

「分からない」

 なぜこんなに苦しいのか。

 男は思う。

 美しいものを見ているのに、

 愛おしいものを見ているのに、

 その美しさよりも、

 その愛おしさよりも、

 強く、

 その儚さが胸に落ちてくる。

 散っていく、消えていく、その姿が、

 こんなにも悲しい。

 散っていく、消えていく、そのことが、

 こんなにも恐ろしい。

 見つめれば見つめるほどに心が乱れていく。

「何か、ございましたか?」

 興風が問いかける。

「何か、とは?」

「愛しいものや、求めていたものを、失くされたか」

「私は・・・」

 男が桜から目を放す。

「私は、何かを・・・」

 放したはずなのに、まだ目の前にそれはある。

 右にも左にもそれがある。

 何かがその中に立っている気がする。

 溢れる花の中によぎる姿。

 心が強く締め付けられて。

「思い出せません。思い出すのが、恐ろしい」

 震えた指で顔を覆う。

「何故私だけがこんな悲しい気持ちになるのか、こんな苦しい思いをするのか」

 男が言う。

「どうか、助けていただきたい。このままでは私は・・・」

「思い出さなければ、助けることはできませぬ」

 興風の声が言う。

「あなたが分からなければ、何度でもそれはあなたに憑く」

「何を分かれと?何が憑くと?」

 声はあれど、姿は見えず、

 花が、花が、花が散る。

「散る花も 流るる水も 行く風も」

 興風の声が言う。

「人には止めようもないもの」

 白く細い指が、男の腕を掴む。

「同じことなのですよ」

 同じとは何なのか。

 男はそう問い返す。

 答える声は遠く、囁きのよう。

 一陣、風が通り過ぎ、男の意識を運び去っていった。


「鬼に、なりますか?」

 童女が問う。

「このままでは、いずれそうなるだろう」

 倒れた男に目を向けて、興風が答える。

「あれが見つかるまでもたないか・・・」

 思案気に天を見上げれば、男の周りで舞うそれが興風の頬にも触れる。

「仕方がない。拾えるだけは拾っておこう」

 興風が桜へと一歩近づく。

「あや、紙を」

「はい」

 車の御簾が僅かに上がる。

 その隙間から、淡い桜色の紙が見える。

 興風が手を伸ばし桜の幹に触れれば、

 強く、風が興る。

 男の周りのそれが、

 散る散る散る

 舞う舞う舞う

 舞いあがりながら風に乗り、車へと寄せられていく。

 御簾の隙間から差し出された紙に、それらが吸い込まれていく。

 最後の一つが吸い込まれると、童女が紙を折りたたむ。

 風はすでに治まっている。

 自然のままに花が散っている。


 夜である。

 部屋には灯りが一つ。

 その傍に薄桜色の紙が広げられて置かれている。

 そこに桜は一枚もない。

 代わりに、紙の中に散らばり折り重なっているものがある。

 それは、文字であった。

 あやがそれらを指先でなでれば、

 黒い文字たちが紙より出でて、辺りに浮かぶ。

 火のように輝きながら、煙のように揺らめきながら、

 一文字一文字が花弁のように舞う。

「足りぬな」

 あやよりも少し離れたところに坐して眺めていた興風が、やがてそう呟く。

「足りませんか」

「あや、お前はこの話を知っているか?」

「いいえ」

「ならば、まずは元のように並べるか」

 興風が灯りへと近づき、一つの文字に触れる。

 触れられた文字は再び黒い文字へと戻り紙へと落ちる。

 童女の指がその文字を紙の端へと滑らせる。

 もう一文字興風が落とせば、あやがそれを前の文字の下に繋げる。

 一文字一文字選びながら触れていくうちに、次第に文字の方がそれぞれ連なり始める。

「興風様・・・」

「互いの縁を思い出したのだろう」

 やがて、全ての文字が紙へと納まる。

「これは、物語ですね」

「ああ、ある物語の一部だな。残りはあやつが持っているか、それとも別のところをさまよっているか」

「確かに、欠けているところがありますね」

 はじまりの方に空いている個所がある。

 童女が並べた時に、文字が自ら放れて空白を作ったのだ。

「これが、今回の原因ですか?」

「だろうな」

「拾えるでしょうか」

「無理に拾えばどちらも危ない。完全に憑いてしまっているからな」

 さて、どうするものかと、興風が呟いた時、

 紙の上で光る文字があった。

 いくつかの文字が、光りながら再び紙から出ようとしている。

 あやがそれを抑えようと、手を伸ばす。

 興風がその手を掴む。

「少し様子を見よう」

 光る文字は二つの個所である。

 その文字の周りを興風がなぞれば、周りの紙をまといながら、それらが浮かび上がる。

 風もない部屋の中で、それらが滑るように移動し、障子の隙間から外に出る。

「どこへ向かうのでしょう」

「すぐに分かるさ」

 興風が障子を開けば、ひんやりとした夜気が頬に触れる。

 待つこともなく、

「興風様」

 娘の声が近くで響く。

「通してやれ、影」

「はい」

 障子の僅かに開く音がする。

「興風様・・・」

 童女の声が問う。

 目を向けてから、興風は歩き出す。

 あやもそれを追う。

 すぐに、娘の影姿が映る障子が見えてくる。

 倒れた男を運んだ部屋である。

 娘の影が障子を開く。

 暗闇に満たされた部屋の中。

 男は未だに気を失ったままである。

 その男の周りで、舞うものが二枚。

 薄く淡く、花のように。


三、


 千里万里に花が散る

 それが定めと知るように

 千里万里に花が舞う

 己の終を知るように

 音もなく騒がしく、ただ花のみがある。

 それとも、騒がしいのは己の心か。

 締め付けられながら、震えながら、恐れながら、

 花を見ている。

 美しいものを見ているのに、

 愛おしいものを見ているのに、

 美しいと思う心よりも、

 愛おしいと思う心よりも、

 それを失うことへの不安が、悲しみが、

 己の中で嵐となって激しく渦を巻いている。

 その嵐がさらに花を散らすのか。

 何故私だけがこんな苦しい思いをしながら生きているのか。

 答える声もなく、

 しかしどこかで囁く声が聞こえる。

 見回してもその姿は見えない。

 右にも左にもあるのは一つ。

 逃れるように天へと目を向ければ、

「桜など」

 声が降る。

「なければよかったのだ」

 そうだ、そうすればこんなに心を乱すことなどなかった。

 もっと静かに、穏やかな心でいられたのではないか。

 けれども、

「散るからこそ」

 声が降る。

「なお一層、桜は美しいのだろう」

 散っていく姿が美しい、愛おしい。

 花がなければまた、それも辛く悲しいことではないのか。

 けれども、あるが故にまた悲しいから、

「桜など」

 声が再び降る。

「散るからこそ」

 交互に降る。

 うるさい。

 混じり合いながら降る。

 うるさいうるさいうるさい。

 私を一人にしておいてくれ。

 これ以上私の心を乱さないでくれ。

 頭を強く降れば、目の隅に二人の男が見えた気がした。


 目を開けば、傍に興風が坐していた。

 何かに耳を澄ましているように、目を閉じている。

 白く細い顔が庭を向いている。

 開かれた障子の向こうに見える夜の庭。

 特別に、何かの花があるということもない。

 桜もない。

「・・・助けていただきたい」

 男が言う。

 興風が目を開く。

「桜でしょうか?」

 顔は庭を向いたままである。

「いいや、男が・・・」

「男・・・」

「男が二人、見えるのだ」

「ほう」

「私はきっと、あの二人に取りつかれたのだろう」

「今も見えますか?」

 興風が男の方へ目を移す。

「いいや。目の隅に見えたかと思うと、消えてしまう」

「では、何か聞こえますか」

「聞こえる」

「何が?」

 男が口を噤む。

「何が、聞こえます?」

 興風がもう一度問う。

「声が、降ってくるのだ。何を言っているのかは、分からない」

「なるほど、ならば、行かねばなりませんね」

「行く?」

「桜を見に行きましょう」


 桜が散っている。

 春の光を受けた花の色は、目に眩しいほどである。

 あちらにぽつり、こちらにぽつりとある木から、花びらがちらりちらりと落ちてくる。

 手を差し伸べながら、男は一人、立っている。

「聞こえますか?」

 興風が問う。

 男が頷く。頷きながら、

「美しいものだ・・・」

 囁いた。

 そのまま、ただじっと花を見つめている。

「・・・興風様」

 車の中より、あやが問う。

「作られたものが、人に憑くことがあるのですか?」

「憑いたのではないな。同調したのだ。あれは誰の心にもあるものだから」

「私には分かりません」

 童女が囁くような声を漏らす。

「私には、人の心がないからでしょうか」

「お前がまだ、失うことを知らないからだ。だが知らないでいられる時間も、愛しく貴い時間であると、いつか分かるだろう」

「いつか・・・」

「あや様には、まだ遠い先のことですな・・・」

 老人の声が天より聞こえる。

「翁、戻ったか」

 見上げた先に、翁の面が浮いている。

「『業平』は?」

「連れてまいりましたが、あれは夜でないと。のぅ、ほおずき」

 応じるように、肌も髪も透けるように白い童子が、興風の傍に立つ。

 童子は、擦り切れた巻物を興風へと差し出す。

 興風は受け取ると、童子の頭をそっと撫でる。

「もういいぞ、ほおずき。お前も日の光は眩しいだろう」

「あい」

 と小さく言って、童子の姿が消える。

「夜まで待ちますか?」

「いいや、このままでは夜になる前に変じてしまうだろう」

「厄介なものですな。それほど、人の世の栄華とは良い物なのでしょうかのぅ」 

「さあな、だが、その心分からなくもない。そのような心を持つ人間を、よく知っている」

 男へと目を向けて、興風が微かに笑む。

「届かぬ栄華に嘆き、老いゆく我が身を嘆き、歌を詠む男がいた」

 どうしようもないものでも、そう分かり切ったことでも、求めてしまう。

「人というのは、そういうものなのだろう。だからこそ、人はおもしろい」

 興風の傍を、風が走り去っていく。

 その先で、

「どちらなのだろう・・・」

 男が呟く。

「どちらが良いのであろう・・」

 絶え間なく、花の散るように、

「桜など、なければよかったのだ」

 絶え間なく、声が降る。

「そうすれば、穏やかな心でいることができたのだ」

 そうだ、このような苦しい思いを抱かずにすんだのだ。

「散るからこそ、桜は愛しいのだ」

 声が降る。

「そもそも、この世に変わらずに存在するものなどあろうか」

 そうだ、仕方のないことなのだ。

 だからこそ、美しいのだ、心が寄せられるのだ。

 いいや、それ故に苦しいのならば、やはり何もなければ良かったのだ。

 桜さえなければ・・・

 桜が散るからこそ・・・

 どちらが良いのか。

 どちらが正しいのか。

 どちらが私の心なのか。

 分からない。

 あざ笑うように、

 花が、花が、花が散る。

 その中に、二人の男が見える。

 じっとこちらを見つめている。

「興風殿」

 男が言う。

「どうか、あの声を、あの二人を消し去ってくれ」

「できませぬ」

「何故だ」

「あれは、害のあるものではありません」

「しかし、このままでは私は気がおかしくなりそうだ」

「それはあの二人のせいではありません。あなたが鬼になることを、彼らは望んではいない」

「では何故私に憑くのか」

「彼らは、憑いてなどおりません」

 興風の声がゆっくりと言う。

「憑いているのは、その二人ではありません」

「なんだと」

「聞こえてきたのは本当に、彼らの声でしたか?」

「それは・・・」

「何故、桜にそこまでこだわられるのです?」

「私は・・・」

「あなたは、ご自分がどなたなのか覚えていますか?」

「私は・・・」

「もうそろそろ、その男から離れておあげなさい」

 その時、二人の男が口を開いた。

「どうかお戻りください、親王」

「・・・そうだ、私は・・・」

 男の体が倒れる。

 その倒れた体を、男がじっと見下ろしている。

「憑いていたのは、私の方であったか」

「ようやくお気づきになりましたか、(これ)(たか)親王」

「業平、(あり)(つね)・・・」

 二人の男が親王に向けて礼をした。


四、


「この者は、桜の下で嘆いていた」

 倒れたままの男を見下ろしながら、惟喬の親王は言った。

「亡くした者を、過ぎ去った幸せを思い、嘆く声。その声が私を引き寄せたのだ」

 業平が、有常が頷く。 

「同じではないのにな」

 親王が呟く。

「この男と私の悲しみは別のものだ。愛おしい者を亡くしたこの者の方が、つらいことだろう」

 深く息を吐き、親王は続ける。

「それでも、この男と同じくらいに、私も苦しい心持ちであった」

「はい」

 二人が再び頷くが、

「そなた達に、私の心が分かるものか」

 親王は首を振った。

「求めた栄華は手に届かず、周りの者達も次々と去っていく」

 何と悲しいものであるか。

 栄華など、なければよかった。

 しかし、その中で過ごした日々もあったのだ。

 そもそも、華も何もないこの世に何の価値があるのか。

 散ってゆくのが悲しい。

 失うことが恐ろしい。

 けれど、全てのものがそうなのだ。

 皆、散っていくのだ。

「分かっている、分かってはいるのだ」

 求めることが、悲しいことであることを。

 求めることが、手に入れることが、失うことでもあることを。

「それでも、求める心を止められはしない」

 思うが故に、求めるが故に、

 締め付けられるような思いがあるのならば、

「私の心こそ、なければよかったのだ」

 この身などなければよかったのだ。

 そうすれば――

 両の手の平を空に広げて、

 くるりくるりと、親王が回り始める。

 嵐のように花が飛び交う。

「いけませぬ」

 二つの手が親王の腕を掴む。

「放せ。それが一番良いではないか」

 花は消えぬ。

 思う心も消えぬ。

 ならば、この身そのものがなくなりさえすれば――

「いいえ、それは違います」

 花の中から二人の声が聞こえる。

「確かに、花も人もいずれは散る定め、変わりゆくことを止めることなどできません」

「しかし変わりゆくからこそ、私たちはここにいるのです。変わりゆくからこそできることがあるのです」

「それは、なんだ」

「あなた様のために、歌を詠むことが」

 業平が言う。

「あなた様と共に、何かを愛でることが」

 有常が言う。

「散るものを止めることはできずとも、散るものを共に嘆き、共に悲しみ、共に愛でることはできます」

「私達は、幼少の頃よりあなた様をお支え、見守って参りました。栄華を夢見る日々も、悲しみに暮れる日々も、あなた様と共にあったのです」

「咲き誇る姿も、散る姿も我々はずっと見ておりました」

「苦しき心も切なき心も、あなた様と同じにございます」

「お前たちに、私の心が分かるというのか」

「桜を見るのがおつらいのは、それだけ桜が愛おしいからにございましょう」

 桜の中に、業平が立っている。

「失うことを恐れ、それ故に嫌おうとする心。それでも愛おしいという思いを消せない心。それは人の中にあるものなのです」

「散るものを悲しみ、愛おしむのは皆同じです」

 桜の中に、有常が立っている。

「同じだからこそ、共にいられるのです。どんな時でもあなた様の心をお支えできるのです。ですから――」

「求めてよいのです」

「愛してよいのです」


 唇から、春の風のような柔らかな息を漏らし、

 業平が、詠む、


 世の中にたえて桜のなかりせば

    春の心はのどけからまし

 澄んだ、真っ直ぐに通る声を放ち、

 有常が、返して詠む、


 散ればこそいとど桜はめでたけれ

    憂き世になにか久しかるべき


「業平・・・有常・・・」

 親王が声を漏らす。

「それは、どちらも私の心だ」

 はらりはらりと、涙が零れ落ちる。

「桜の木から聞こえてきたあの声は、どちらも、私の声であった」

 親王が業平を、有常を見る。

「そなたらは、私の心を知っていてくれたのだな」

「はい」

「この私を、愛おしいと、あはれだと思ってくれていたのだな」

「はい」

 業平が言う。

「あなた様もまた、桜でありますれば」

「ああ、そうか」

 惟喬の親王はしみじみとした声を上げる。

「私もまた、桜か」

「はい」

 業平が、有常が答える。

 人も皆、移ろっていく、散っていく。

 何かを得ながら、何かを失いながら。

 愛しみながら、悲しみながら。

「そうだな」

 親王が、笑う。

「私も、桜だ」 


 桜が、散っている。

 うららかな日差しのある、

 柔らかな風の吹く、

 遠く、小鳥のさえずる声のする、

「ああ、何とも、良き春の日であることだ」

 春そのものを己の中に吸い込むように、深く息をして、

 惟喬の親王が言う。

「咲き誇る時も、散りゆく時も、共に過ごしてくれるものがいるのならば・・・」

 ・・・桜も、悪いものではない

 声は春の気に溶けてゆき、惟喬の親王の姿が消えていく。

 追うように、二人の姿も消えていく。

 桜の花びらが

 ひとひら

 ふたひら

 みひら

 風に舞いながら落ちてくる。

 よく見ればそれは花ではない。

 三枚の紙片であった。

 落ちてくる先に童女が巻物を差し出す。

 ふわりと紙片が吸い込まれた。


五、


「さすがは興風様」

 そう声を放ったのは、古びた巻物であった。

「あの二人を使い、親王の御心を鎮めるとは、素晴らしき考え」

 日は、とうにない。

 宙に浮くそれを見上げて、興風が答える。

「それは違うぞ、『業平』。あの二人は自らの意志で出てきたのだ。私が何かしたわけではない」

「興風様、先程現れた業平殿と、今ここにいる業平殿・・・何故業平殿は二人いるのですか?」

 あやの問いに、

「姫、それは簡単なことですよ。確かに私は『業平』の役。しかし、書かれた物語の数だけ『業平』は存在するのです」

「物語の数だけ・・・」

「人の心とは、ただ一つではないのです。春には春の心があるように、時と共に変わりゆき、出会った相手によって変わりゆく」

 巻物が歌うように言う。

「そして変わりゆく心が、また、新しい物語を紡いでいくのです」

 何事かを思うようにあやは口を閉ざす。

「さて、そろそろ私はお暇致しましょう。その男もそろそろ目を覚ます頃合いでしょうし」

 言うが早いか、巻物は宙高くに昇り、闇へと紛れていく。

 散る花は、もはや静かである。

「桜ももう、終わりですなあ」

 老人の声が言い、興風も花を見る。

「時が移れば花は散る。が、それが終なわけではない。葉が生い茂り、紅葉し、その葉も散り、そしてまた芽が吹き、花が咲く。移ろう故に命は巡る。移ろうが故に、この世はおもしろい」

 風が辺りをすり抜けていく。

 気づいたように、男が身を動かす。

「では、私も身を隠しましょう」

 翁の面が闇を滑って去っていく。

 あやもまた、車の中に戻る。

「ここは・・・」

 男がゆっくりと身を起こした。

「気が付かれましたか」

「・・・夢を、見ておりました」

 男が言った。

「美しい桜の木の下で、三人の方が話をなされていました」

 男の視線の先で、残りわずかの花びらが、静かに散っている。

「私は、何故自分だけがこのような悲しみにあうのかと嘆いておりました。けれど、そうではないのですね」

 男が首をゆっくりと横に振った。

「失くしたものは違うけれど、私と同じように悲しみ、苦しんでいる人がいた」

「散る花も 流るる水も 行く風も、人には止めようのないもの」

 興風が言う。

「人だけが、それを悲しむ、それに抗おうとする。それが人というもの。人は皆、同じなのですよ」

「それが分かっただけでも、少し悲しみが薄らぐ心地がします」

 男が微かに笑む。

「・・・この花のように、私たちもいずれは散るのですね」

「悲しいですか?」

「・・・分かりません」

 しばらくして、

「何故でしょうね、どこか、ほっとします。それは人と、他のものと、同じということですから」

 花から目を放して、男が笑む。

 見届けて、興風は足を踏み出した。

「では、帰りましょう」

 頷いて、男は花に背を向ける。

 二人はゆるりと歩き出す。

 あわせるように、牛車も動き出す。

 もはや桜を見る者はない。

 ただ静かに、

 ただ自然のままに、

 ただただ、

 花が散っている。 


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