第1章 1 魔法少女と国語の教師
水槽の底に沈んだかのような、静かな夜が公園に満ちていた。
ブランコの鎖も、崩れかけた砂の城も、じっと息を潜めているかのように、身じろぎひとつしない。温い水を思わせるたっぷりとした暗闇に、浸され、染められ、侵されているかのようだった。
点滅する街頭の灯りには、その黒々とした夜を照らすほどの明るさはない。頼りなく俯くその姿には、どこか哀愁さえ感じられる。
そんな、深夜の公園に、1人。
黒いスーツ姿の男が立っていた。
年の頃は20代半ば。短い黒髪の下から覗く三白眼は、特に何を見るというわけでもなく、ひたすらにぼんやりと中空を彷徨っている。
手持ち無沙汰に待ち惚け。
そんな、昼間の街中ではよくある気だるげな印象を漂わせてはいるが、男が立っているのは深夜の人気のない公園だ。こんな時間帯の、こんな場所で、一体誰を待つというのか。
「おまたせっ!」
そんな常識的疑問に答えるように、声がひとつ、凪いだ空気を切り裂いた。
ジジッと呻き声のような音を立てて揺らいだのは街頭だ。弱々しく瞬くその光の上に――ひらりと降り立つ影。
「来てくれてありがとう、先生。亜美、とっても嬉しい」
幼い声ではしゃぐその影は、少女の姿をしていた。桜色の大きなリボンを髪に結び、同色のフリルがふんだんに付いた、愛らしいワンピースを着た少女だ。手には桜の花びらを象ったと思しきステッキのような物が握られている。不安定な街頭の上にも関わらず、彼女は心から嬉しそうに笑った。
「当たり前だ。先生が、生徒のお願いを断るわけがないだろう。ところで高橋、そんな所にいると危ないぞ。今すぐ降りて来なさい」
それに対し、先生と呼ばれたスーツ姿の男は抑揚のない声で答える。少女の突然の登場に動じることもなく、無表情にその三白眼を少女に向けただけだ。
「それは、宣戦布告って捉えていいんだよね? 縞島先生」
とろりとした濃厚な暗闇の中、少女の可憐な唇が、囁いた。
たんっと小気味好い音を立て、丸味を帯びた可愛いらしいデザインの靴が宙を舞う。桜色のワンピースを翻して危なげなく着地すると、彼女は手にしたステッキをビシリと男に突きつけた。
「春風に舞う一輪の花! 魔法少女ブロッサム・アミ、ただいま参上!」
1人の可憐な戦乙女が今、高らかに名乗りを上げた。
それなのに。
「高橋、さっきからお前は俺の目の前にいるわけだし、ただいま参上というのは文法的におかしい」
アニメなら間違いなくヒロインの見せ場たるこのシチュエーションに対し、男が紡いだ言葉は、どうしようもないほどに空気を読んでいなかった。
「う、う、うるさいうるさいうるさーい!」
それに対して、少女が思わず顔を真っ赤にして怒鳴るのも、致し方ないことだろう。決め台詞へのツッコミとしては、男の発言はあまりに無粋だった。
「先生は、みんなの夢を閉じ込めちゃうアクアークの手下なんでしょ⁉︎ そんな悪い奴、懲らしめてやるんだからっ! ドリームブロッサムアターック!」
怒りに任せ、少女はいきなり男に向かってステッキを振り回す。するとステッキの先端が光り輝き、そこから無数の桜の花びらが一斉に放たれた。突然降り注ぐ花びらの群れに、男は慌ててその場を飛び退く。
「うおっ⁉︎ いきなり必殺技か⁉︎」
男のそんな悲鳴は、巻き上がる土煙と轟音にかき消された。少女が放った光る花びらは、男が先ほどまで立っていた地面を容赦なく抉り取っていた。黒々とした穴の深さと大きさが、その破壊力を物語る。
「……っ!」
先ほどまでの気だるげな雰囲気は何処へやら、男は必至の形相で公園の奥に向かって駆け出した。少女に背を向け、完全に逃げの体勢だ。
「逃がさないんだから!」
少女――いや、ブロッサム・アミは、転ぶように駆けていく男の姿を見て、ようやく落ち着きを取り戻したらしい。先ほど街頭から飛び降りた際に見せた強気な表情に戻ると、猛然と男の後を追う。その先は、公園の中でも特に遊具の密集する地帯だった。塗り込められた墨色の闇の中に、動く気配は見当たらない。
「生徒相手にかくれんぼなんて、大人気ないないなぁ。亜美、ちょっとがっかり。先生のこと、実は結構好きだったんだよ?」
唇を尖らせ、ブロッサム・アミはゆっくりと足を踏み入れる。ステッキを持った手を後ろで組み、余裕を見せつける。
「な、なぁ、高橋、落ち着いて話し合おう。話せばわか……」
男が言い終わる前に、遊具の一部が鈍い音を立てて吹き飛んだ。木片やコンクリートが派手に撒き散らされるその脇を、黒いスーツが素早く駆け抜ける。
「遅い!」
素早く振り向いたブロッサム・アミがすかさず花びらの第二撃を放った。降り注ぐ桜の砲撃が、避けきれなかった男の肩を抉り取る。
「くっ……!」
「えへへ、すごいでしょ?亜美、数学の問題解くのも早いけど、攻撃だって早いんだよ。どう先生? 亜美の力、すごい?」
遊具の残骸を踏みしめながら、ゆっくりと男の潜む滑り台へと近づいていくブロッサム・アミ。
対して男は、蹲ったまま荒い呼吸を整えるのが精一杯だ。血の流れる肩を抑えながら、ブロッサム・アミの乾いた足音が迫るのを、滑り台越しに感じるほかなかった。
「さぁ先生、お仕置きの時間だよ。覚悟はいい?」
とうとうブロッサム・アミは男の前へ回り込んだ。桜色のリボンを翻し、ステッキを構える。暗く翳るその表情は、これ以上ないほど楽しげに――歪んでいた。
「これが、お前の力か」
淡く光るステッキの先端を眺めながら、男はようやく口を開いた。肩からは未だに血が溢れ出ているが、その口調は穏やかなものだった。静かに凪いだ三白眼が、ブロッサム・アミを見上げる。
「そうだよ先生。これが、亜美の力なの。先生大人なのに、手も足も出ないんだね。情けな――」
「違うだろ」
男の声が、強くブロッサム・アミの言葉を遮った。思わず動きを止める彼女に、吐き捨てるのでもなく、呟くでもなく、男は凛とした響きで続ける。
「それは、妖精さんとやらに貰った力だろ? お前自身の力じゃない」
「そ、それは、そうだけど、でも、それを使いこなしてるのは亜美だもん!」
「使いこなしてる?本当にそうか? お前、最近食欲ないだろ。今日も給食残してたし。体育中に貧血で倒れたこともあったよな? 本当は相当、無理してるんじゃないのか?そんなんじゃ使いこなしてるなんて言えないぞ」
ブロッサム・アミの握るステッキが、微かに震え始めた。なおもまっすぐに見上げてくる男を睨みつけながら、それでも彼女は叫ぶ。
「だっ、だって、だって先生はアクアークの手下で、みんなの夢を閉じ込めちゃう悪い奴で、私は、妖精さんに頼まれて、みんなを、助けるために……」
「俺がその、アクアークとやらの手下だと誰が言ったんだ?妖精さんか?妖精さんは、俺がアクアークの手下だと言い切る根拠をお前に示してくれたのか?それとも、俺が悪さをするところをお前は実際に見たのか?」
「そ、それは……」
「お前が助けたいみんなってのは、誰なんだ? 誰かがお前に助けを求めたりしたのか?何か酷い目に合っている奴を、お前は1人でも知ってるのか?
――なぁ、高橋。お前が本当に助けたいのは――助けてほしいのは、自分自身なんじゃないのか?」
「うっ……ううっ……」
「あぁそうだ、この前宿題に出した、作文なんだけどな」
その言葉に、ブロッサム・アミの肩がびくりと震えた。
「良く書けていたぞ。お前、将来看護師になりたいんだな。お母さんの働いてる姿に、小さい頃からずっと憧れてたんだろ?看護師になるために、苦手な数学だって、ずっと頑張ってきたじゃないか。俺は、ちゃんと知ってるぞ」
重く立ち込めた闇を割いて、ふいに月が夜空に現れた。白い月の光が、向かい合う2人の姿を、それぞれの表情をはっきりと浮かび上がらせる。
男は淡々とした瞳の奥に、温かさを滲ませて。そしてブロッサム・アミは――その大きな瞳に涙を溜めていた。
「お母さんの仕事が忙しくて、なかなか会えないんだろ?そうだよな、看護師さんだもんな。でも、お前は今まで、よく頑張ってきたじゃないか。一人が寂しくても、辛くても、ずっと頑張ってきたんだ。そんなお前の本当の力は、こんなもんじゃないはずだ。誰かを傷つけるような、そんな酷いものじゃない。誰かを救いたいってお前の気持ちは、確かに立派だが……お前が真っ先に救うべきなのは、お前自身だ」
そう言って、男はブロッサム・アミに手を伸ばす。擦り傷だらけの、しかし大きくて温かなその手を前に、彼女の瞳は激しく揺れ動いていた。そこに渦巻くのは、男へと疑念と、今の自分自身への疑念。そしてそれを覆い隠さんばかりの、渇望だ。
助けて欲しい。
その強い思いが、握りしめたステッキと、差し出される手のどちらかを選べと、彼女に向かって叫んでいる。
「お前自身を、救ってやれ、高橋。一人じゃ難しいなら――俺が一緒に救ってやる」
男の言葉に、とうとうブロッサム・アミの瞳から涙がこぼれ落ちた。透明な雫が、風に散る花びらのように、彼女の頬を伝い流れていく。
「ほん、とう……? 一緒に、一緒に亜美のこと、助けてくれる……?」
喉の奥でしゃくり上げながら問いかけるブロッサム・アミに、男は初めて笑顔を見せた。
三白眼の目尻がきゅっと細くなり、口元が柔らかに弧を描く。
「当たり前だ。先生が、生徒のお願いを断るわけないだろう」
ブロッサム・アミは――いや、私立九十九折女学院中等部1年2組の少女、高橋亜美は、涙で濡れた頬を桜色に染めて微笑んだ。その笑みは、今夜彼女が浮かべたどんな表情よりも、彼女によく似合っていた。
そして迷いなく男へと手を伸ばして――
「うっ……ぐあぁっ……⁉︎」
突然の悲鳴は男の口から溢れ出た。苦痛に悶えながら見遣るその視界に、赤い鮮血がどろりと滲む。
「……なぁんて言うと思った? 超ウケる」
ぐりぐりぐりぐりぐりぐり。
亜美の握る桜色のステッキが、男の抉られた肩先を容赦なくほじくり返す。傷口の奥にある柔らかな肉を、圧し潰すように、こねくり回すように、執拗に重みをかけて、ステッキの先を強引にねじ込んでいく。
「亜美はね、ただ今が楽しければそれでいいんだ。勉強のことも、ママのことも、将来のことも、ぜーんぶどうだっていいの。だってそんなこと考えてもつまんないし。アクアークとか、みんなの夢とか、今はもうどうだっていい」
先ほどまで桜色に染まっていた彼女の頬は、今や返り血で赤く汚れていた。愛らしいリボンも、フリルも、余すところなく血に塗れている。
瞳からは涙をとめどなく溢れさせ。
けれど口元は楽しくて堪らないと言わんばかりに吊り上がる。
ほの白い月明かりが、壊れた玩具のように歪なその表情を、舐めるように照らし出した。
「ゔぁぁっ……あっ……た、たか、はし……」
「先生、亜美はね、亜美はね。こんな酷いことをするのが、とってもとっても楽しくて、楽しければ他のことなんて知らないの。いらないの。だからね」
助けて欲しいけど。
助けてくれなくていいの。
涙を流して笑いながら、亜美は更にステッキを握る手に力を込めた。全体重を腕に預けるようにして、ステッキの先を男の肩口に埋めていく。
黒かった男のスーツは、今や鮮血でびしゃびしゃに濡れている。とめどなく溢れる血は彼の腕を伝い指先へと流れ落ち、男の座り込む地面に血の染みを広げ続けた。
「さてと。そろそろ終わりにしてあげるね、先生」
口角を割けんばかりに吊り上げて、ボロボロと泣きながら、亜美は笑う。否――嗤う。
そして、肩口深くにねじ込まれたステッキの先端が、男の体内で輝き出す。抉られた傷口から漏れ出す桜色の光が、自身の血に塗れた男の頬を淡く染める。
「ぶっちゃけさっきのお説教とかマジウザかったけど、すごく楽しかったから、許してあげるね。さよなら先生」
その言葉に、男は深く、こうべを垂れた。
「ごめんな、高橋」
春のくす玉が、割れたかのように。
亜美の胸から桜吹雪が舞い上がった。
音もなく溢れかえる無数の花びら。それを胸に抱いた亜美は、彼女自身が一本の桜の木のようだ。
淡い光の奔流の中、亜美はきょとんとした表情で立ち尽くしている。
涙も止まり、笑みも消え去り。
ただひたすらに、彼女は目を見開いていた。
その視線の先にあるのは、自らの身体の中央辺り。舞い上がる桜吹雪の源。
そこにあるのは、亜美の胸の中央から突き出す大きなナイフだった。
「はーい時間切れ。タイムアップでーす」
幻想的とも言える光景の中、ひどく間延びした声が響いた。その不釣り合いな声の主は、いつの間にか亜美の背後に立っている。
その手には、ナイフの柄が握られていた。
「お疲れ絲ちゃん。今回も無理だったね」
整った顔立ちの若い男は、亜美にナイフを突き立てたまま、のんびりとした雰囲気で亜美の背中越しに黒いスーツの男に話しかける。
絲と呼ばれた男は、なおも肩から血を流しつつ、俯いたまま答えない。
「じゃあ、そろそろやっちゃうよ?いいね、絲ちゃん」
無反応なスーツの男の様子を特に気にした風もなく、ナイフを持った男は改めて亜美の背中に向き直った。
「ま、窓格子先生……?どうして……」
ぼんやりと開いた亜美の唇から、そんな言葉がひとひら、花びらのように舞い落ちる。
「うん?それはねぇ高橋サン。君が妖精さんを自分から受け入れちゃったからだよ。君と妖精さんが癒着し過ぎてて、もう引き剥がせないんだ。だから、君ごと、殺すしかないんだよ」
「ころす……?」
不思議そうに、亜美は窓格子と呼んだ男の言葉を繰り返す。意味するところが理解できないとばかりに、彼女は小首を傾げた。裂かれた胸元から、桜吹雪を溢れさせながら。
「そうだよ。僕は君を殺す。これは仕方のないことなんだ。君を殺さないと――春が、死なないから」
季節が、廻らないから。
そう言って、柔和な笑みを浮かべたまま、男はナイフを力任せに引き上げた。
刃渡が30センチはあろうかという巨大なナイフは、あっさりと亜美の胸を抉り首を切り開き、亜美の顎を唇を鼻を眉間を額を、真っ二つに引き裂いた。
そして溢れ出す、むせかえるほどの、花びら。
桜色の奔流に呑まれるようにして、かつて高橋亜美だった肉の塊は、べしゃりと地面に崩折れる。見開かれたままの瞳は、目尻に涙を張り付かせたまま、ぼんやりと月を映していた。
「……ごめんな、高橋」
月明かりの下、黒いスーツの男は、乾いた唇でそっと呟く。
それに答えるかのように、一瞬小さく舞い上がった桜の花びらを――ナイフを携えた男が踏みつける。
「今日もちゃーんと春を一つ殺せたわけだけど……絲ちゃん。やっぱり無理だと思うよ?季節に寄生された子は、何らかの欠落を心に抱えてる。その窪みを埋めてくれたものを、自分の意思で拒めるように説得するなんてさ。どうしてこんな無謀なこと、続けてるの?」
花びらをひとひら、返り血のように頬に張り付かせ、ナイフの男は間延びした声で言う。
滑り台に寄りかかるようにして立ち上がったスーツの男は、その言葉に、ふっと笑った。
「先生が、生徒のお願いを断るわけないだろう」
ほの白い月明かりの下、血まみれのその男は、確かにそう言って、笑ったのだった。