第一章 記憶喪失で殺し屋4
橘は、とりあえず来た道を戻った。あたりはすっかり暗くなっていて、帰宅するサラリーマンが何人か橘の横を通りすぎる。みんな仕事帰りで疲れているはずなのに、なぜか妙に早足だ。
――何となく、自分が殺し屋になったきっかけが知りたくなった。
サラリーマンという言葉が頭に浮かぶ。ああ、そういえば――少しずつ、思い出してくる。
以前、橘は路地裏で危うく男たちに犯されかけた。肌を舐められ、もうダメだと絶望しかけたとき、たまたま手元に鉄パイプが落ちていた。
そのあとは必死だったので覚えていないが、気がつくと男たちは倒れて動かなくなっていた。火事場の馬鹿力が働いたのかもしれない。とにかく、自分でも信じられないくらい強い力がでた。
服に血がたくさん飛び散っていて、橘はこれからどう帰ろうか思案していると、近くに通りかかったサラリーマン風の男に声をかけられた。
「急な話で悪いが、これからそのお前の力を私のために使ってはくれないか。……おそらく、今少年院に送られるよりずっとずっとマシだと思うぞ」
通報されたくなかったし、橘に拒否権はなかった。
――不思議だ。この思い出だけ、はっきり覚えている。
過去の記憶をほとんど失っておいて、それはおかしな話だった。
いつまでも戻ってこない記憶について考えていても仕方がないので、橘は思考を切り替えた。お腹が空いた。コンビニにでもよって帰ろう。
「――ん?」
その時、橘は道の前方に女性が立っていることに気づいた。
初夏で気温が上がってきたこの時期に、黒いコートを着ている。変わった人だ。
その女性とすれ違う。
耳元でささやくような声が聞こえた。
「あなたは、あらかじめ決められたレールの上を歩かされている」
「――え?」
変わった女性から急にそんなことを言われて、橘は戸惑う。
しかも、橘が気になって振り返ってみると――、
次の瞬間、女性の姿は消えてなくなっていた。
「………」
道には、橘しかいない。周囲を見回してみるが、誰もいない。
「記憶喪失をこじらせて、とうとう私おかしくなっちゃったのかな……」
橘は自分を嘆いた。幻覚を見るようになってしまった。今日一日でたまった多大なストレスが精神に影響しているのかもしれない。やっぱり早くホテルに帰って寝よう、と橘は思った。