第一章 記憶喪失で殺し屋1
橘あすかは目が覚めるといきなり記憶喪失だった。ズキンと前頭部に強い痛みが走って、壁に何度も額をぶつけたように頭がぐらぐらした。こんな頭痛が数分も続いていると、さすがに橘もだんだん気持ち悪くなってくる。
私は一体どうしてしまったのだろう? 橘は自分の過去の記憶を何も覚えていなかった。どこで生まれて、何をしてきたのか。どうして今こういう状況に陥っているのか――そういった大事なエピソードが、一切思い出せなくなっている。
これからどうすれば良い?
今は、専門の病院に行って一度見てもらう必要がある。橘は脳の病気に詳しいわけではないが、それでも自分の記憶の失い方が変だということくらいは分かった。記憶の一部が、まるで意図して狙ったかのように剥ぎ取られてしまっている。
それでいて、生活に必要な知識ははっきりとしたものだ。自分が殺し屋をしているということも、なぜか当然のことのように覚えている。
「あなたの失った記憶はもう戻らない」橘は医師にそう告げられた。精密検査を行った結果、橘の脳細胞が物理的に傷つけられていることが分かった。特に「思い出」の記憶の損傷が激しいらしく、治る見込みはほとんどないという。
とりあえず今後の方針を話し合って、受付で一週間分の薬剤を処方されると、橘はぼんやりとした気分で病院をあとにした。
普通ならとことんまでへこむところだが、橘はすでにこの展開は何となく予想していた。前頭部の強い痛み。初めから、嫌な予感はしていたのだ。
でも、もう戻らないなんて――。
急に言われても、どう受け止めていいのか分からない。
本当に記憶は戻らないのか? まだ可能性があるのではないか? 橘の頭に次々と希望的な考えが生まれ、消えた。現実を呑み込むしかない。
ホテルに帰った。橘は三階の安い一室を借りているが、昨日の記憶が残っていないいので理由は分からない。良くもないが悪くもない、ごく普通の部屋。小さな窓の隅っこにシングルベッドがすっぽり収まっている。
気分転換にシャワーを浴びた。風呂から上がって鏡を覗くと、自分の顔に少しだけ明るさが戻ったような気がした。濡れた体をタオルで丁寧に拭いていく。所々茶髪の混じった短い髪は、ドライヤーを使うとすぐに乾いた。
スポーティーな下着を着けて、橘はそのままベッドへ向かった。布団に頭を突っ伏して、橘はこれからの生活について考える。 まず、唯一の収入源である殺し屋の仕事をやめることはできない。きっとこれからもたくさん人を殺して、金を稼ぐ日々が続く。
正直、こんな調子で仕事が務まるか自信がない。先が思いやられた。
「大変なことになっちゃったな……」
と、今更のように橘は呟く。
気分は暗くなる一方だ。
――そもそも、どうしてこんなことに?
数分後、橘がベッドでうなだれていると、急に手元に置いてあった携帯電話の着メロが鳴った。非通知の電話だ。相手が分からないので出ようか迷ったが、じっと悩んだ末、橘は携帯の通話開始ボタンを押した。
『やあ、私だ』
「はあ」
そう言われても、橘には誰だか分からない。低い男の声だ。
『相変わらずぼんやりし返事だな』
「……すみません、要件を」
『仕事が入った。早速ヒューマノイドを殺してもらう』
相手は仕事の依頼主だった。
――ヒューマノイド? そんな、映画じゃあるまいし。