第五章 和風パスタとあすかワールド6
建物の中へ入り、潜入開始。
前方には長い通路が続いている。二人は両手で拳銃を構える。まだ短い付き合いだが、銃撃戦における二人一組行動の基本は「相手が見ていない方向を見る」という単純なものだ。橘とあすかはまずまずのコンビネーションで慎重にクロノ株式会社の通路を進んでいく。
橘は頭の中で今回の作戦内容を確認する。まず、建物内の人間になるべく気づかれないようにすること。次に、気づかれても「殺し」は最小限にとどめること。――ただし、相手が拳銃を所持していた場合は別。最後に、社長を捕まえて「手掛かり」をはかせること。うん、全部覚えてる。バッチリだ。
一階にはトイレ、給湯室があった。
明かりはついていたが、人の姿は見られない。全員上の階にいるのか? と橘は眉をひそめた。二人は通路を曲がる。すると、目の前にある小さな部屋――休憩室だろうか――からテレビの音がかすかに聞こえてきた。複数の男の笑い声もちらほら混じっている。
部屋には窓が付いていたため、二人は中の男達に気づかれないよう四つん這いで先へ進むことにした。あすかが先頭に行き、窓からこっそり様子を伺う。男達がテレビに熱中しているタイミングを見計らって、あすかはうしろの橘に「今だ」と手で合図を送った。合図に従い橘は動き始める。
――が、唐突に部屋のドアが開いて、ひょっこりと痩せた男が出てきた。
たちまち男の目が丸くなっていく。まずい、はやくどうにかしなければ。つい驚いて声を上げそうになった橘とは正反対に、あすかの判断は冷静だった。「ふっ」と一呼吸で男のうしろに回り込むと、首に強烈な手刀を叩き込んでたちまち気絶させてしまう。
ナイス、あすか――橘も遅れて立ち上がった。部屋の中を見ると、この会社の社員らしい男が二人いる。男達は慌てた様子で、懐から安物の拳銃を抜き出した。「――ッ!」橘は瞬時に構えていたフルオート拳銃の引き金を絞った。サプレッサーで抑えられた控えめの銃声が鳴り、手の中で暴れまわるフルオート連射があっという間に二人の男を射殺する。
部屋に飛び散った肉片に顔を歪めて、橘は言った。
「予想はしていたけど、まさか、社員まで敵だなんて」
「他の社員も全員銃を所持している可能性が高い。殺しは最小限にとどめたいが、仕方がない。相手が先に攻撃してきたら、残念だけど殺すしかないな」
「そうね」
通路で気絶している痩せた男は、橘が頭部に単発の弾丸を三発くらわせて確実に息の根をとめた。拳銃を構え直し、橘は先頭を歩くあすかの後ろをついていく。
すぐに階段を見つけ、二人は二階へ上がる。
・
二階の通路は短く、少し進むと、目の前に横に長い大きな部屋が姿を現した。複数付いた窓。ドアのふだには分かりやすく、「仕事場」とかかれていた。
窓から中の様子を伺い、あすかは言った。「人は二〇人くらい。全員ここの社員で間違いないね。それと……全員パソコンと睨めっこしてる」
あすかの隣で腰を落とした橘は、溜息をして言った。「なんだ、普通に残業してるだけじゃない。てっきり麻薬とか取り扱っているのだとばかり……」
「でも拳銃は取り扱っているみたいだね」橘の言葉を遮ってあすかは言った。
「どういうこと?」
「全員スーツの懐が少しだけ盛り上がっている」
「……うわ、それって全員拳銃を所持しているってことじゃない。面倒臭い戦闘になりそうね」
「そうでもないさ」あすかは自信ありげに言った。
「どうする気なの?」
「まあ見てなって」
そう言うが否や、あすかは「仕事場」の部屋のドアを勢いよく開け放った。
あすかの行動に橘が「え?」と声を上げる。それを無視し、あすかは拳銃を突き出して「仕事場」を改めて見渡した。五つの横に長い机が部屋に等間隔に置かれていて、その上に二〇台ほどのパソコンが配られている。思わずあすかは「くすり」と笑ってしまった。それはローラー付きの椅子に座った社員の表情が全員一緒で「ポカーン」としていたからだ。だが、全員の表情はあっという間に恐怖で歪んでいく。
あすかはなるべく声を低くして言った。「全員、その場で立て」
言われた通り、全員その場で立った――――ただし、懐から拳銃を抜き出した状態で。……まあ、そうくると思ったよ。
あすかは拳銃を片手に持ち替えて、自由になったもう片方の手でベルトのフックから小型手榴弾を一つもぎ取った。
左手で小型手榴弾を軽く弄びながら、あすかは挑発的に言う。「こっちには手榴弾がある。下手に撃とうとしたら、どうなるか分かるよな」
社員の男が怯えたように頷いた。よし、これで話がスムーズに進む。「全員、銃を私の方に投げるんだ」
全員がそれに従った。――順調だ。これで社員に武器はなくなった。脅しも入れてみんな怯えているし、抵抗をしようと考えるバカもおそらく出てこないだろう。橘ちゃんも察したのか、「仕事場」には入ってこず、通路で動かないでいてくれている。視線は感じるけど。
あすかは深呼吸して言った。「質問したいことがある」
「し、質問?」社員の男がどもり気味に言った。
「そうだ。質問は二つ。答えてくれれば、お前たちを殺さないでもない」
あすかの言葉で、部屋中に緊張感が走った。一回でも回答を間違えれば即皆殺しにされてしまうかもしれないという、若干錯覚めいた、ある種独特の緊張感がその場に漂う。
「質問の内容は?」社員の男が訊ねた。
「簡単さ」あすかはさらりと言う。「一つ目、この会社の社長はどこにいる?」
その問いに女性社員が即答した。「さ、三階の社長室にいます」
「オーケー。じゃあ、早いけど最後の質問」あすか言った。「二つ目、黒スーツの男達は一体何者だ?」
「それは……」女性社員は言いよどむ。
「話せ」
「それが、ある日突然会社に現れて、『護身用に』と私たちに銃を渡してきました。なんでも、社長と接点があるみたいで……だけど社長は何も話してくれなくて、私たちにもよく分からないんです。ご、ごめんなさい」
ちっ、黒スーツの男達の情報は手に入らなかったか。「いいよ。十分だ」
質問して分かったことは、社長は上の階の社長室にいるということだけだった。黒スーツの男達については、情報が少なすぎる。だが、これ以上社員に聞いてもらちがあかないだろう。あすかは表情を和らげ、拳銃をおろした。
「脅して悪かったな」そう言って、あすかは社員全員に踵を返す。
その途端、あすかの背後で大きな安堵感が生まれたようだった。「助かった」「殺されずに済んだ」と胸をなでおろす社員や、尻餅をついて泣き出す女性社員。早速スマホを取り出して今の心境をつぶやこうとしている男女までいた。あの緊張感が、まるで全部嘘のように。――ふふ、甘いね。
「あのさ」
あすかが声を発した途端、部屋から社員たちの声が一斉に途絶えた。また恐怖で怯えているのは、一目瞭然だった。ニヤリ、あすかの口元から凶悪な笑みがこぼれる。
「――さっき私は『質問に答えてくれれば殺さないでもない』って言ったけど」あすかは小型手榴弾の栓を口で抜いた。「ごめん。あれは嘘」
コロコロと床を転がる小型手榴弾を見て絶句する社員たちを尻目に、あすかは急いで通路に飛び出し、目をパチクリさせている橘を連れて、「仕事場」からできるだけ遠くに避難する。
あすかの手を振りほどき、橘が叫ぶように言った。「手榴弾を使ったのね!?」
直後、「仕事場」が爆発した。
轟音と衝撃。あすかが投げた小型手榴弾だ。
建物全体が大きく揺れ、「仕事場」の窓ガラスがすべて吹き飛ぶ。
・
「あすかを信用した私がバカだったわ」
二階の通路を歩きながら、橘は額に手を当てて言った。
「えー、図書館の戦闘時には信用してくれてたじゃん」とあすか。「それにほら、収穫もあったし」
「少しだけでしょ」橘はぴしゃりと言った。「潜入作戦は台無し。私たちの存在も敵にバレてしまった。想定していなかった最悪の状況よ」
あれだけ音が響いたのだから、敵が気づいていないはずがない。黒スーツの男たちは今頃、より一層警備を強化しているだろう。誰を守るために? 社長を守るために。そして、「手掛かり」を守るためでもある。
橘は思った。そもそも「手掛かり」は本当にあるのだろうか? 図書館の戦闘で入手した名刺の会社名を頼りにここまで来たが、「手掛かり」が必ずあるという確信があるわけではない。――いやいや、そこは信じるしかない。なんとしてでも社長を捕まえなければ。
先頭のあすかが足を止めた。
前方の壁に、この会社の見取り図が取り付けられていた。橘はあすかに「社員に聞かなくても良かったじゃない!」と言いたくなったが、そこはなんとか我慢した。見取り図で三階の部屋の位置を確認する――ええと、ここが問題の「社長室」だ。そのすぐ横に非常用階段がついている。
「マズイな」あすかが言った。
「そうね」橘は頷く。「早くしないと、社長がこの階段を使って逃げてしまうわ」
橘とあすかは見取り図で二階の非常用階段を確認し、目で互いに合図を送って駆け出した。直線のこの通路をまっすぐ進めば非常用階段がある。
焦る気持ちはあったが、それでも二人は拳銃を構えることを怠りはしなかった。「仕事場」の爆発でほとんどの社員は死んだものの、偶然その場に居合わせなかった生き残りが何人かいるかもしれない、という可能性があったからだ。
「――ッ!」その予想通り、当然前から半狂乱の男が二人現れた。悲鳴を上げて、こちらに迫ってくる。橘は落ち着いて銃の引き金を絞った。まず一発目を男の顔面にお見舞いして、二発目と三発目を胸部に着弾させる。頬と心臓に穴があいた男は、血飛沫を上げて通路に倒れた。同じタイミングで、あすかももう一人の男にとどめをさしていた。陥没したあごから血がぶくぶくと溢れ返っている。
ここで足止めをくらいたくない。橘とあすかは二つの死体を踏みつける形で先を急いだ。しばらく行くと――あった。非常用階段だ。あすかが分厚い扉のドアノブに片手をのせる。
あすかは言った。「階段には黒スーツの男たちが待ち伏せしている可能性が高い。私が扉を開けたら、上の階段を私が、下の階段は橘ちゃんが素早くチェックする。オーケー?」
橘は無言で頷いた。
「それじゃあ……三、二」あすかがカウントをとる。「一!」
「がチャリ」とドアノブが回り、橘とあすかは勢いよく非常用階段に飛び出した。素早く背中を向かい合わせ、上、下に敵がいないかを確認する。
「……」
二人の視線の先には、あすかが言った通り、黒スーツの男が立っていた。橘が見る下の階段には全部で三人。背中越しで上の階段を見ているあすかにも、たぶん同じ程度の人数の、黒スーツの男が対峙している。
橘は冷静に敵の武器を観察する。武器は――前回と同様、アサルトライフルだ。
「これは……音を気にしている余裕はなさそうね」橘は少し動揺したように言って、構えている拳銃のサプレッサーを取り外し、ポーチに仕舞った。――なんつってね。動揺したように見せかけて、相手の油断を誘う作戦よ。
「ふっ」と一呼吸置き、短い助走で橘は一気に下り階段を飛翔する。あっという間に敵の真ん中に着地。「――!」橘の予想外な行動に、黒スーツの男三人は一瞬だけ攻撃の動作が遅れた。油断したせいもあったかもしれない。だけど――それで十分だ。橘はお留守の片手をポーチに突っ込み、まるで西部劇のような抜き撃ちで二つの拳銃の引き金を絞る。フルオートの連射がたちまち三人の男を、有無を言わせず蜂の巣にする。大量の鮮血と肉片が飛び散った。
ぐちゃぐちゃの肉塊と化した男三人を無視し、橘は頬の返り血を手の甲で拭う。
「先手必勝」こんなの、ぜんぜん楽勝だ。
「……」あすかが対峙している黒スーツの男三人は、橘が相手している黒スーツの男たちとは少し様子が違っていた。あすかは具体的にその違いを分析する。三人とも巨体で体格が良い。胸部から腹部にかけて、異常なほど筋肉が盛り上がっている。そしてなにより、全身が黒スーツに包まれていて肌が一切見えない。顔も、つばの長い帽子を深くかぶっていて確認することができなかった。――なんだコイツら?
「むう」あすかが訝しむと、それがあらかじめ決められていたお約束ごとのように、非常用階段に突風が吹いた。黒スーツ三人のベレー帽が吹き飛び、その正体があらわになる。
三人の男の顔には、皮膚がついていなかった。髪もなければヒゲも生えていない。頭部と顔面は何十種類もの機械部品をガチャガチャと乱雑に押し付けたような作りになっている。口から蒸気を吐き出し、目だけが赤く光っている。この男三人が人間でないことはすぐに分かった。まるで「ターミネーター」のような、劣化版の戦闘用ロボットだ。
「……なるほどね」ロボットの三つ子さんか。まあ私みたいなヒューマノイドがいるのだから、こんな不出来なロボットがいたっておかしくはない。少し面倒だけど。
「――ッ!」早速、黒スーツの男三人がアサルトライフルを連射した。バラララッ! と大量の弾丸がばらまかれる。あすかは身を低くし、超人的な身体能力で弾丸を交わした。ヒューマノイドだからこそ可能な動き。弾丸をうまくかわしつつ、あすかは一気に敵との距離を詰める。一人目の黒スーツの懐に潜り込むと、強烈なハイキックを脇腹にお見舞いする。「ん?」だが、手応えがなかった。男の脇腹は鉄板のように厚く、ビクともしない。それなら――――――ッ!
あすかは「ぐるり」と半回転して、スナップを効かせた右フックを繰り出した。男の腹部に直撃し、「ゴキン」と嫌な音が響く――が、これも手応えが薄い。マジで鉄板でも仕込んでるのか? あすかはとりあえず後退しようと一歩下がったが、すぐうしろにもう一人の黒スーツ男が回り込んでいることに気づいた。素早く腰を落とし、あすかはうしろの黒スーツ男の足首にローキックする。
「――!」足首の衝撃に黒スーツ男はよろめき、その場に倒れた。なるほど、足が弱点なのか。あすかは拳銃を上げ、引き金を絞ろうとする――しかし、反対側の黒スーツ男に首を掴まれ、簡単に持ち上げられてしまった。どうやら、力だけはあるらしい。
「……ぐっ」握力で首を締められ、呼吸が少し乱れる。だけど――このくらいでいい気になるなよ! あすかは冷静に頭を働かせ、黒スーツたちの弱点である足首を拳銃で狙った。引き金を絞り、フルオート連射で男の足首を粉々に破壊する。片足を失った男の巨体が横に「ガクン」と傾いた。あすかの首を締める手が緩む。
しめた――! あすかは男の腕を強引に振り払うと、そのまま階段の上に着地。男が横に傾いたおかげでクリアになった視界の先に、別の黒スーツ男がつっ立っている。あすかはすかさずフルオートを連射。しかし、男の胸部に着弾した弾丸は全てはじかれてしまう。「――チッ!」アサルトライフルを投げ捨て、味方の男を階段から外へ吹っ飛ばす形で、黒スーツ男がこちらに突進してきた。
距離が一気に縮まる。あすかはギリギリまでフルオートを撃ち続けたが、男の体にダメージを与えることができなかった。男は飛び上がり、あすかの頭部を狙って真横に左パンチを繰り出す。あすかはやむなく防御の姿勢を取った。右肘を上げて頭部を守る。強烈な衝撃。あすかの体が建物の壁に激突した。
「――痛てぇな」壁に埋まった体をピクリと動かす。壁の一部がバラバラと砕け、小さな粉塵があがった。あすかは壁から離れると、男の強烈なパンチを受けた右肘に目をやる。服の裾が擦り切れているだけで折れてはいない。そもそもこの程度のパンチで腕が折れてしまうほど、ヒューマノイドの体はもろくない。
『アレ』があればもっと楽なんだけどなあ、とあすかは心の中でつぶやいた。
しかし、今手元にないもののことを考えても意味がない。よし――ちょっと本気出すか。あすかは両足の筋肉の制御を、頭の電気信号で少しだけ解除。両足から蒸気が吹き出る。
あすかは前に飛び出す。動作の遅い黒スーツ男の頭部を狙い、目にも止まらぬスピードで右足のハイキックをかます。「ゴキン」と鈍い衝撃。頭を半分潰した確かな感触。あすかは男に反撃する暇を与えず、今度は左足の回し蹴り。今度こそ頭部が完全に潰れた。バチバチバチ……と火花を散らしながら、黒スーツ男は倒れて動かなくなる。あと一人。
「……」
あと一人となった黒スーツ男は、階段の上に倒れ、両手をもぞもぞと動かしているだけだった。あすかに蹴られた足が故障して立てなくなったらしい。動く両手は必死でアサルトライフルを探している。
あすかはすぐ近くに落ちていたアサルトライフルを蹴飛ばし、男の頭部に銃口を向けた。躊躇なく引き金を絞る――――「……あれ、弾が出ない」弾切れだった。うわ、恥ずかしい。頬を赤く染めながら弾倉を交換し、今度こそあすかはとどめを刺す。銃声が響き、拳銃から空薬莢が排出される。黒スーツ男の赤い目から光が失われて、それでおしまいだった。
「随分、時間がかかったみたいね」下の階段から見ていた、橘が言った。
「雑魚だったから、弱気で戦ってあげただけ」言い訳のようにあすかは言った。
・
死んだ黒スーツ男――ロボットの顔を見て、橘は「なにこれ?」と目を細めた。橘が戦った相手は全員人間だったが、黒スーツ男たちの中にはロボットも紛れこんでいたのだ。こいつらが『組織』の刺客だという可能性は極めて高い。まさか『組織』にこんな戦力がいたとは――想像もしていなかった。
「『組織』はどうやら、戦闘型のロボットを持っているらしい」あすかは言う。
「そうね。それもこいつらだけじゃない、もっといっぱい持っている」橘は頷いて言った。「とにかく、新しい『手がかり』は入手したわ」
「いいや、橘ちゃん。まだ作戦は継続中だよ?」
「あ……」そうだ、思い出した。「社長がまだ中にいる!」
「また新しい『手がかり』を手に入れるチャンスだ。急ごう」
橘とあすかは非常用階段を駆け上り、分厚い扉をぶち破って三階に侵入した。
通路をまた慎重に進み、社長がいると思われる「社長室」を目指す。照明はついておらず、辺りは暗い。人も、黒スーツたちの気配も感じられない。あすかは思った。きっと黒スーツの男たちは非常用階段で殺したヤツで全員だったのだ。バカね。もしものことを考えて、一人くらい三階を見張らせばよかったのに。
先程見取り図で『社長室』の位置を確認していたので、道には迷わなかった。まもなく、前方に中くらいの部屋が見えてくる。部屋のプレートには――『社長室』と書かれていた。ビンゴ。ここで間違いない。
「やった」
期待で橘の胸が弾んだ――その時。
パン! と乾いた音が部屋の中で鳴った。
橘はその音の正体をすぐに悟り、その場で歯噛みする。「……銃声よ」
先頭のあすかが慌ててドアノブを回す。「……」扉が開き中に入って、あすかは唖然とした表情になった。
いくつもある本棚で囲まれた部屋の真ん中には、それが当然のように大きな机が置いてあった。その机の上に、こめかみから血を流した中年の男がうつ伏せになって倒れている。あれが社長なのか――? あすかのうしろで、橘もまた唖然とした。そうだ。あれが社長だ。
社長は、死んでいた。
「『手がかり』が増えると期待したんだけどな……」あすかは肩を落とす。「まさか自決するとは思っていなかった」
「そうね。……これからどうする?」橘は一応訊いてみた。
「うーん、そうだな。とりあえず、私は本棚をあさってみるよ」
「私もそうするわ」
せっかくここまで来たのだから、簡単に引き下がりたくない。あすかは早速本棚からファイルを取り出して、一枚ずつページをめくっていく。まさか、この大量のファイル全部を調べる気なの!? 想像しただけで橘は気持ち悪くなりそうだった。これは時間がかかりそうね。
ため息を漏らし、橘は別の本棚から分厚いファイルを取り出した。「……うぅ」文章を数行読んだだけで、橘は頭が痛くなるような錯覚に陥った。こんなのとてもやってられない。分厚いファイルを適当に放り投げる。
ふと、橘は死体が突っ伏している机の上に置いてあるノートパソコンに目が止まった。机に近づいて、社長の死体をゆっくり横にずらす。とじたノートパソコンを開き、電源を入れる。どうせパスワードがかかっているんでしょ。あまり期待はできない。
ブブブ……パソコンが起動し、画面が光った。だが、いつまでたってもパスワードを打ち込む欄は現れない。――やがて、画面が暗くなり、光った文字がぼんやりと浮かび上がった。
Asuka-world.
「……?」
最初はなんと読むのか分からなかったが、この文字がすぐにローマ字と英単語に変換可能なことに気がついた。
橘は小さく呟いた。「あすか、ワールド……?」
その後、あすかと橘は何時間もかけて部屋中を調べまわった。本棚のファイル、机の引き出しの中、死体の身体。だが、新しい『手がかり』を発見することはできなかった。――「あすかワールド」という文字についても、なにも分からずじまいだった。
「あすかワールド」って、一体なにを現した言葉なのでしょうか。そして、あすかちゃんが戦闘中に考えた『アレ』の存在。ちょっとだけ、考えてみてくださいね。