左?
右の卵巣嚢腫と診断され、別の大きな病院に検査に行った貴子は、卵巣嚢腫は左だと言われて狼狽します。
さてっと。
渡された受付表の記入が終わり、渡されたクリアファイルに入れる。
さすが病院。
診察券を入れるポケットのついたクリアファイル。確かにこれは使いやすい。
ついつい、医療をする側の立場で考えてしまう自分に苦笑し、元あったところにボールペンを置く。
先程案内された方へ歩いていった。
婦人科の受付表は初めてだった。
質問は、やはり婦人科特有。
最近の生理開始日・生理期間・出血量・生理痛の痛みの程度…。
出血量や生理痛の痛みの程度など、他人と比較したことがないのでわからない。
しかし、聞かれている以上答えなければならない。
出血量は”普通”に三角をつけ、生理痛の痛みは”強”に三角をつけた。
丸をつけるように求められていたが、丸をつける気にはなれなかった。
だって、わかんないもん。
生理開始日も覚えてはいなかったが、携帯をチェックして書き込む。
貴子は毎回携帯のスケジュール表に生理開始日を記録していた。
もう何回も生理を経験しているので、だいたいは次に生理が来る日は予測がつく。
しかし、貴子は何事に対しても、普段から主観と客観の両方を揃えるようにしていた。
35年も生きていると、それなりに生き方が確立してくる。
どちらかと言うと、貴子は直感に頼ってしまう方である。
直感はだいたい正しかった。
しかし、自分の主観だけに頼って生きていけるほど世の中甘くはない。
他の人の予定に合わせたり、その日までにその仕事を済ませたり、事情は様々だ。
貴子の場合、生理、というか、女性ホルモンにより体調がそれなりに影響を受ける。
生理前は眠気が増すし、生理が始まる直前から生理痛が始まるし、生理が始まって2日ほど経つと貧血で立ち仕事が辛くなるのだ。
生理に合わせて、睡眠や食べ物の管理をしていた。
かなり前のことだが、職場検診で貧血が指摘された。
女性は生理があるのである程度の貧血は仕方ないが、貴子はコーヒー好きだったため余分に鉄分を取る方法を探した。
コーヒーは鉄分の吸収を抑制してしまう。
医療用に、無機鉄があるが、貴子は胃が痛くなってしまうため、市販で有機鉄を購入していた。
有機鉄の方が、吸収率が良く、胃の負担が少ないのだ。
スロープを上がって行き、2階に着いた。
えーっと。左、だよね。
左を見るが、初めて来るところだったので、立ち止まって首を伸ばす。
婦人科…あるかな。。。
「どこかお探しですか?」
振り返ると、白衣を着た男性が立っている。30代くらい。医師だろうか。
貴子は多少焦って言葉を発する。
「あっ。いえ…。婦人科…そっちで良いんですよね」
貴子の視線は”婦人科”の看板を捕らえていた。
教えてもらわなくても大丈夫だったんだけどな。
白衣を着た男性は、親切そうな笑みを浮かべて貴子が「そっち」といった方向を指差した。
「あっちで大丈夫です」
親切な病院ね。自分で探すのに。
貴子はちょっと戸惑ってお礼を言い、婦人科へ歩みを進めた。
まぁ親切に越したことはないか。これから病院も競争だもんね。
ひねくれた考え方をするわよね、と思わず自分で笑ってしまった。
マスクをして来て良かった。
マスクをしていれば笑ってもあまり見えず、変に思われない。
受付はすぐに見つかった。
看護師らしき女性が見える。
貴子が来たことがわかると、その女性は寄って来た。
「あの…。女医さんが良いんですけど、希望ってできますか?」
困ったような顔をされた。
「希望はできないんですけど…。今日はたまたま新患受付が女性の先生ですよ。じゃぁ吉野先生で良いんですね」
「はい。お願いします」
ネットで担当医を確認した際、女性らしい名前の先生は”吉野愛子”だったことを覚えていた。
やったね。
賭けは成功。
総合受付でもらった番号は611番だった。
電光掲示板で611番を探す。
診察中の1人の番号、それから診察予定の3人の番号が、それぞれの医師について表示されていた。
貴子の番号は吉野先生のところの1番目に表示されていた。
今診察中の人が終われば、貴子の番ということになる。
朝早いため、待合室には2人しか待っていない。
他の医師の可能性もあり、うかつに動けない。
トイレに行きたかったんだけどな。
貴子は数分、待合室に座っていた。
いつものように待合室を観察する。
産科も兼ねているので出産に関する雑誌やポスターが多い。
場違いな気がした。
貴子は現在は出産を希望していない。
このまま出産しないかも、とまで思っていて、この病気を機に不妊になっても致し方ないと思っていた。
ここに来る人は、妊娠したい人が多いのよね。
元々他人と違うことに引け目を感じていたためか、何となく居心地が悪い。
女性なら、普通、妊娠したいって思うんだよね。。。
そんなことを考えながら観察を続けると、”診察が近づいたらトイレを済ませて下さい”と書いてあるポスターに目が留まった。
あ。
トイレ、いかないとマズイじゃん。
慌てて立ち上がり、受付表を提出した背後の受付に歩み寄る。
さっきとは違う、事務の服を着た女性が座っていた。
「次、診察みたいなんですけど。トイレ行って来て良いですか?」
「何番ですか?」
戸惑った顔をされる。
「611です」
事務の女性は左下に視線を走らせた。
どうもパソコンか何かあるらしい。
「えーっと。次ですね…。急いで行って来て下さい」
許可をもらい、足早にトイレに向かう。
婦人科を出たところにトイレはすぐあった。
慌てて済ませて元に戻り、受付に一声かけ、待合室に腰掛ける。
表示板を見ると、先程と同じ番号が”診察中”のところに表示されていた。
良かった。
間に合った。
ホッと息をついたと思ったら、番号が消えた。
しばらくしてアナウンスが流れた。
「611番、1番にお入り下さい」
言われて、立ち上がる。
1番…。
よく見ると、診察室は1から3まであった。
1番の診察室に歩み寄り、ノックをして中に入る。
「失礼しまーす」
中に入ると、全面カーテン。
えーっと。これはどういうこと?
そのまま立ちすくんでいると、中から声が聞こえた。
「あー。ちょっとまだ待ってて下さい」
女性の声がして、カーテンがめくれた。看護師が現れた。
「ごめんなさい。もうちょっと待っててもらえますか?」
違う声がした。さっきの声はこの女性ではないようだ。
「あ。はい」
慌てて、部屋を出る。
えーっと。
とりあえず、また元の席に座る。
どうしたのかしら。
そう心の中でつぶやいて、貴子は思い当たった。
そうだ。
きっと、私が書いたノートを読んでいるんだ。
貴子は婦人科の受付に言われた受付表を出したとき、自分で書いたノートも提出していた。
紹介状がないため、自分なりに診断されたこと、自覚症状などを書いておいたのだ。
自分が医療機関で働いているため、どうすれば医療がやり易いかは心得ているつもりだ。
質問されて答えても、全部答えることは難しい。
つい、はい・いいえ、だけになってしまう。
貴子の働いている業界では、答えが”はい・いいえ”になる質問のことを”閉じた質問”といい、情報を引き出すには好ましくない質問とされている。
患者が話すのが辛そうなときや混雑しているときには、貴子はあえて”閉じた質問”をしているが。
逆に、情報を引き出す際に好まれる質問は”開いた質問”といい、「いかがですか?」「どうされたんですか?」と聞き、患者になるべく語らせる。
薬局では、患者に自分の症状を語らせた上で、それに合うように服薬指導をするようにしていた。
明らかに聞くと気分を害する雰囲気の患者には、一方的に説明をするようにしていたが。
患者によっては、薬局では話したくないという場合もある。
その辺は臨機応変に対応していた。
患者からお金をもらっている以上、配慮せねばならない。
それも仕事。貴子はそう思っていた。
貴子は情報は書面で伝えるのがお互い楽だと思っていた。
医師側は必要な情報だけ読み取ることができる。必要のない情報は流してもらえる。
患者の側からすれば、何が医療側に必要か不必要かは判断することはできない。
今の貴子も患者。
医療機関で働いているといっても、薬局である。
婦人科専門医でないと、婦人科疾患について必要不必要は判断できない。
そう思っていた。
数分後、貴子はまたアナウンスで呼ばれた。
中に入ると今度はカーテンがなかった。
パソコンの前に、若い女性が座っていた。
マスクをしているので年齢はわからなかったが、貴子より若いことは確かだ。
「こちらにお座り下さい」
促されて腰掛ける。
「経過をご自分で書いて下さったようですね」
目はパソコンに向けられている。
貴子もパソコンを覗き込むと、貴子が書いたノートがパソコンに読み込まれていた。
「はい」
書いて来て良かった。
「卵巣嚢腫、とのことですね」
「はい」
「検診で見つかったってことですね」
「はい」
「なるほど…。では、診察しますね。あちらに」
促された先を見ると、苦手な診察台があった。
うっそ。
あんなところに。
貴子は絶句した。
無造作に置いてある、貴子にはそう感じた。
同じ部屋。
特に仕切りもない。
貴子は笑ってしまった。
婦人科、だもんね。
確かにここにある方が効率的である。
仕方なく台に近づく。
横にバスケットが置いてある。
「服はこちらで」
看護師に言われる。
カーテンが閉められた。
あ。カーテンあったのね。
気づかなかったが、カーテンがあったようだ。
診察台を囲むようにカーテンが引かれた。
なるほど。
これなら抵抗感は少なくなる。
納得したものの、ため息をつき、身支度をして診察台に上がった。
診察台が上がり、医師と看護師が近づく気配がする。
「じゃぁ始めますね」
言われてしばらすると、器具が挿入される感じがした。
「生理痛が強い、ということでしたが…。子宮筋腫はないのでそれほどの痛みではないと思いますよ」
「はぁ。他人と比較しないので。。。確かに、そんなに痛いわけでは…。薬を飲めば痛みは感じないです」
意外と話すのは平気だった。
クリニックの診察台と違って、力が入りにくい。
診察される方としては、やり易かった。
「卵巣嚢腫ですが。右って言われたんですか?嚢腫は左です。右は正常ですよ」
えーっ!!
右って言われたのに。どういうことよ。。。
貴子は心の中で叫んだ。