卵巣嚢腫、発覚
暑さがそれなりに一段落した晴天の日。
貴子はいつもは履かないスカートを履いて家を出た。
紺野貴子、35歳。独身。
今日は子宮がん・乳がん検診を受けようと、普段とは違うスカート姿で家を出た。
貴子は周りから見ればスカートの似合う女性である。
本人も自覚はしている。
しかし、普段はパンツスタイル。
単に面倒臭いだけだ。
スカートだと、色々と気をつけないといけないところが多いと貴子は思っている。
遠目に見て可愛らしい格好をしていると、目立って犯罪被害にあっても文句は言えない、と。
35歳になった貴子には、普段遠目に見て可愛らしい格好をするのはデメリットの方が大きいのだ。
もう色恋沙汰で動揺するような年齢ではない。
可愛らしい格好をしたところで、良いことなど何もないわ。
年齢もあるが、外見とは異なり意外とサッパリした性格で、驚かれることが多い。
それに、貴子は体毛が多いため、スカートを履くには足の毛を剃らなければならない。
黒タイツなら剃らなくてもいいかもしれないが、まだ9月。黒タイツには早すぎる。
黒のハイソックス、膝丈のマーメイド風のスカートが今日の服装だ。
ハイソックスだが一応昨日入浴中に足の毛は剃った。
貴子にとっては単なる身だしなみだ。
見えなくても、ねぇ。
貴子は歳相応に色々振舞うべきだと思っている。
スカートのときは見えないところでも足の毛は剃る、35歳になった女性の身だしなみである。
通り慣れた道を歩いていく。
婦人科のクリニックは、徒歩5,6分のところにある。
別に気に入っていたクリニックではないが、家から近いので、何かとかかりつけにしている。
貴子は薬剤師。人一倍自分の健康には気を使っている人間の1人だ。
検診には欠かさず行っている。
今回の子宮がん・乳がん検診も、貴子の中では恒例行事である。
貴子の住む市では、子宮がん検診は毎年、乳がん検診は2年毎受けることになっている。
子宮がん検診は子宮体がん検診だと500円、子宮頸がん検診だと300円、乳がん検診は300円、だったか。
今年は無料クーポンがついており、子宮体がん検診・乳がん検診は無料で受けることができた。
ラッキー。貴子にはそんな感情しかなかった。
確かに、婦人科受診に抵抗がないといえば嘘になる。
婦人科医は男性医師だし。
貴子は検診を受ける年齢になって市から通知が来たとき、女性の婦人科医を探した。
しかし、見つからなかった。
仕方ない、か。
抵抗はあったが一番自宅から近いクリニックに行くことにし、それからずっとそのクリニックに検診に行っている。
インフルエンザの予防接種を受けたこともあるし、カンジダになってしまったときもそこを受診した。
貴子は健康体質なので、一番回数行っているクリニックかもしれない。
何回か押している木之下クリニックの扉を押した。
金曜日の午前中、ということで混んでいることを覚悟して行ったが、思ったほどではなかった。
受付で渡された検診用の記入用紙に必要事項を書き込んで提出し、自分の順番を待つ。
薬剤師である貴子は、病院の待ち時間は病院を観察することにしている。
患者用パンフレットには必ず目を通す。勉強になるのだ。
一通り観察が終わり、持ってきた本を読み始める。
貴子はある程度待ち時間がありそうなときは、必ず本を持って行く。
時間を無駄にしたくないタイプだ。
今日持ってきた本は、「不動産登記法」。
貴子は法律に興味があり、趣味で法律の勉強をしている。
最近は試験を受ける気もなく、暇つぶし、程度だが。
そうこうしているうちに、名前を呼ばれた。
貴子の番が来たようだ。
診察室に入り問診。
問診が終わって診察室を出て、また待合室で少し本を読んで待つ。
数分後に呼ばれ、今度は他の診察室へ。
そこの部屋は診察台があることは何回も来たことのある貴子にはわかっていた。
気乗りはしないが自分の健康のために仕方ない、と軽くため息をつき、スカート・靴下は履いたまま靴・下着を脱ぐ。
診察台に上がり、しばらく待つ。
医師が入ってきた音がし、「始めますね」と言われ、エコー検査等が始まる。
「力を抜いて下さい」
ここではよく言われる。
そんなこと言ったって…と思いながら、力を抜くよう努力する。
不意に、「卵巣嚢腫があるって言われたことはありますか?」
へ?
「ない、ですけど…」
…もしかして、卵巣嚢腫、あるの…?
「右に卵巣嚢腫があります。あとでお話しますね」
そして診察が終わって、台が元の場所に戻った。
貴子は着替えながら、「卵巣嚢腫…参ったなぁ」とか考えていた。
薬剤師だからある程度の知識はある。
自分はリスクが高いことも承知していた。
出産経験のない未婚の女性は婦人科疾患のリスクが高いとされている。婦人科疾患全部ではないが。
自分が高リスクとわかっていたからこそ検診も欠かさず受けていた。
しかし、いざ言われてみると…。
信じられなかった。
本当なの?
卵巣嚢腫はだいたいは良性の疾患であることは、貴子は知っていた。
しかし、疾患であることに変わりはない。
治療が必要になる。
…手術、になることもあるのよね。。。
待合室に戻って、すぐメールを打ちだす。
携帯を使用して良いところなのかはわからない。
今の貴子にとって、そんなことはどうでもいい。
ダメなら注意されるでしょ?
今は自分のことでいっぱいいっぱいだ。
「卵巣嚢腫があるって言われちゃった。これから詳しいこと聞く」
それだけを彼氏にメールした。
貴子にとって、彼にメールを送ることは精神安定剤のような働きをする。
とりあえず書いて送る、それだけで少し気分が落ち着いた。
待合室で数分待ち、最初の診察室に呼ばれる。
部屋に入って椅子に座ると、医師がA6くらいの紙を取り出し説明を始めた。
「右に卵巣嚢腫があります。現在5センチです。あ、怖い病気ではないですよ。良性が多いです」
多いってことは、悪性ってこともあるんだよね。。。
「悪性ってこともあるんですか?」
「そういうことは稀にあります。でも、今心配することではありません」
医師はこんなもん何でもない、というような表情と口調である。
その態度に何となく反感を抱きつつ、黙って説明を聞くことにした。
薬剤師とはいえそのときの貴子に卵巣嚢腫の知識はそれほどなかったし、婦人科医の方が詳しいに決まっている。
A6くらいの紙を読みつつ、説明が続いた。
「卵巣嚢腫には色々な種類があります。現在はこの機能性嚢胞、というものを疑っています。これは、排卵し損ねた卵子がつまってしまって卵巣が腫れてしまうものです。これだと、次の生理が来たら自然に小さくなります。たぶん、これでしょう」
そうなの?
貴子は少し気分が軽くなった。
「卵巣って交互に排卵するんですよね?排卵する方、とか、関係ないんですか?」
排卵は左右の卵巣が交互にするものだ。今回左なら、次は右。
つまったなら、次の排卵、つまり2ヵ月後になるのではないかと思ったのだ。
「関係ありません。生理で全体的に流れるんです」
へー。勉強になる。
貴子は、少し自分が卵巣嚢腫ということを忘れた。
「卵巣嚢腫は8センチ超えると茎捻転と言って卵巣がねじれてしまって激痛を起こします。立っていられないほどの痛みで、こうなった場合は救急車を呼んで下さい。手術しないと痛みはなくなりません」
オイオイ。
携帯絵文字のムンクの叫びが頭に浮かんだ。そして笑い顔に冷や汗の絵文字。
そんな怖いことあっさり言わないでよー。
医師はそんな貴子を気にすることもなく淡々と説明を続ける。
「紺野さんの場合は現在は5センチなのでその可能性はほとんどありませんが、8センチ以下でもごく稀に茎捻転が起きるので一応言っただけです。まず心配はないです。日常生活でも気をつけることは何もありません」
それから次回の受診日の相談になり、生理が終わった頃に来て下さい、ということになった。
会計を済ませ、クリニックを後にする。
貴子はハーっと息をはく。
卵巣嚢腫か。。。
帰って色々調べないとな。
歩きながらとりあえず彼氏にメールする。
「右に5センチだって。自然に小さくなるタイプだろうって言われた」
またハーっと息を吐いた。
そうそう。
自然に小さくなるんだから。
心配することはないわ。
何となくスッキリしないまま、自宅に向かって歩き始めた。