夜に飛び出す
つかれた。
私は馴染みの腕時計を巻いて、部屋着の上にダウンを羽織った。ポケットに二つ折りの財布を入れて、つっかけを履いて夜に飛び出す。
スマホはわざと忘れた。なにも考えたくなかった。
私は少し後悔する。冬の一歩手前の夜は私の足には冷たすぎた。
ふらふらと街灯を目印に歩き続けると、小指の感覚がなくなっていく。頬に当たる風が幽霊みたいでくすりと笑う。
「公園……」
なんてない街の、遊具すらなくなってしまった公園。そこには何脚かのベンチと自動販売機、ゴミ箱が併設されていた。
息を大きく吸って吐くと少しだけ白い息ができた。空気に溶けた白い息を見送ると、視界に人影が入る。
公園のライトに照らされたベンチには、先客がひとり。スーツの上にトレンチコートを羽織った平凡な男が座っている。男は缶コーヒーを両手に包み、ちびちびと口に運んでいた。
私も温かい飲み物を買おう。
そう思い、公園の自販機へ向かい、ポケットから財布を出すと銀色のコインをひとつ、ふたつ投入口にエサをやる。食べたお礼に選んだドリンクをくれる。私はこの時期としては早いホットココアを選ぶ。
自販機はガシャンとあつあつの缶を吐き出し、私は男が座るベンチの反対側――向かいあわせになる――に腰をかけた。
(気まず……。あっちは気にしてなさそうだけど)
なんか、ズルいな。私ばかり他人を気にしちゃって、バカみたい。
一瞬、男と目が合った。私が軽くお辞儀をすると、リーマンも返してくれる。
口元がニヤけるのをココアで誤魔化し、白煙生成機に変身した。男もコーヒーに口をつけ、同じ機械になっている。
それがなんだか、可笑しくて。両足をパッと広げてバタバタさせた。相変わらず、小指の感覚はないけれど、そんなことはどうでもよかった。
男がふと笑った気がした。不思議と悪い気分ではない。この他人とのちょっとした一体感は社会人になってからの楽しみではある。
リーマンも長い足をガバッと広げてバタバタしている。ああ、なんだか、もう。
我慢できずにクククッと声が漏れてしまったじゃないか。そんな私を見て男は満足そうにしている。初対面なのに、なんて人なの。
やがてリーマンは席を立ち、カランと空き缶をゴミ箱に入れて公園を去っていった。
不思議な人だ。喋らなくても雰囲気が伝わる。
私はしばらく会社のことや親のことを考えながらゆっくりとココアを飲み干した。興味もない社内政治なんて巻き込まないでほしい。社長とか会長とか、どうでもいい。お父さんも「結婚、結婚」「子ども、子ども」ってさえずっちゃって。自分のことも考えてほしい。お父さんだっていい人ほしいんじゃないの。
逡巡を巡らせても解決なんてしないのはわかっている。答えは頭の中にあるのも知っている。それでも重い腰があがらないというのも、自覚はある。
「二十代って考えること、多いな……」
スマホはわざと忘れたので、AIにも聞けない。ただ、まとまらない考えを浮かべているだけ。
今度は中指まで感覚がなくなってきた。そろそろ帰ろう。
もう、つかれた。
翌日もまた部屋着にダウン、サンダルという恰好であの公園に向かう。
今夜は少しぬるい風が鼻を温めた。腕時計はしている。私はなにから守っているのか、外に出る時はこの腕時計をする。
袖をまくり、時計を確認すると秒針は止まっていた。それもそうだ。この頃は長袖で太陽の光も蛍光灯の光もあててないのだから。
「なんか通販で、充電できるやつあったと思うけど……高かったよね」
人通りのない郊外の道は私の独り言もただの鳴き声でしかない。わーわー騒いだってきっと助けはこないでしょ。家の窓からそっと確認するだけで、他人には関心はない街だから。あとから「最近の若いのは」なんて言うだけなんだから。
野生の人間、現る。
原住民は噂好きのおばちゃんと、店員に横柄なじじい。こんな街にあのベンチの人も暮らしているのかな。
公園には昨日と同じ恰好の男が赤い缶コーヒーを手に座っていた。スマホを触るわけでもなく、ただゲームのNPCのようにいるのだ。
私も昨日と同じく自販機に立ち寄り、今度は金色の缶コーヒーを選ぶ。体が冷えないようホットで。
パキャッと開けると湯気がたつ。そうだ、一応冬の手前で今は夜だった。
リーマンを見やると特に会釈をするわけでもなく、たまにコーヒーをゴクリと飲んでいる。
私の足の指は今夜は冷たくないのか血が通っていた。サンダルから飛び出た足の指をグッと広げたり、ギュッと閉じたりしてみる。
「ククッ」
音の方を見ると対面の男が口元を押さえていた。
……見たな? なんてベタな脅かし方をする仲でもない。昨日、ちょっと顔を知っただけの人だ。
でも、なんだか不快じゃない。こういうのを言語化できたら賢く見えるんだろうか。私のただの主観、それも感覚的なものだ。私にもわからないのだから、他の賢い人に丸投げすることにしよう。
微糖のコーヒーは好きだ。
舌に苦味が溶け、鼻に抜ける独特の香り。喉の奥にコクがとおり、後味に残る酸味。
これを心地よいと感じたら、ようこそカフェイン中毒の世界へ、だ。昔は苦くて飲めなくて着物の展示会で居心地悪かったな。なんたってブラックだったから、たまったもんじゃない。
顔をあげるとリーマンがこちらを見て作り笑顔をしている。それはもう、わかりやすかった。
目が三日月に、口は目一杯口角を上げている。
「ぶふっ」
これはこの人が悪い。私は油断していた。
咳き込むのを落ち着かせて、もう一度見ると今度はサムズアップしてきた。
私もそれに応えて右手を伸ばした。もちろん、親指を立てて。
同じタイミングで腕を下ろし、私たちはまたコーヒーに逃げる。下した美味しい苦味を乾杯するように。
男が席を立つ。カランと鳴ったゴミ箱の袋が形を変えてご飯が来るのを待っている。
私もコーヒーがなくなってきた頃だ。ゴミだよ、お食べ。大きく口をあけたゴミ箱にエサをやると鼻歌を歌いながら帰路についた。
溜まった家事を消化し、簡単な晩御飯を食べる。休日だって仕事じゃないか。もう人生、生きるって仕事に追われている気がする。
腕時計、ダウン、サンダル、夜の八時。
今夜はいつもより早いけど、ご褒美の公園に行こう。
強風が部屋着のズボンを撫でると、私は内股になってしまった。ダウンの襟に顔を埋めて口から出た白い息に恨み言。
「なんで、こんな、寒いの」
時たま散歩中のわんこを見て、寒さを誤魔化す。みんななんてご主人が好きなんだろう。目がキラリとしてて口が開いて、舌なんか出しちゃって。たまにご主人を見すぎて電柱にぶつかったりして、それがまた愛おしい。
「将来、犬とか飼いたい……」
私はこちらを見てくれるわんこに小さく手を振った。
いつもの公園にはあのリーマンはいなかった。そりゃ休日だもん。居るわけないよね。
それはそれとして、自販機で赤い缶コーヒーを買っていつものベンチに座る。
足に絡みついた公園の砂に海水浴で行った浜辺の思い出が再生される。
夏の海は意外にもこちらほど暑くはなかった。それに気を良くして私は熱された砂浜で三点倒立をかましたのだ。バカだと思う。
両掌と頭頂が焼け、お母さんにしこたま怒られた。「火傷するじゃない! ほんとにおバカ!」と泣きそうな顔で言うもんだから私もたくさん泣いてしまった。
その後、お父さんが海の家でかき氷を買ってきてくれて泣き止んだのだが、お父さんも呆れた顔をしていたっけ。
でもこの砂は冷たく、サラサラしていない。ジャリジャリと足の指に入っては小石も紛れてくる。
私はサンダルを脱いで足と足をこすり、砂と石を足から離そうとした。あまりにも夢中になって、私は気配に気づかないでいた。
コトリ。
その音に振り返ると、あの男が同じ格好で私のベンチの端に金色の缶コーヒーを置いていた。
「あっ」
「……差し入れです」
それだけ言い残し、男はいつものベンチに座った。ザリザリと革靴と地面が擦れる音が妙に印象深かった。
しかし、また恥ずかしいところを見られてしまった……。いい歳した女がこんな恰好でしかもすっぴんでなんて、よく考えたら体裁を気にしなさすぎるじゃないか。なのに腕時計だけはちゃっかりつけている。
しかし、砂は取れない。仕方なく右手で両足の平を払う。幾分かマシだ。
男を見て、目が合ったのでお辞儀をし、金色の缶コーヒーをありがたく頂いた。
カラになった赤の缶コーヒーはベンチの端に置き、微糖の苦味に酔いしれる。ふぅと息を吐くとおとといよりも濃い白煙があがった。汽車ってこんな感じだっけ。あれは黒煙だったね。
近くで見た男の顔を思い出す。
ライトで照らされて濃い影がちょうど顔を覆っていた。そうだ、私はあの人の顔もよくは知らないのだ。なんだかテキストゲームの主人公みたいに顔がないみたい。だったら面白くない?
実はあの人は幽霊で、私に少しだけ構ってくれる優しい霊だったら。そしたら私も幽霊に対してひどく怖がらずに済むね。
男は天を仰いで白い息を汽車みたいにシュポシュポしている。
私も同じように白い息で汽車ごっこをする。紺色の夜空にふたつの白煙を添える。まるで雲みたいなのに、すぐに消えてしまう。
幽霊だったら、なんて失礼だったね。訂正する。霊だったら白い息なんてできないもんね。
そしていつものように男が席を立つ。
私はさよならすることもなく、静かにそれを見守った。




