渇望
夜と誤認させるような分厚い雲が空を覆っていた。地上は無風だったが、空の風景は目まぐるしく変わっていた。湿度が高く、ねっとりと絡み付く雰囲気が辺りを漂っていた。
町外れ、全く舗装されていないあぜ道の先に、一人の若い女が居た。三十そこらの、まだ張りのある肌をしている。居を構え、畑を耕し、暖かみのある料理を作って生活をしているのではない。女は磔にあっているのだ。服を脱がされ裸の状態で両の手首を杭で貫かれ固定されている。足にも同様のことがされていたが、足を少し曲げて、二つを重ねて一本の杭で打ってあった。杭の先端からは、微量ながらも目に見えて分かる程の血がたらたらと流れ落ちている。更に惨たらしいことに、身体中に硬いものでぶたれたような傷があり、付近に血が凝固していた。呼吸は荒く、明らかに十分な量の空気を吸えていない様子だった。
こんなにも痛め付けられ、今にも死んでしまいそうなほど衰弱しているにも関わらず、女は真っ直ぐな目をしていた。顔にたかる虫も、徐々に奪われていく体力も気に留めないで、真正面にある一本の木をただ見つめていた。
そこに老人がやってきた。浮浪者だ。鈍色に荒んだ白のローブを身に纏っているという不潔な様相で、こちらもおぼつかない足取りで歩いていた。携帯するものは何も無かったが、唯一、その手には一つの盃が持たれていた。豪勢な装飾はされていない、素朴な銀色の盃だ。
老人は女の前まで来ると、ゆったりとした動作で女を見上げた。そして小さく笑みを浮かべて口を開いた。
「下手くそじゃの、担当のもんは。良かったのお、幸せ者じゃ」
低音の奥に愛嬌があるような、なんとも不思議な声をしていた。
女はそれを聞くとすぐさま目を見開き、精一杯の怒りの表情を浮かべて、がなる声で言った。
「お前も私を鞭で打ち、罵り、嘲笑うのか?」
男はフッと息を漏らすと両手を広げた。
「見て分からんのか。このなりで、そんな大層な職になんて就いておらん」
「ならばなぜここへ来た。もうすぐ死ぬ人間にそこまで興味があるのか」
女の息は絶え絶えだった。何か言葉を発する度に力を奪われていた。その状態からして、女の命は長くは持たない。しかしそれでも声を大にして、男の尊厳を傷つけようとしていた。
「あらん。それは余裕のある人がすることじゃ。ワシのような今日を生きるので精一杯の人間は心も、金も、それができるほど満ちておらん」
男は盃を女の下に置いた。ちょうど左手の杭から垂れる血液がそこに溜まる位置だった。女は足の力を振り絞って真下を見た。その間にも女は苦悶の顔をしていた。
「……何をやっている」
「ワシは今日を生きるので精一杯じゃ。だから、あるものは全て使う。目的はあんたの血じゃよ」
「なんだって」
女は呆気にとられていた。開いた口が塞がっていない。
「喉が渇いての。水を探していた所だったんじゃ」
女は少し間を置いた。足を使い、必死に体を上下させ呼吸をする最中に、黙り込んで考えていた。
「……好きにしろ。血が少し無くなったなんて気付きもしない」
男は女の右手と両足の下にできている血溜まりを見た。指で少し掬い、それを舐めた。うんうんと頷き、最後に盃の方へと目をやる。
「右手と足か。後二つ持ってくれば良かったの」
盃に血が溜まるのを待つ間、二人には何の会話も生まれなかった。片や液体が上から下へ落ちる様をまじまじと見つめ、片や生死をかけて全身全霊で呼吸を繰り返す。時間が経つ毎に女の顔色はますます悪くなっていた。
盃に三分の一くらいの血が溜まった頃、男は口を開いた。
「あんた、何したんじゃ。かなり若く見えるが」
「何もしていない。無実だ」
一度は男の方へ向いていた視線は、再び正面の木の方へと移された。そして真っ直ぐな目をして見つめる。
「だと思ったわい。あんたの目は綺麗すぎる。そんなのが磔になんて、あるはずがない」
女は眼球だけを動かして視界の外に居るであろう男を見ようとした。目蓋が一気に開き、動揺が隠せていなかった。
「……信じるのか」
「三十そこらの若者よか、自分の勘の方が信用できるまで」
「そうか。感謝するよ」
男は女が凝視する木にもたれ掛かった。だから何かをするというわけでもなく、足を存分に伸ばし天を仰いだ。
「かといってあんたは解放されることはないじゃろうな。ワシもそこから一人で降ろせるかと聞かれたら、できないと答えるしかない」
「だろうな。こうも固定されては、お前のような老いぼれでは動かせないだろうさ」
磔にされる時、前腕の尺骨と橈骨の間に杭を打たれる。これにより固定による出血が多少押さえられ、無理な体勢で呼吸困難に陥る。そしてこれが続くことで、窒息に繋がる。
「あんた、磔にされて何日が経つ」
「そろそろ正午か。なら、もう少しで一日半になるかな」
「そうか。耐えたな。どうだ、その……介錯してやろうか」
「断る。私は無罪を貫き通す。たとえ判決が覆ることがなかろうと、この姿勢は変えない」
「それはそれで立派だ。じゃがあんたを心配する人も居るんじゃないのか。それこそ家族とか」
「息子が一人居る。今年で十二の、勉強も仕事もろくにしない、馬鹿で不真面目なやつさ」
「その子は来るのか」
「……息子には問題ないと伝えている。来るなとも、言った」
「なぜじゃ。おそらくその息子ならあんたをそこから降ろせるじゃろう。助けてと言っておれば、今頃あんたは」
「うるさい。息子にまで手を出されたら敵わない。それにこれは私一人の戦いだ」
「なら、あんたのその物憂げな表情はなんじゃ。名残惜しいのではないのか」
女は小さく、違う、と言った。常に維持してきた真の通った眼差しは崩れていた。眉間にシワを寄せ、歯を食い縛って老人から目を背けた。
数分、老人は何も問わなかった。老人からアクションを起こすのではなく、女が自ら答えを出すのを待っていた。
一粒の液体が地面に落ちた。鉄の臭いを漂わせる鮮血ではなく、純白の眼から溢れ出た透明な涙だ。次から次に涙が流れ、女から嗚咽が発せられた。
「……会いたい。もう一度だけで良いから。そして、ありがとうと伝えたい」
「なら泣くな。体力を消耗してしまうじゃろ」
一滴、また一滴と血は流れ、もうすぐ盃を満たさんとしていた。数時間黙っていた女は喋り始めた。
「なあ。もし私が死んで、その後に息子が来たとしたら、私はとっくの前に死んだと伝えてくれ。きっとアイツは自分を責めるだろうから」
無風かつ民衆が居ないという条件でやっとこさ聞こえる程度の声だった。女は大きく息を吸うことをやめていた。微かに入ってくる空気を元に喉を震わしている。
「……分かった」
老人は決して女と目を合わせなかった。視界に入ろうものなら空か地に視線を動かすことを徹底していた。
「ありがとう」
老人は女の最後の笑顔を見ることができなかった。
盃は満ちた。
それから何時間か経った頃、町からではなく、郊外から一人の青年が走ってきた。汗と涙で顔をグズグズにした彼の風貌はなんとも惨めだった。青年は十字架に吊られている女の遺体を見た。震える足で近くまで行き、そしてより一層泣きじゃくった。
次に青年は木を背にして座る老人へと近寄り、目一杯の力で首根っこを掴んで、荒い樹皮に押し付けた。
「お前か! お前が母を殺したのか!」
何の抵抗も見せない老人は、ただ一言、青年に向かって呟いた。
「あんたの母さんは立派じゃった」
それを聞いた青年は更に力を強めたが、次第に拘束を緩め、遂には手を離した。老人は酷く咳き込んだ。
「いつ……亡くなったんですか。もしかして、僕がもっと早く決断していれば……」
「ワシが来たときにはもう亡くなっていた。鞭での大量出血が原因じゃろうな。あんたには何の否もない」
青年は母親を十字架から下ろした。脱力した体は青年へと重くのしかかった。だらんと垂れた腕を必死に自分の肩に乗せ、背中に背負った。老人に一瞥すると青年はまた郊外へと去っていった。
二人の影が見えなくなった頃、老人はようやく立ち上がった。そして十字架のあった所まで歩き、盃を回収した。老人は盃を少し傾けたが、何も流れ出てこなかった。大量に集まった血は中で固まってしまっていた。
老人はため息をついた。
「……固まってしもうとるわい。これじゃあ飲めんの」




