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喫茶「逢魔」にて  作者: ねこのすみ


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1/1

第一話 狐の嫁入り

帝都の裏路地のさらに奥。

逢魔時にだけ、その喫茶店は現れる。

男がその喫茶店へ迷い込んだのは、晴れているのに雨の降る夕暮れのことだった。


「ああ、いらっしゃい」


店主がそう言った。

男が促されるまま席についたのと同時に、皿が目の前へ置かれる。

ソースの匂い。

ふと視線を落とす。

焼き色を見た瞬間、男の背に冷たい汗が伝った。

添えられた野菜、その切り方までが、あの日を思い出させる。

口元を押さえる手が小刻みに揺れ出す。


「その皿には、見覚えがおありですか」


やがて男は、ぽつりぽつりと言葉をこぼした。


「……私には、もともと好いた女がおりました」


男の声は酷く掠れていた。


「それでも、親のために別の女と祝言をあげたのです」


「親のためだったのです……だから、仕方がなかった!」


男は堪えきれず、ダンッとカウンターを叩いた。

皿の上のハンバーグから立ちのぼる湯気が、まるであの夜の食卓のように揺れて見えた。



あの女が嫁に来た日も、今日と同じ天気雨の日だった。

天気雨のせいだろうか。

降りかかる雫を受けて、あの女は金色を纏っているように見えた。

ひどく、うつくしかった。


「何分にも若輩者でございますが、ご指導のほどよろしくお願い申し上げます」


雨が降っていたというのに、白無垢は少しも汚れていなかった。

あの女は裾を濡らしもせず、静かに頭を下げた。

声を聞いたのは、その時が初めてだった。



暫くふたりで暮らしているうちに、私は少しずつ妙な違和感を覚えるようになった。

食卓には、毎食のように油揚げを使った料理が並ぶようになり、味噌汁にも、煮物にも、ときには炊き合わせにも、あの女は必ず油揚げを入れた。

その頃から、近所の女どもの噂話が耳につくようになったのです。


「あの家の嫁は狐のような女だ」


「犬歯が鋭くて、まるで獣みたいだよ」


「夜になると、家のまわりに狐火が出るんだってさ」


私は、そんなものは女どものくだらない噂話だと鼻で笑っておりました。

あの日までは。



その日、私は好いた女の願いを聞き入れ、洋食屋へ向かいました。

ふたりでひと皿のハンバーグステーキを分けて食べたのです。

好いた女を家に送る途中、雨が降りました。

ええ、お察しの通り、天気雨です。

道の向こう側に、あの女が立っておりました。

白い着物を着て、あの日と同じように金色を纏いながら。

私は慌てて顔を逸らし、好いた女の手を取ると足早にその場を去りました。

見られた。

あの女が笑っていた。

雨に濡れた唇の端だけが、ゆっくりと吊り上がっていたのです。

好いた女を家に送り届けた後、私はすぐに家へ戻る気になれませんでした。

恐ろしくてたまらず、しばらく友人宅で時間を潰しておりました。

しかし日も暮れると、友人に促されるまま自宅へ戻りました。

家へ着くと、あの女が出迎えに出ておりました。

街で見た時とは違う、真っ赤な着物に身を包んで。

あの女は何も言いませんでした。

ただ、「おかえりなさいませ」と、いつもよりやわらかな声で微笑んだのです。

女に促されるまま居間へ通されると、夕餉の支度はもう整っていたのです。


「今日は貴方の好きなものをご用意させていただきました」


あの女はそう言って、どこか嬉しそうに膳を示しました。

その膳を見た瞬間、私は妙な違和感に息を呑んだのです。

いつもあるはずのものがない。

油揚げの入った味噌汁が、その夜に限って見当たらなかったのです。

代わりに膳の中央に置かれていたのは、見慣れぬ洋皿でした。

艶のある褐色のソース。

丸くまとめられた肉。

脇に添えられた野菜。

昼間、好いた女と分け合って食べたハンバーグステーキと、寸分違わぬものがひとつ、湯気を立てていたのです。

私は一瞬、拍子抜けいたしました。

あの女は何も知らぬのだ。

昼間見たものは、きっと私の気の迷いか幻だったのだろう。

ただ、私の好物を用意して待っていただけなのだと、そう思ってしまったのです。

そう思うと、強ばっていた肩から少しだけ力が抜け、安堵の息を吐きました。

洋皿へ手を伸ばし、まだ温かなそれにナイフを入れたのです。

肉汁がじわりと滲み、思わず喉が鳴りました。

あの女は向かいに座ったまま、ただ静かに私を見ておりました。

口へ運ぶと、驚くほど柔らかく、甘みがあり、舌に絡みつくような旨さがあったのです。


「……うまい」


思わずこぼした私の言葉に、目の前の女は嬉しそうに目を細めました。

その後の私は、もうそれ以上深く考えることをやめ、うまい、うまいと皿を空にしていきました。


「……もう少し用意はあるかい」


そう問うた私に、目の前の女はひどく嬉しそうに目を細め、ふっと笑いました。


「ええ、たぁんとお召し上がりください」


その夜、私は何も知らぬまま腹を満たし、あの女を抱きました。

好いた女を抱けなかった分まで、己の肉欲を埋めたかったのです。

それから暫く、食卓には肉料理が続きました。

次の日はビーフシチュー。

その次の日はハヤシライス。

まるで洋食屋の品書きを一つずつなぞるようでした。



そんな日々を過ごすうち、好いた女からの便りがないことに気がつきました。

私はあれほど愛していた女のことを、なぜかすっかり忘れていたのです。

久々に会いに行くと、家はもぬけの殻でした。

近所の女どもに聞けば、私が送ったあの日から姿を見ていないというではありませんか。

口々に返ってきたのは、とりとめのない噂話ばかりでした。


「男と逃げた」


「どこぞの妾にでも売られていったんだろう」


「奉公に出されたのかもしれないよ」


私は肩を落として家へ帰りました。

すると、その日の夕餉には、油揚げの入った味噌汁が出たのです。


「おや……もう、肉料理は終わりかい?」


あの女は口元だけで笑みを浮かべました。


「ええ、腐り始めましたので、残りは狐にやったのです」


私は最初、その言葉の意味がわかりませんでした。

けれど次の瞬間、あの夜のハンバーグの甘い脂が、喉の奥にぬるりと蘇ったのです。

私の稼ぎは、そこまで良くありません。

それなのに、何故あれほど続けて肉料理が出せたのか。

肉が腐るほど買えるはずなど、ないのです。

私は味噌汁の椀を置き、恐る恐るたずねました。


「……あの肉は、何の肉だったんだい?」


あの女は、肉のことには答えませんでした。

代わりに、こう言ったのです。


「たぁんと召し上がっていただけたので、苦労した甲斐がありました」


後のことは、あまり覚えておりません。

吐き気が込み上げました。

吐いた気もすれば、そのまま気を失った気もするのです。

何をしたとしても、もう遅いのです。

私はあの日の夜から、うまい、うまいと食べてしまったのですから。



男はそこまで語ると、青ざめた顔で口元を押さえた。

皿の上のハンバーグステーキは、もうすっかり冷めてしまっている。

店主は、


「ああ、忘れておりました。こちらもどうぞ」


と静かに言うと、油揚げの入った味噌汁を男の前に置いた。

味噌汁の表面では、油揚げがひとひら、静かに揺れていた。

それを見た男は、椀をひっくり返し、逃げるように店を飛び出していった。

その後ろ姿を見送りながら、店主は煙管をくゆらせ、ぽつりとつぶやいた。


「ご馳走様でした」


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