朝に残ったもの
朝の光は、思っていたよりも静かだった。
鳥の声。
遠くで鳴る金属音。
野営地が、少しずつ目を覚まし始める気配。
リリアは、その中で――
ゆっくりと、意識を浮上させた。
(……?)
最初に感じたのは、
自分の身体が、いつもより重いという違和感。
次に、鼻先をくすぐる、知らない匂い。
そして――
目を開けた瞬間、視界に入った天幕の内側。
(……ここ……)
一気に、記憶が流れ込んでくる。
夜。
苦しさ。
熱。
混乱。
そして――副団長。
リリアは、反射的に身を起こそうとして、
すぐに動きを止めた。
体が、だるい。
熱は下がっているが、芯に、まだ残っている。
(……私、なにを……)
視線を下げると、
自分の隊服は、きちんと整えられていた。
乱れていたはずの胸元も、
丁寧に留め直されている。
それが逆に、胸を締めつけた。
――覚えている。
断片的だけれど、確かに。
触れられたこと。
口づけられた感触。
自分が、縋るように手を伸ばしたこと。
(私……最低だ……)
喉の奥が、きゅっと痛む。
薬のせいだと、分かっている。
自分の意思じゃなかったと、理解もしている。
それでも。
“何もなかった”とは、言えなかった。
自分が助けを求めるどころか、
相手に縋ってしまった事実が、重い。
(副団長に……)
そこまで考えたところで、気配を感じた。
「……起きたか」
低く、落ち着いた声。
オスカーは、テントの入口近くに立っていた。
腕を組み、こちらを見ている。
視線が合った瞬間、リリアは反射的に俯いた。
「……おはよう、ございます……」
声が、小さく震える。
オスカーは、それを咎めるでもなく、
ゆっくりと近づいてきた。
「体調はどうだ」
「……だいぶ、楽です」
嘘ではなかった。
夜の苦しさは、もうない。
ただ――
心が、落ち着かない。
「あの……」
言葉を探して、詰まる。
謝らなきゃ。
でも、何を?
謝罪なのか、
弁解なのか、
それとも――恐怖か。
オスカーは、先に口を開いた。
「昨夜のことだが」
リリアの肩が、びくりと跳ねる。
「お前は、薬を盛られた。
意識も判断も、正常じゃなかった」
淡々とした声。
責める色はない。
「だから、
お前が感じたことも、言ったことも、
全部―― お前の責任じゃない」
リリアは、唇を噛みしめた。
「…でも……」
「“でも”は要らない」
きっぱりとした声。
「覚えておけ。
あれは“事故”だ。お前が選んだことじゃない」
その言葉が、胸の奥に、ゆっくりと染みていく。
「……ご迷惑を……」
「それも違う」
オスカーは、少しだけ目を細めた。
「俺は、必要なことをしただけだ」
一拍、間を置いて。
「それ以上でも、それ以下でもない」
距離を、はっきりと引く言い方。
それが、優しさだと、リリアは理解してしまった。
「……今日は、無理するな」
「朝の点呼には、俺が伝えておく」
「食事も、後で持ってこさせる」
一つ一つ、事務的な指示。
だが、その一つ一つが、彼女を“守るため”のものだった。
「ありがとうございます……」
ようやく、それだけ言えた。
オスカーは頷き、踵を返す。
「少し外す。落ち着いたら、出てこい」
テントの入口で、一度だけ立ち止まり、
振り返らずに言った。
「……何も、気にするな」
その背中が消えた瞬間、
リリアはベッドに深く身を沈めた。
(……気に、するななんて……)
簡単に、できるわけがない。
それでも。
彼が、
“越えなかった”ことだけは、はっきりと分かっていた。
それが、今の彼女を、かろうじて保っていた。
オスカーは、テントを離れながら、深く息を吐いた。
(……どこまで、話す)
昨夜のことを、すべて報告する必要はない。
だが、黙りきることも、できない。
薬を使った者がいる。
それは、明確な犯罪だ。
だが同時に――
リリアの名誉と尊厳を、守らなければならない。
(事実だけだ……)
余計な感情も、不必要な詳細も、切り捨てる。
「誰が」「何を」「どうしたか」
それだけ。
オスカーは、団長のテントへ向かった。
「昨夜の、報告があります」
中に入ると、ラルフは書類から顔を上げた。
「話せ」
「ローゼン卿が、何者かに薬を盛られました」
一瞬、空気が張り詰める。
「媚薬です。症状から見て、計画的」
ラルフの視線が、鋭くなる。
「被害は」
「命に関わるものではありません。
現在は、回復しています」
嘘ではない。
だが、すべてでもない。
「犯人の目星は」
「まだです」
オスカーは、視線を逸らさずに答えた。
「だが、内部の人間である可能性が高いです」
ラルフは、しばらく沈黙した。
「分かった」
低い声。
「この件は、俺とお前で預かる」
それだけで、十分だった。
一方。
朝の支度が始まる野営地の片隅で、
サフィナは、周囲の空気を探っていた。
(……おかしい)
昨夜、
もっと騒ぎになるはずだった。
リリアが、取り乱して、噂になるはずだった。
なのに。
誰も、何も言わない。
副団長の動きが、早すぎる。
(……まさか)
胸の奥に、小さな不安が生まれる。
計算通りだったはずの歯車が、
ほんの少し、噛み合っていない。
サフィナは、無意識に唇を噛んだ。
――まだ、大丈夫。
そう、自分に言い聞かせながら。
だが、その「まだ」が、いつまで続くのかは、
もう分からなかった。




