闇夜に潜り込む影
深夜。
月明かりも届かない物陰で、
二つの影が向かい合っていた。
一人は、マントのフードを深く被った女。
もう一人は、体格のいい男。
「……確かなんでしょうね」
女の声は低く、冷えている。
男は短く笑い、小さな瓶を差し出した。
「約束だ。
量も調整してある。
すぐに動けなくなるが、死にはしない」
サフィナはそれを受け取り、指先で小瓶を握りしめた。
透明な液体が、かすかに揺れる。
「……また連絡するわ」
その声に、感情はなかった。
翌朝。
騎士団の訓練場に、緊張した空気が流れていた。
全員が整列する中、団長の声が響く。
「遠征討伐命令が下った。
周辺の村で魔物の被害が出ている」
「準備を整え次第、昼過ぎに出発する」
命令は簡潔だった。
リリアは、静かに拳を握り締める。
――討伐。
いつもと変わらない任務。
ただ、それだけのはずだった。
夕方。
野営地。
火を起こす者、見張りを立てる者、装備を整える者。
全員が、無駄なく動いている。
リリアもまた、その輪の中にいた。
水を運び、食料を分け、調理の補助をする。
「遅いな」
低く、刺すような声。
振り向くと、
同僚のジーク・フォレストが腕を組んで立っていた。
「その程度の仕事で手間取るとは。騎士団の恥にならないでくれよ」
「すみません…」
それだけ答える。
「謝れば済むと思ってるのか?」
嘲るような笑み。
リリアは、何も言わなかった。
――いつものこと。
これくらい、なんでもない。
そう、何度も心の中で繰り返す。
夕食が終わり、片付けの時間。
鍋を洗い、食器をまとめる。
その少し先で、何もせず立っている影があった。
リリアの後輩、ノル・フェルスナー。
「フェルスナー卿」
静かに声をかける。
「手が空いているなら、火に薪を足してもらえますか」
ノルは、ちらりともこちらを見ない。
別の団員のとこに行き、楽しそうに話している。
聞こえていないふり。
リリアは、数秒だけ立ち尽くし、
それから何も言わずに作業に戻った。
――いい。
無理に頼む必要はない。
副団長は、その様子を少し離れた場所から見ていたが、
何も言わなかった。
今は、介入すべき場面ではないと判断したのだ。
夜。
見張りを残し、野営地は次第に静まっていく。
リリアは、サフィナと同室のテントだった。
中に入ると、サフィナの姿はなかった。
(……まだ戻っていないのか)
疲れた体で腰を下ろし、荷物の中から水筒を取り出す。
喉が渇いていた。
何も考えず、口をつける。
――数分後。
胸が、苦しくなった。
「……?」
動悸が、異様に早い。
呼吸が浅くなり、
体の内側が、じわじわと熱を持ち始める。
(なに、これ……)
力が、入らない。
足が、震える。
その時、テントの入り口が開いた。
サフィナだった。
リリアの異変に気づくと、一瞬、目を細める。
そして―― 口元に、薄く笑みを浮かべた。
(……ああ、効いてる)
雑務に追われている間に、
リリアの荷物から水筒を抜き取り、小瓶の中身を混ぜた。
痛みでは、折れない。
だから――
知らない苦しみを与える。
「ローゼン卿?大丈夫ですか?」
心配そうな声。
「今、人を呼んできますね」
そう言って、サフィナはテントを出ていった。
リリアは、返事もできなかった。
直後。
テントの入り口が、再び、静かに開く。
次の瞬間――
口を、強く押さえられた。
「……っ!!」
男の力に、体が押し倒される。
暗闇の中で、別の気配。
二人だ。
「悪く思うなよ」
「いい思いさせてやるからさ」
低い笑い声。
恐怖が、頭を支配する。
(……いや!!)
(こんなの……)
必死に抵抗する。
力の入らない体で、急所を狙って蹴り上げた。
一瞬の隙。
転がるようにして、テントの外へ這い出た。
――逃げなきゃ。
どこでもいい。
遠くへ。
野営地の奥、木々の影へ。
足が、もう動かない。
体が、異様に熱い。
息が、乱れる。
(どうして……)
(……なに、これ……)
初めての感覚。
痛みではない。
ただ、混乱と恐怖。
木の幹に背を預け、必死に呼吸を整えようとする。
「……はぁ……はぁ……」
声が、漏れた。
「助けて……」
その瞬間。
「誰だ」
低く、鋭い声が響いた。
剣の気配。
警戒した足音。
副団長だった。
闇の中で、
リリアの姿を捉えた瞬間、
彼の表情が、凍りつく。
「ローゼン卿……どうした。何があった」
低く、落ち着いた声。
オスカーは剣を抜かず、ゆっくりと距離を詰めた。
闇の中で、
リリアは木に縋るように座り込み、肩で息をしていた。
「……ふく……だん……ちょう……」
声が震え、言葉が崩れる。
「……すい……とう……のん……だら……」
その一言で、オスカーはほぼ確信した。
乱れた隊服。
濡れた睫毛。
熱を帯びた肌。
(……最悪だな)
内心でそう吐き捨てながら、表情だけは崩さない。
「大丈夫だ。ここにいる」
怖がらせないよう、
声の調子をほんの少し柔らかくする。
それは、
女を安心させる声を知っている男の、自然な振る舞いだった。
リリアの体を抱き上げると、
彼女は抵抗するどころか、
無意識に縋るように腕を絡めてくる。
(……自覚、ないんだな)
それが余計に、胸の奥をざわつかせた。
自分のテントに運び、簡易ベッドにそっと降ろす。
リリアはすぐに、熱に浮かされたように身をよじった。
「水、飲めるか?」
小さく頷く。
だが、水筒を持たせても、指先が言うことを聞かない。
「……ったく」
オスカーは小さく息を吐き、水筒を自分の手に戻した。
(仕方ない)
リリアの顎に指を添え上を向かせる。
「……驚くな」
そう言って、
口に水を含み、ゆっくりと口づけるように唇を重ねた。
水が、静かに流れ込む。
リリアの喉が、こくりと鳴る。
唇が離れたあとも、
しばらくリリアはぼんやりと彼を見つめていた。
潤んだ瞳。
上気した頬。
その表情に、オスカーは一瞬、目を細める。
「……勘弁してくれ」
小さく、誰にも聞こえない声。
「聞いてくれ」
オスカーは、彼女の視線を逃さずに言った。
「お前は今、媚薬を飲まされてる」
反応は鈍い。
頭が、追いついていない。
「……このまま放っておくと、もっと辛くなる」
一拍、置く。
「触れる。嫌なら、今すぐ言え」
リリアは答えなかった。
代わりに、無意識に彼の隊服を掴む。
弱く、必死に。
それで、十分だった。
オスカーは一度、目を閉じ、深く息を整えた。
(最後までは、絶対にしない……)
それだけを、何度も自分に言い聞かせる。
彼女のそばに腰を下ろし、そっと唇を重ねる。
今度は、水のためじゃない。
熱を逃がすための、静かな口づけ。
リリアの呼吸が少し乱れる。
「……んっ……」
喉から零れた声に、
オスカーの背中に、ぞくりとしたものが走る。
(……薬のせいだ)
そう言い聞かせながら、触れ方を選ぶ。
急がない。
強くしない。
彼女が壊れないよう、それだけを考える。
指先で熱を持った肌をなぞる。
すると、リリアの体が正直に反応した。
「……っ…ぁっ…」
小さく、甘い声。
「声、抑えろ」
低く囁くと、リリアは涙を浮かべながら頷く。
「……ごめん……なさい……」
その言葉に、胸が締めつけられる。
「謝るな」
短く言い切る。
「悪いのは、お前じゃない」
それでも彼女の体は、
彼の指を求めるように熱を帯びていく。
オスカーは、
自分の理性が削られていくのを、はっきりと感じていた。
(……慣れてるはずだろ)
女の扱いには慣れている。
今まで困ったこともない。
それなのに――
薬に浮かされた彼女の反応が、
あまりにも無防備で、あまりにも素直で。
「……ったく」
歯を食いしばり、
限界を越えない位置で、
丁寧に、確実に、熱を逃がしていく。
やがて。
リリアの体が一度、強くビクッと力が入った。
「…ぁっ……ぁっ………んー!!……」
張りつめていた彼女の体が、ふっと力を失った。
「……はぁ……はぁ……」
呼吸が、ゆっくりと整っていく。
涙に濡れた睫毛が伏せられ、指先の力が抜けた。
オスカーはそっと手を離し、乱れた隊服を整えた。
「……もう大丈夫だ」
眠るように、リリアは小さく息を吐いた。
オスカーはその場から動けず、
天井を見上げたまま、深く息をつく。
(……よく耐えたな、俺)
衝動は、確かにあった。
今でも、胸の奥で燻っている。
それでも―― 越えなかった。
それが、
副団長としてではなく、一人の男としての選択だった。
夜は、まだ長い。
だがこの夜で、確実に、戻れない何かが生まれていた。




