それぞれの想い
朝の訓練場は、静かだった。
いつもより少し遅れて、リリアはそこに立っていた。
身体はまだ重く、足首にも違和感が残っている。
それでも、剣を握ることはできた。
それだけで、十分だった。
「……来たか」
背後から、低い声。
団長だった。
リリアは一瞬、身体を強張らせ、それから小さく頭を下げる。
「おはようございます、団長」
声は、いつも通り平坦。
だが、昨日と同じではないことを、本人だけが分かっていた。
“気にされている”
その事実が、まだ体のどこかに残っている。
ラルフは、彼女の足元を一度だけ見た。
「……無理はするな」
それだけ言って、前を向く。
命令でも、叱責でもない。
ただの確認のような声。
リリアは、どう返せばいいのか分からず、
「……はい」
そう答えた。
訓練が始まる。
今日は軽めだった。
誰も口には出さないが、
全員が、リリアの体調を意識している。
それが、分かる。
以前なら、そんな空気はなかった。
良くも悪くも、彼女は“数に入っていなかった”。
今は違う。
休憩時間。
水を飲んでいると、視線を感じた。
顔を上げると、副団長が立っている。
「調子は?」
短い問い。
「……問題ありません」
即答してから、
少し遅れて、
「……お気遣い、ありがとうございます」
と付け足した。
オスカーは、一瞬だけ目を瞬かせた。
「……礼を言われるほどのことじゃない」
そう言って、視線を逸らす。
沈黙。
だが、気まずさはない。
それが、リリアには不思議だった。
昼食。
今日は、配膳された。
それだけで、胸の奥がざわつく。
席につき、スプーンを持つ手が、少しだけ震えた。
「……食べないの?」
声をかけたのは、治癒師だった。
王族専用の、治癒師。
ルークは、いつもと変わらない穏やかな顔で立っている。
「いえ……」
言いかけて、止まる。
理由を言えば、心配される。
心配されるのは、まだ慣れない。
「……いただきます」
そう言って、口に運ぶ。
温かい。
それだけで、涙が出そうになるのを、必死で堪えた。
ルークは、何も言わなかった。
ただ、少しだけ安心したように、息を吐いた。
「無理に話さなくていいですよ」
低い声。
「今日は、ちゃんと食べてくれれば」
それは、治療でも忠告でもない。
“隣にいる”という態度だった。
午後の訓練。
ペアを組むことになった相手は、団長だった。
周囲が、ざわつく。
リリアは、一瞬だけ躊躇い、それから、剣を構えた。
「……いつも通りでいい」
ラルフは言う。
「だが、 倒れそうになったら、合図しろ」
命令だった。
だけど、どこか、違う。
「分かりました」
剣を交える。
音が響く。
以前と同じ速度。
同じ動き。
それでも、ラルフは気づいた。
彼女は、少しだけ、力を抜いている。
――信じている。
そう思った瞬間、
胸の奥に、説明のつかない感覚が残った。
訓練が終わり、夕方。
リリアは一人で片付けをしていた。
だが、今日は誰かが近くにいる。
団長だ。
無言で、同じ作業をしている。
「団長」
リリアが、珍しく声をかけた。
「昨日は……ありがとうございました」
ラルフは、手を止めない。
「礼を言われるようなことはしていない」
「……それでも」
リリアは言葉を探し、結局、それ以上は言わなかった。
ラルフは、彼女の方を見た。
「……お前は」
言いかけて、止める。
“強い”
“我慢しすぎだ”
“もっと頼れ”
どれも、今は違う気がした。
「……いや。今日は、それでいい」
リリアは、少しだけ目を伏せた。
その仕草が、なぜか、胸に残る。
部屋に戻る途中。
廊下の窓から、夕焼けが見えた。
リリアは、足を止める。
胸の奥が、静かに忙しい。
近づかれることに、拒絶よりも、戸惑いが勝っている。
それは、今までになかったこと。
――この気持ちはなんだろう。
でも。
この距離に、名前が付く日が来るかもしれない。
リリアは、そう思ってしまったことに驚き、
小さく、息を吐いた。
剣を握り直す。
今日も、まだ、騎士だ。
だが確かに、何かが、動き出していた。
――――――
治癒師ルーク・エルシオンは、
人の身体を見ることに慣れている。
痛みの場所。
異常な脈。
隠された不調。
それらを見落とさないことが、仕事だった。
だから――
あの朝、違和感に気づいたのは、偶然ではない。
昼食の時間。
食堂の隅で、
リリア・ローゼンが静かに座っているのが見えた。
――食べている。
それだけのことなのに、ルークは無意識に歩みを止めた。
昨日、治療したときの身体の状態が、脳裏をよぎる。
骨と皮と筋肉しか残っていないような細さ。
回復魔法が追いつかないほどの栄養不足。
食事を口にできているかどうかは、
回復の分かれ目だった。
「……よかった」
小さく、誰にも聞こえない声で呟いてから、
はっとする。
――何を、安心している?
患者が食事を取れる。
それは治癒師として当然、喜ばしいことだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう、自分に言い聞かせて、
ルークは彼女の向かいに立った。
「無理はしていませんか」
声は、いつも通り穏やかに。
リリアは少し驚いたように顔を上げ、
それから、静かに頷いた。
「……大丈夫です」
大丈夫。
その言葉に、ルークは僅かに眉を寄せた。
治癒師にとって、
「大丈夫」は、最も信用してはいけない言葉だ。
「足の痛みは?」
「……少しだけ」
「熱は?」
「ありません」
簡潔な応答。
過不足のない、正しい返答。
――でも。
彼女は、こちらを見ない。
視線を落とし、
スプーンを持つ手に、力が入っている。
(……緊張している)
患者としてではなく、人として。
そう認識した瞬間、
ルークは自分の思考に気づいて、内心で息を詰めた。
午後、治療室。
書類整理をしていると、副団長が顔を出した。
「ローゼン卿の様子はどうだ」
「……数値は改善しています」
即答し、それから一拍置く。
「ですが、回復には時間が必要です。
食事と休養が、何よりも」
オスカーは頷いた。
「……あの子は、我慢しすぎる」
ルークは、その言葉に、ほんのわずかに目を伏せた。
(……あの子)
治癒師として、
その呼び方が適切ではないことは分かっている。
だが否定できなかった。
夕方。
ルークは、記録を閉じてから、
ふと思い立って立ち上がった。
診察予定は、もうない。
それでも、足が向かう。
――彼女の部屋。
理由を付けるなら、「経過観察」だ。
ノックをする前に、一瞬、ためらう。
(……患者だ)
そう、何度も自分に言い聞かせてから、扉を叩いた。
「……どうぞ」
小さな声。
中に入ると、リリアは机に向かっていた。
書類だろうか。
背中が、少しだけ丸い。
「体調の確認に来ました」
嘘ではない。
「……ありがとうございます」
立ち上がろうとする彼女を、ルークは手で制した。
「そのままで」
距離を保ち、視線はあくまで客観的に。
――そのはずだった。
彼女の首元。
鎖骨の浮き方。
手首の細さ。
治癒師として見慣れているはずの身体が、
今日は、違って見えた。
(……危ない)
自覚した瞬間、ルークは一歩、距離を取った。
「今日は……よく食べましたか」
「……はい」
一瞬の間。
「……全部は、食べきれませんでした」
その言い方が、なぜか胸に刺さる。
「それで十分です」
治癒師としての声に戻す。
「昨日より、確実に前進しています」
その言葉に、リリアは、ほんの少しだけ目を見開いた。
驚き。
そして――安堵。
その表情を見た瞬間、
ルークの中で、何かが静かに崩れた。
(……評価を、欲しがっている)
それは患者が求めるものではない。
「……あの」
リリアが、躊躇いがちに口を開いた。
「昨日……来てくださって……」
言葉を探している。
「……ありがとうございました」
ルークは、答えを用意していたはずだった。
「医師として当然です」
そう言うべきだった。
だが、口から出たのは――
「……あなたが、生きていてよかった」
一瞬の沈黙。
自分で言ってしまったことに、ルーク自身が驚いた。
慌てて続ける。
「……いえ。回復の兆しが見えた、という意味です」
言い訳だ。
リリアは、何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
それが、否定でも、拒絶でもなかったことに、
胸がざわつく。
部屋を出て、廊下を歩く。
治癒師として、
越えてはいけない線は、分かっている。
自分は王族専用治癒師。
末端騎士の治療をいつまでもしていては、彼女の居場所を失う可能性もある。
患者に、
期待させてはいけない。
依存させてはいけない。
(……患者、だったはずなのに)
ルークは立ち止まり、額に手を当てた。
彼女は、治したい“身体”ではなくなっている。
それは、
治癒師としては危険で、人としては、自然な感情だった。
「……これは…」
患者としてではない意識が、
確かに芽生えていることに気づき、そっと目を閉じた。




