選べるということ
目を覚ましたとき、部屋に差し込む光は低かった。
夕方だろうか。
窓の外が淡く橙に染まっている。
身体が、重い。
まるで鉛を流し込まれたみたいに、全身がだるい。
ひどく喉が渇いている。
ゆっくりと起き上がろうとすると、身体が悲鳴を上げた。
「……っ」
息が漏れる。
思った以上に、体は言うことをきかない。
昨夜の記憶が、断片的に蘇る。
熱。 息。 低い声。
(……団長)
胸が、どくん、と鳴った。
部屋を見回すが、誰もいない。
暖炉の火は小さくなっている。
テーブルの上に、水差しとグラスが置いてあるのが見えた。
あれを取ればいい。
それだけなのに。
ベッドから足を下ろす。
床に足をつこうとした瞬間。
バタン。
膝が崩れた。
「……あ……」
しゃがみ込む。
力が入らない。
指先が震えている。
頭もぼんやりする。
情けない。
こんなに動けないなんて。
座り込んだまま、呼吸を整えようとしていると、
扉の開く音がした。
「……どうした」
少しだけ驚いた声。
ラルフだった。
「喉が……渇いて……」
掠れた声。
それだけで状況を察したらしい。
「無理に動くな」
すぐに歩み寄り、リリアを抱え上げる。
昨日と同じ腕。
だが今日は、少しだけ慎重だった。
ベッドへ座らせ、水をグラスに注ぐ。
「ゆっくり飲め」
グラスを支えられ、口元へ運ばれる。
冷たい水が喉を通る。
それだけで、少しだけ生き返る気がした。
ラルフはじっと見ていた。
震える手。 遅い動き。
「体、辛いか」
低い声。
「……少し」
本当は“かなり”だった。
けれど、そう言えない。
沈黙。
返事の間が長い。
ラルフは、リリアの瞳を覗き込む。
焦点が少し、鈍い。
(……やりすぎたな)
だが口には出さない。
「さっぱりしよう」
次の瞬間、また抱き上げられる。
「だ、団長……」
「甘えてろ」
短く言い切る声。
有無を言わせないが、責める響きはない。
浴室へ。
湯気が立ちのぼる。
あっという間に湯船へ入れられ、温もりが体を包む。
ラルフは迷いなく髪を濡らし、洗い始めた。
大きな手が、丁寧に、優しく。
「目、閉じてろ」
言われるまま従う。
泡と湯の感触。
不思議な感覚だった。
団長が。 王族が。 自分の髪を洗っている。
目を開けると、普段の厳しい表情はない。
落ち着いた、大人の男の顔。
どこか、柔らかい。
リリアは急に恥ずかしくなった。
「あの……もう、一人で平気です……」
ラルフの手が一瞬止まる。
「また座り込んだら面倒だ」
淡々と。
「今日は世話を焼かせろ」
その言い方が、ずるい。
拒否できない。
湯から上がり、暖炉の前へ。
タオルで髪を拭かれる。
ドライヤーの温風が優しく揺れる。
リリアは戸惑っていた。
こんなに甘やかされたことは、ない。
「このくらいなら食べられるか」
運ばれてきたスープと柔らかなパン。
気づけば、ラルフの足の間に座らされていた。
背中に、体温。
逃げ場はないのに、怖くない。
「はい……」
スープを口にする。
温かい。
パンを小さくちぎる。
全部食べられた。
「ごちそうさまでした」
小さな声。
「偉いな」
頭を撫でられる。
子どもみたいだ、と思う。
でも――嫌じゃない。
むしろ、安心する。
(……でも)
現実が、胸に戻ってくる。
団長は王族。 公爵位。
自分が甘えていい存在ではない。
顔を伏せる。
その変化を、ラルフは見逃さなかった。
「リリア」
名を呼ばれ、肩が跳ねる。
「昨夜のことは覚えているか」
「……はい」
逃げられない問い。
「普通なら、恋人にするが……」
一瞬、息が止まる。
リリアは慌てて口を開いた。
「そんな贅沢なこと、求めません! すみません…でした……」
最後は掠れた。
ラルフは小さく息を吐く。
「違う」
ゆっくり頭を撫でる。
「お前はどうしたい」
問い直す。
真正面から。
どうしたい?
私が?
選べるの?
「恋人になるか。なかったことにするか。それとも――曖昧なままにするか」
静かな声。
だが逃げ道はない。
「……私は……」
言葉が出ない。
「側は、怖いか」
「……全部が、変わりそうで」
本音だった。
ラルフは少しだけ考えた。
「なら、騎士団では今まで通りだ」
淡々と。
「休みの日だけ、ここに来い」
提案ではなく、配慮。
最大限の譲歩。
リリアはゆっくり顔を上げた。
(……選ばせてくれてる)
支配ではなく。
強制でもなく。
「……そう、したいです」
答えた瞬間。
ラルフの口元がわずかに上がる。
柔らかい笑み。
額に、軽く口づけ。
「決まりだ」
そのままベッドへ運ばれる。
布団に沈む。
「安心して眠くなったか」
少し意地悪な声。
「そんな目してると、また襲われるぞ」
リリアは布団で顔を隠し、首を振る。
ラルフは小さく笑った。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
髪を撫でる手。
一定のリズム。
今度は、何も起きない。
リリアはゆっくりと眠りに落ちた。
その後。
ラルフは隣に腰を下ろし、本を開く。
視線は文字を追っているが、意識は隣にある。
穏やかな寝息。
小さな身体。
(……選ばせた)
強引に縛ることもできた。
王族としても、団長としても。
だが、それでは意味がない。
腕を伸ばせば触れられる距離。
それでいい。
今は。
ページをめくる音が、静かな部屋に溶けた。
暖炉の火が、小さく揺れている。
穏やかな夜だった。
――今度こそ、静かな夜だった。




