帰還、変わらない距離
翌朝。
アルトシュタイン領の保養地は、静かに騒がしかった。
夜明け前から、騎士たちが次々と動き出す。
装備の確認、馬の準備、最終的な点呼。
負傷者の体調も回復したと判断され、騎士団は王都への帰還を決めた。
リリアもまた、荷をまとめながら静かに呼吸を整えていた。
(……戻るんだ)
王都へ。
王立騎士団宿舎へ。
この数週間で起きたことが、急に現実味を帯びて胸に沈む。
そんな彼女の前に、影が差した。
「準備は終わったか」
低く、落ち着いた声。
顔を上げると、そこにいたのは副団長オスカーだった。
昨夜までの、あの距離感はない。
隊の前に立つ男の顔。
きちんと線を引いた、いつもの副団長だ。
「はい。いつでも出られます」
リリアは短く答える。
オスカーは一瞬だけ彼女の足元に視線を落とし、
それから軽く息を吐いた。
「道中は長い。休憩の合図が出たら、ちゃんと休めよ」
「はい」
そう返した瞬間。
オスカーは、何でもない動作のように手を伸ばし、
リリアの頭に、ぽん、と一度だけ触れた。
本当に、一瞬。
周囲から見れば、部下への軽い労い。
それ以上でも、それ以下でもない。
リリアは、わずかに目を伏せただけで、何も言わなかった。
(……皆、見てる)
その事実が、却って彼の配慮だと分かる。
顔を上げたとき、
オスカーはすでに他の騎士へ指示を出すため、背を向けていた。
その距離が、少しだけ寂しくて、少しだけ安心だった。
王都までの道のりは、およそ八日。
これまでのリリアなら、休憩時間も一人、馬のそばで黙って過ごしていた。
前だけを見て、必要以上に誰とも関わらず。
だが今回は、違った。
「リリアさん! 水、余ってますけど、飲みます?」
声をかけてきたのは、後輩のノルだった。
子犬のように少し落ち着きがなく、距離が近い。
「……いただきます」
戸惑いながらもそう答えると、ノルはぱっと顔を明るくする。
「よかった! あ、途中で体調悪くなったりしたら言ってくださいね。すぐ馬、止めますから!」
過剰なくらいの気遣い。
その様子を見て、少し離れた場所からジークが鼻で笑った。
「おいノル。過保護すぎだろ。
リリア、こいつ気にしなくていいからな」
「えっ、でもリリアさん、まだ回復途中ですよ……」
「分かってる。だから“騒ぐな”って言ってんだ」
ジークはぶっきらぼうにそう言ってから、リリアを見る。
「無理に愛想よくする必要はない。
黙ってても、前と同じ顔してても、別に問題ねぇよ」
それは、突き放す言葉じゃない。
「……はい」
リリアは小さく答えた。
するとジークは、少しだけ口角を上げる。
ノルは二人を見比べて、少し慌てたように頭を掻いた。
「えっと……俺、うるさかったですか?」
「うるさいだろ!」
「えー!」
リリアは、二人のやり取りを見ながら、ほんの少しだけ表情を緩めた。
笑う、というほどではない。
けれど、張り詰めていた空気が、確かに柔らいだ。
(……こういう時間、あったんだ)
自分が知らなかっただけで。
道中、特に問題は起きなかった。
魔物の影もなく、天候も安定していた。
それが却って、今までの出来事を夢のように感じさせる。
そして――
王都が見えたとき、リリアは静かに息を吐いた。
王立騎士団宿舎。
久しぶりに戻るその場所は、記憶よりも少しだけ狭く感じた。
副官の指示で、各自が片付けに入る。
馬の世話、備品の確認、報告書の整理。
体は動いているのに、頭のどこかが落ち着かない。
団長と副団長は、王宮への報告のため、すぐに宿舎を出ていった。
リリアもノルやジークと一緒に、倉庫で物資の整理をしていた、
その時。
「……リリア」
背後から、低く落ち着いた声がした。
呼ばれ方が、違う。
胸の奥が、ひくりと鳴る。
ゆっくり振り返ると、そこに立っていたのは――
王宮文官服に身を包んだ、一人の男。
整った顔立ち。
冷静で、感情の読めない目。
「お兄様……」
リリアは、無意識に背筋を正した。
ローゼン家長男――クラウス・ローゼン
「帰還したと聞いた」
声音は淡々としている。
「無事で何よりだ」
ほんの一瞬、声が低くなる。
労いの言葉なのに、温度がない。
周囲の騎士たちが、空気を察して距離を取る。
ノルは一瞬、心配そうにリリアを見てから、ジークに腕を引かれて離れていった。
二人きり。
「怪我の報告は受けている」
感情を挟ませない声。
「軽傷ではないと」
一瞬だけ、視線が彼女の腹部に落ちる。
ほんの一瞬。
だが、リリアは見逃さなかった。
「……もう、問題ありません」
「そうか」
短い返答。
それ以上、踏み込まない。
(……いつも、こう)
優しくはしない。
心配でも、表では見せない。
「無茶はするな」
命令のような口調。
「承知しました」
クラウスは一度だけ頷くと、踵を返した。
去り際、振り返らない。
守るために距離を取る、その背中。
冷たいようで、どこまでも不器用で。
リリアは、静かにその背を見送った。




