余裕という名の距離
アルトシュタイン城で迎える朝は、まだどこか非現実的だった。
石造りの回廊に柔らかな光が差し込み、野営地の慌ただしさは遠い。
リリアは物資庫の前で帳簿を閉じ、息を整える。
回復期に入った身体は思った以上に動いたが、無理をしていないかは自分でも分からない。
「ローゼン卿」
背後から落ちた低い声に、自然と背筋が伸びた。
振り返ると、副団長オスカーが立っている。
視線は穏やかで、だが逃がさない。
「体調は?」
「問題ありません」
即答。
その言い切りに、オスカーは小さく笑った。
「その返事、まだ信用してない」
一歩、距離が詰まる。
威圧ではない。ただ近い。
「歩き方、昨日よりいい。
でも今日は“戻す日”だ。張り切るなよ」
叱責ではなく、調整。
その言葉に、リリアの肩から少し力が抜けた。
「はい」
在庫管理も、軽い体力づくりも、淡々と終わる。
オスカーは全体を見ていたが、視線は時折、確実にリリアを追っていた。
訓練解散の合図が出たあと、自然な流れで隣に立つ。
「夜、眠れてるか」
不意打ちの問い。
リリアは一瞬だけ言葉に詰まり、正直に首を振った。
「……浅いです」
「そうか」
それ以上は聞かない。
だが、離れもしない。
「今夜、顔出す」
命令ではない。
けれど断る余地も、ほとんどない言い方だった。
夜。
城は静まり、灯りも落とされていく。
オスカーは書類を置き、ラルフの隣室――リリアの部屋の前で足を止めた。
「起きてるか」
「はい」
少し遅れて返る声。
扉を閉めると、空気が変わる。
昼とは違う、逃げ場のない静けさ。
リリアはベッドに腰掛け、毛布を肩に掛けていた。
目は冴えている。
「無理に寝ろとは言わない」
オスカーは隣に腰を下ろす。
近い。昼より、ずっと。
「でも、体は休ませろ」
「……添い寝、するか」
選択肢を渡す声。
だが距離は、詰めたまま。
リリアは迷いながらも、確かに頷いた。
「……お願い……します」
布団に入ると、オスカーの腕が自然に回る。
抱き寄せる力は強くない。だが離れない。
呼吸が、すぐそばにある。
「緊張してるな」
「……はい」
正直すぎる返事に、喉で笑う。
「力抜け」
頭を撫でる。
ゆっくり、何度も。
そのたびに、リリアの身体から余計な力が抜けていく。
「……あったかいです」
「よかった」
囁くように答え、さらに近づく。
「リリア」
名前を呼ぶ声が、低く絡む。
顎に指がかかり、顔が上を向かされる。
逃げ場はない。
唇が触れた。
最初は、ただ重なるだけ。
だが、すぐには離れない。
「……っ」
リリアの喉が、小さく鳴る。
舌先が、ゆっくりと触れる。
確かめるように、絡めるように。
(……抑えろ)
頭では分かっているのに、
リリアの反応が、あまりにも素直で。
唇を離し、額を合わせる。
「……今日は、ここまで」
名残を断つような声。
その夜は、それ以上進まなかった。
翌朝。
オスカーはいつもより遅く目を覚ました。
腕の中には、規則正しい寝息。
(……起こしたくないな)
そう思ってしまう自分に、苦笑する。
そっと髪を払うと、リリアが小さく身じろぎした。
「……ん……」
無意識に服を掴まれる。
「まだ寝てろ」
囁いて、額に軽く口づける。
それだけで胸がざわつくのを、必死に無視して部屋を出た。
夜。
小さく扉を叩く音。
「はい」
ゆっくり部屋の扉が開く
「……やっぱり眠れてないな」
驚いて目を開くリリア。
「……抱きしめるくらいなら、いいか?」
逃げ道のない問い。
少し迷ってから、頷きが返る。
胸に引き寄せる。
今度は、少しだけ強く。
「……落ち着くまで、話でもするか」
何気ない話をしながら、背中や頭を撫でる。
ゆっくり。丁寧に。
その流れで、指先が耳に触れた。
「……っ」
小さな声。
オスカーは気づかないふりをする。
だが、わざと同じ場所をなぞる。
「どうした?」
知らないふり。
「……な、なんでも……」
否定が弱い。
耳から首筋へ。
触れるか触れないかの距離。
「副団長……」
「名前で」
即答。
低く、逃がさない声。
「今は、仕事じゃない」
沈黙のあと、かすれた声。
「……オスカー……」
その瞬間、理性が一段削れた。
「よくできました」
褒めるように囁き、頬に口づける。
次は、唇。
重ねるだけ―― のはずが、離れない。
舌が、ゆっくり絡む。
リリアの指が、縋るように彼の服を掴む。
小さく、逃げ場を探すみたいに。
(……んっ……)
その反応を、オスカーは一瞬で理解した。
わざと唇を離す。
焦らすように、また戻る。
追わせる距離。
逃がさない距離。
「……っ、あ……んっ……」
小さく零れた声に、オスカーは一度だけ深く息を吐いた。
「団長に聞こえちゃうよ」
からかうようで、でも低い声。
その言葉に、リリアの呼吸が一段乱れる。
それを合図にするように、オスカーは動きを変えた。
優しさだけじゃない。
逃がすつもりもない。
触れて、確かめて、
わざと止めてから、また与える。
「……や……」
否定は弱い。
視線が、彷徨う。
「大丈夫」
そう言いながら、与える。
でも、与え切らない。
触れて、確かめて、
反応が返った瞬間に、わざと止める。
「……ほら」
低く、囁く。
「ちゃんと、感じてる」
言葉にされるたび、リリアの身体が、小さく揺れる。
「……ぁっ……んっ……」
身体が、限界に近づいているのが分かる。
小さく震えるたびに、呼吸が浅くなるたびに。
リリアの体がびくんと大きく跳ねた。
――ここで、止めなければ。
「ここまで」
名残を断ち切るように、額に口づける。
そして、逃げ道を塞ぐみたいに、強く抱きしめ直した。
リリアの呼吸が、完全に寝息に変わったのを確認してから、オスカーは、ようやく深く息を吐いた。
(……危なかった)
それが、正直な感想だった。
腕の中の温もりは、静かで、軽くて、
さっきまで、あれほど熱を帯びていたとは思えないほど、無防備だ。
彼女を起こさないように、そっと腕を外し、
ベッドの端に腰掛ける。
オスカーは、ため息を吐きながら頭を抱えた。
(……反応、良すぎだろ)
あれは反則だ。
名前を呼ばせた時の、あの声。
戸惑いながら、必死に出した、小さな声。
あれで、どれだけ理性が削れたか、
本人はきっと分かっていない。
次に同じ夜が来たら、
今日ほど、余裕ではいられない。
止められるかどうかも、怪しい。
その予感だけが、
やけに現実味を帯びて、胸に残った。
オスカーは、静かに明かりを落とす。
表に出るときは、いつもの副団長の顔に戻る。




