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負傷者が多かった。
それも、軽傷ではない。
黒い靄による攻撃は、刃物のようでいて、
通常の魔物とは違う傷を残していた。
衛生状態、物資、治癒師の数。
どれを取っても、この野営地で長く留まるのは危険だった。
団長ラルフ・フォン・アルトシュタインの判断は早かった。
「ここを引き払う。
アルトシュタイン領の保養地へ移動する」
王族の私有地。
本来なら、騎士団全体が使える場所ではない。
だが今回は違った。
“団長の権限”で、許可が下りた。
ラルフは、副団長のテントへ向かった。
入口の布を、静かに持ち上げる。
中は薄暗く、薬草と血の匂いが混じっている。
簡易ベッドの上には、
意識のないリリアが横たわっていた。
その傍らに、オスカーがいる。
ほとんど一晩、姿勢を変えずに付き添っていたのだろう。
「……移動できそうか」
ラルフの声は、低く、抑えられていた。
オスカーは、すぐに答えない。
一度、リリアの呼吸を確認してから、
ようやく口を開いた。
「……身体を動かすのは、最善じゃない」
「分かっている」
ラルフは即答した。
「この場所では物資も限られる。治癒師も足りない」
正論だった。
オスカーも、それは分かっている。
分かっているからこそ―― 言葉が、喉につかえた。
「……」
ラルフは、その沈黙の意味を察していた。
「……辛かったら、俺にあたれ」
淡々とした声。
だが、逃げ道を与える言葉でもあった。
オスカーは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、
それから首を振る。
「……すみません」
声は、ひどく低い。
「すぐに、支度します」
ラルフは、それ以上何も言わず、静かにテントを出た。
外に出ると、そこに立っていたのはジークとノルだった。
二人とも、表情が硬い。
「……団長」
ジークが一歩前に出る。
「俺たちに、できることはありませんか」
ノルも、必死に続ける。
「……何でもします」
ラルフは、思わず目を見開いた。
一瞬、かつての彼らの姿が脳裏をよぎる。
だが、今目の前にいるのは、
自分の無力さを知った顔だった。
「……自分のことが終わったなら」
ラルフは、静かに言った。
「副団長を支えてやれ」
「今は、それで十分だ」
二人は、はっとしたように姿勢を正す。
「……かしこまりました」
深く一礼し、オスカーのテントへと向かっていった。
移動は、即日だった。
騎士団に馬車はない。
負傷者は、毛布に包み、
可能な限り負担を減らして運ぶ。
オスカーは、
毛布にくるんだリリアを胸に抱え、馬に乗った。
揺れないように。
呼吸を妨げないように。
片腕でしっかり支えながら、もう片方で手綱を取る。
半日かけて、アルトシュタイン領の保養地に到着する。
門の前には、執事とメイドが一列に並び、出迎えていた。
先頭に立つ執事が、一歩進み出る。
「ラルフ様。お疲れ様でございました」
「負傷者が多い」
ラルフは、簡潔に告げる。
「ゆっくり休めるよう、手配を頼む」
「かしこまりました」
即答だった。
団員たちは、
使用人たちの案内で、それぞれ部屋へ振り分けられる。
オスカーは、執事に導かれ、屋敷の奥へ進んだ。
案内されたのは、ラルフの寝室の隣の部屋。
「こちらをお使いください」
「……ありがとうございます」
短く礼を言い、オスカーはリリアをベッドへ移す。
すぐにメイドが入り、
リリアの身体を丁寧に拭き、夜着に着替えさせた。
オスカーは、視線を外し、
ただ、拳を握りしめて待っていた。
騎士団幹部は、ラルフの執務室に集められた。
地図が広げられ、報告が重ねられる。
「今回の討伐は、魔物に魔力を与え、
操った“首謀者”がいる可能性が高い」
ラルフの言葉に、全員が息を呑む。
オスカーも、調査結果を報告する。
黒い靄の性質。
魔力の流れ。
明らかに、自然発生ではない痕跡。
「……しばらくは、体調の回復を最優先にする」
ラルフが締めくくる。
「無理はするな。これは命令だ」
全員が一礼し、部屋を後にした。
最後に残ったオスカーへ、ラルフは声をかける。
「……オスカー」
「お前も、ちゃんと休め」
オスカーは、驚いたように顔を上げる。
「お前まで倒れたら」
ラルフは、言葉を選ぶように続けた。
「ローゼン卿が目を覚ました時、悲しむ」
オスカーは、一瞬だけ目を伏せた。
「……ありがとうございます」
それ以上は、言えなかった。
夜。
オスカーは、
リリアのベッドの横に椅子を置き、腰を下ろした。
呼吸は、安定している。
だが、まだ浅い。
「……頑張ってくれ」
小さく呟き、ベッドに上半身だけ預ける。
気がつけば、そのまま目を閉じていた。
リリアは、夢を見ていた。
真っ暗で、
何もない空間。
広くて、
どこまでも続く闇。
寂しい。
苦しい。
痛い。
(……やだ)
こんな場所は、いやだ。
(……助けて)
誰か。
お願い。
その瞬間。
光のドアが、静かに開いた。
「……リリア」
優しい声。
顔は見えない。
けれど、その温もりだけは、はっきり分かる。
リリアは、迷わず手を伸ばした。
掴んだ手は、とても、温かかった。
ゆっくりと、目を開ける。
見慣れない天井。
身体は、まるで鉛のように重い。
力が、入らない。
何も考えられず、
ただ、ぼんやりと天井を見つめていると――
右手が、温かいことに気づいた。
視線を下ろす。
白銀の、柔らかな髪。
(……狼、みたい)
ぼんやりと、そんなことを思い、小さく笑う。
触れてみたくなって、
ほんの少しだけ力を込め、指を動かす。
ふわり、とさらさらの髪。
その感触に、なぜか、安心した。
次の瞬間。
オスカーが、飛び起きた。
「……っ!」
目の前に、自分の髪を触り、
力なく微笑んでいるリリアがいる。
「……!」
言葉が、出なかった。
生きている。
目を、開けている。
思考より先に、身体が動いた。
オスカーは、リリアを抱き締める。
「……よかった……」
声が、震える。
「……本当に……頑張ったな」
腕の中で、リリアがびくりとする。
「ふく……だんちょう……」
驚いたように、目を見開く。
しばらく、そのまま、離せなかった。
温もりを、確かめるように。
「病み上がりのやつに、そんな強く抱きつくな」
低い声。
入口から、ラルフが入ってきた。
「ローゼン卿が固まってるだろ」
そう言いながら、オスカーの腕を引き剥がす。
ラルフは、リリアの顔を覗き込み、そっと頭を撫でた。
「よく戻ってきたな」
優しい声。
「今、治癒師を呼んでくる」
そう言って、部屋を出ていく。
残されたオスカーは、
拳を握りしめ、深く息を吐いた。
生きている。
それだけで、今は、十分だった。




