静かな甘さ、血の匂い
さらに奥地へ。
魔物の出没が報告された地点は、
これまでの野営地よりも、森が深く、空気が重かった。
騎士団は慎重に進み、
日が落ちる前に新たな野営地を定め、拠点を築く。
結界、焚き火、見張りの配置。
誰もが無言で役割をこなしていく。
その中で、リリアも黙々と動いていた。
資材を運び、
縄を張り、
警戒線を確認する。
そこへ――
「ローゼン卿」
低く、少しぶっきらぼうな声。
振り返ると、ジーク・フォレストが立っていた。
以前なら、その声を聞くだけで身構えた。
嫌味。
皮肉。
上から目線の言葉。
それが、当たり前だったから。
だが、今日は違う。
ジークは一瞬だけ視線を逸らし、
それから、リリアの前に手を差し出した。
その掌には、小さな飴。
「……疲れが、少しは和らぐ」
言い切りではなく、どこか照れたような声音だった。
リリアは、戸惑った。
(食べ物……)
胸の奥が、ひくりと縮む。
以前の出来事が、どうしてもよぎる。
だが、ジークの顔には、嘲りも、探るような色もない。
ただ、不器用な気遣いだけ。
「……ありがとう」
ゆっくり受け取り、
「大事に食べます」
ほんの少しだけ、微笑んだ。
ジークは、その表情に一瞬息を詰めた。
(……こんな顔、するんだな)
以前は、何を言っても、
感情のない目で見返されるだけだった。
それが、なぜか腹立たしかった。
なのに今は――
「……飴くらいで、大袈裟だな」
ぶっきらぼうに言い捨て、背を向ける。
「また、やるよ」
それだけ残して去っていった。
リリアは、その場に立ち尽くし、そっと飴を口に含む。
……甘い。
舌に広がる、やさしい味。
少しだけ、肩の力が抜ける気がした。
新しい野営地に移動してから、二日。
周囲の偵察も、警戒も、十分に行った。
魔物の気配は、確かにある。
それなのに――
姿が、見えない。
(おかしい……)
ラルフは、地図を見つめながら言った。
「気配だけが、濃すぎる」
オスカーも、腕を組む。
「……嫌な感じがします」
「出てこない、というのが」
「警戒を怠るな」
「はい」
短いやり取り。
だが、二人とも分かっていた。
これは、“来る”。
夜。
焚き火が落とされ、野営地が闇に沈んだ、その時だった。
「……!」
ラルフが、気配に気づく。
「襲撃!」
声が、野営地を切り裂く。
「前衛、構えろ!」
その瞬間。
黒い靄が、地面から湧き上がった。
煙のようでいて、刃物のように鋭い。
突き刺すように、野営地へと流れ込んでくる。
「何だ、これ……!」
「斬れない!」
剣を振るっても、手応えがない。
靄は形を変え、攻撃をかわし、すり抜ける。
リリアも、剣を振るっていた。
冷静に。
無駄なく。
だが、その横で――
「……っ!」
ノル・フェルスナーの足がもつれた。
体勢を崩し、地面に倒れる。
靄が、狙いを定める。
リリアは、それを見逃さなかった。
「フェルスナー卿、下がれ!」
叫びながら、前に出る。
ノルの前に立ち、剣を振り抜いた、その瞬間。
黒い靄が、急激に形を変えた。
煙が凝縮し、刃となる。
――グサッ。
鈍い音。
腹部に、深い衝撃。
「……っ」
息が、詰まる。
「ローゼン卿!!」
ジークの叫び。
靄が引き抜かれた瞬間、力が抜け、リリアは膝をついた。
次の瞬間、ジークの腕が、彼女を抱き留める。
「退避!!」
怒鳴る。
ノルは、呆然と立ち尽くしていた。
(……俺のせいだ)
目の前で、自分を庇って倒れた。
その事実が、突き刺さる。
「何やってる、しっかりしろ!」
ジークが叱咤する。
「団長か、副団長を呼んでこい!」
ノルは、我に返り、走り出した。
一方、前線では。
激戦の最中、黒い靄は、突然、すっと引いた。
嘘のように、消えた。
「……どうなっている」
ラルフが、呟く。
「被害報告!!」
そこへ、ノルが駆け込んでくる。
「団長……!」
「ローゼン卿が……腹部を刺されました……!」
ラルフの顔から、血の気が引いた。
オスカーは、その言葉を聞いた瞬間、
何も言わず、駆け出していた。
リリアは、地面に横たわっていた。
腹部を押さえても、血が止まらない。
口元にも、赤が滲む。
ジークが、必死に圧迫している。
「……くそ、止まれ……!」
オスカーが駆け寄る。
「治癒師は!」
「重傷者が多く……順番に……」
「そんな時間はない!!」
声が、荒れる。
リリアの顔は、真っ白だった。
応急の治癒が施される。
だが、治癒師は首を振った。
「……あとは、本人の体力次第です」
静かな宣告。
簡易ベッドは限られている。
判断は、すぐだった。
「副団長のテントへ」
リリアは、オスカーのテントに運ばれた。
夜更け。
簡易ベッドに横たわるリリア。
呼吸は、浅い。
オスカーは、椅子に腰掛け、その姿を見守っていた。
守れなかった……
距離を取ろうとした、その隙に。
そこへ、ラルフが入ってくる。
「状況は」
「……安定はしていません」
短い返答。
沈黙。
「俺の判断が、遅れた」
ラルフが、低く言った。
「……いや」
オスカーは、目を伏せる。
「俺が、前に出るべきだった」
二人の間に、重い沈黙が落ちる。
剣の音も、怒号もない。
ただ、一人の少女が、命の境にいるという事実だけが、
そこにあった。




