団長の判断
野営地の朝は、静かすぎるほど静かだった。
魔物襲撃の翌日だというのに、
誰もが普段と変わらぬ顔で動いている。
それが、リリアには少し不気味だった。
(……何も、なかったみたい)
昨夜の緊張も、
副団長と団長の言い争いも、
まるで夢だったかのように、表に出てこない。
誰も、彼女を責めない。
誰も、特別に気遣わない。
それが、余計に落ち着かなかった。
「ローゼン卿」
呼び止められ、肩が強張る。
振り返ると、そこにいたのは副官だった。
「団長がお呼びだ」
胸が、ひくりと跳ねる。
(……また、何かあった?)
だが、顔には出さない。
「かしこまりました」
短く答え、指示された方向へ向かう。
団長用の簡易テントは、
他よりも少し奥まった位置に設営されていた。
中から、低い声が聞こえる。
「入れ」
ラルフ団長は、地図の前に立っていた。
その横には、副団長――オスカー。
二人とも、感情の色を一切見せていない。
それが、逆に緊張を生む。
「座れ」
促され、リリアは椅子に腰を下ろした。
背筋を伸ばし、視線は前。
(何を、言われるんだろう……)
叱責か。
配置変更か。
それとも、遠回しな注意か。
覚悟を決めた、その時。
「昨夜の魔物誘引についてだ」
ラルフが口を開いた。
単刀直入だった。
「第三班周辺に集中した件、
俺は“偶然”とは判断していない」
心臓が、強く脈打つ。
(……やっぱり)
「だが、現時点で、お前に責任があるとは考えていない」
一瞬、意味が分からなかった。
「……?」
戸惑いが、視線に出る。
ラルフは、淡々と言葉を重ねた。
「証拠がない。状況証拠も、決定打に欠ける」
「それ以上に――」
視線が、まっすぐにリリアを捉える。
「これまでの任務記録と行動履歴から見て、
お前が意図的に危険を招く理由がない」
それは、評価だった。
個人としてではなく、騎士としての記録による判断。
リリアは、言葉を失った。
(……見て、た?)
自分の剣を。
自分の行動を。
ラルフは、はっきりと言った。
「だから、これは“個人の問題”ではない」
「騎士団の内部に、
何らかの不正がある可能性として扱う」
空気が、変わる。
それは、誰かを疑う言葉ではない。
組織が動く宣言だった。
「副団長」
ラルフは、オスカーに視線を移す。
「お前には、内部監査を任せる」
オスカーの表情が、わずかに強張る。
「……俺が、ですか」
「ああ」
「立場を使え。噂も、感情も、一切排除しろ」
「必要なら、俺の名前を使っていい」
それは、全面的な権限委譲だった。
オスカーは、息を整え、頷いた。
「承知しました」
だが、その声は少し低い。
(……本気だ)
リリアは、ようやく理解した。
これは、誰かが庇ってくれているわけじゃない。
同情でも、情けでもない。
騎士団という組織が、異常を異常として扱い始めたのだ。
「ローゼン卿」
再び、名前を呼ばれる。
「お前は、これまで通り任務をこなせ」
「特別扱いはしない」
一拍置いて。
「だが、
不当な扱いを受けたと判断した場合、必ず報告しろ」
命令だった。
だが、今まで一度も与えられなかった命令。
“声を上げる権利”の承認。
リリアは、ゆっくりと頷いた。
「承知いたしました」
声が、少しだけ震えた。
テントを出たあと。
オスカーが、歩調を合わせる。
「怖かったか?」
短い問い。
リリアは、少し考えてから答えた。
「……はい」
正直な答え。
オスカーは、ふっと息を吐いた。
「それでいい」
それ以上は言わない。
距離を詰めない。
触れない。
だが、背中を向けて歩くその位置は、
確実に“守れる距離”だった。
遠くで、サフィナは、状況を察していた。
団長が動いた。
副団長が調査を始めた。
(……厄介ね)
噂では、もう足りない。
感情操作では、もう崩れない。
(……なら)
次は、証拠を“用意する”しかない。
サフィナは、静かに目を細めた。
笑顔は、崩さない。
誰よりも、“正しい騎士”の顔のままで。
夜。
リリアは、剣を手入れしながら考えていた。
「一人で耐えなくていい」と言われた気がした。
それだけで、胸の奥が、少しだけ温かい。
まだ、信じきれない。
まだ、怖い。
それでも。
(……逃げなくていいのかもしれない)
そんな考えが浮かんだことに、自分で驚いた。
団長の判断は、静かに、確実に、歯車を動かしていた。
野営地の灯りが落ち、人の気配が薄れていく時間。
サフィナは、一人、物資用テントに入っていた。
誰にも怪しまれない。
ここに入る理由はいくらでもある。
(……もう、噂じゃ足りない)
“空気”だけで人を潰す段階は終わった。
(なら――形を残すしかない)
サフィナは、布袋を取り出す。
中身は、昨夜と同じ魔力触媒。
ただし、今回は量が違う。
少量ではない。
「偶然」で済まない濃度。
それを、一つの水筒へと慎重に落とす。
水筒の側面には、刻印。
――ローゼン家の紋。
リリアの私物だ。
(……これでいい)
誰が見ても、“彼女が持っていたもの”になる。
サフィナは、ゆっくりと蓋を閉めた。
躊躇は、ない。
罪悪感も、ない。
(守られているなら、壊せばいい)
組織が守るなら、
組織が切り捨てざるを得ない状況を作る。
それだけ。
水筒を元の場所に戻し、
何事もなかったようにテントを出る。
月明かりの下で、サフィナは微笑んだ。
誰にも見せない、冷たい笑みだった。
一方。
副団長オスカーは、静かに調査を進めていた。
騎士団内の記録。
物資の管理表。
夜間の配置。
すべて、淡々と確認する。
感情は挟まない。
(……合わない)
最初に感じたのは、そこだった。
魔物誘引の発生地点。
三度。
いずれも、リリアの近く。
だが――
(彼女が“移動した後”に反応が強まっている)
誘引が先で、彼女が近づいたのではない。
彼女が去ったあとに、濃度が上がっている。
順序が逆だ。
さらに、水の補給記録。
第三班用の水筒は、一度、物資テントで開封されている。
理由は「点検」。
担当者の名前を見て、オスカーは、目を細めた。
――サフィナ・グランシア。
(……偶然、か?)
一つなら偶然。
二つなら注意。
三つなら、意図。
オスカーは、深く息を吐いた。
(……黒だな)
だが、“疑っている”だけでは足りない。
団長が求めているのは、感情ではなく、証拠。
翌朝。
「ローゼン卿」
物資配給の場で、副官の声が響く。
「この水筒だが、確認が必要だ」
リリアは、反射的に手を止めた。
「何か、問題が?」
副官は言葉を選ぶ。
「魔力反応が検出された」
周囲が、ざわつく。
「またか」
「やっぱり……」
囁きが、広がる。
リリアの頭が、白くなる。
(……知らない)
触れていない。
やっていない。
でも、証拠がある。
「副団長」
声が、震える。
オスカーは、すぐに前に出た。
「その水筒、誰が最後に扱った?」
副官が答える。
「昨夜の点検時、グランシア卿が――」
一瞬。
サフィナの表情が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。
だが、オスカーは見逃さなかった。
「点検の必要は?」
「え?」
「第三班の水筒は、その前に確認済みだ」
静かな声。
だが、逃げ場はない。
「……念のため、です」
サフィナは、すぐに笑顔を作る。
「最近、色々ありましたから」
正論に聞こえる。
「そうか」
オスカーは、淡々と続けた。
「ではなぜ、点検後にだけ魔力濃度が上がっている?」
空気が、凍る。
「……副団長、それは」
「答えろ」
短く、強い。
サフィナは、初めて言葉に詰まった。
「……偶然、では?」
「偶然は、三度も続かない」
オスカーは、視線を外さない。
「団長に報告する」
その一言で、場の空気が決まった。
その夜。
団長用テント。
オスカーは、資料を並べた。
「魔力触媒の種類」
「付着時間」
「配置と移動経路」
「……意図的です」
結論は、明確だった。
ラルフは、長く沈黙した後、言った。
「一線を越えたな」
それは、個人の感想ではない。
組織としての判断だった。
「内部処分の準備を進める」
「表沙汰にはしない。
だが、これ以上の行動は許さない」
オスカーは、頷いた。
「ローゼン卿には?」
「まだ、知らせるな」
ラルフは、即答した。
「彼女は、“守られる立場”でいるべきだ」
オスカーは、一瞬だけ目を伏せた。
(……守る、か)
それが、どれほど重い言葉かを、二人とも知っていた。
サフィナは、何かが変わったことを察していた。
空気が、違う。
視線が、違う。
(……踏み込みすぎた)
初めて、後悔に近い感情が胸を掠める。
だが、もう遅い。
越えてしまった線は、戻らない。
サフィナは、ゆっくりと息を吐いた。
(……それでも)
負ける気は、なかった。
もう布石は打ってある。
静かな笑みを浮かべ、待っていた。




