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無能と呼ばれた聖女、魔王軍の生贄になるはずが、魔王の専属料理人(謙婚約者)に指名されました  作者: 輝久実


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呪いの暴走

カミラが「ドーナツ中毒」になってから数日。魔王城の雰囲気は劇的に変わっていた。


魔王ゼノンは相変わらず偏屈で口は悪いが、リリアが部屋に食事を持っていくと、以前のように追い返すことはなくなった。


その夜、リリアは少し奮発して、魔力をたっぷり込めた「林檎のタルト」を焼いて執務室を訪れた。


「陛下、夜食を持ってきました。今日は少し甘さを控えめにして……」


「……そこに置いておけ」


ゼノンの声が、今までになく低く、震えていた。


彼は机に突っ伏し、肩を激しく上下させている。その体からは、漆黒の稲妻のような魔力がバチバチと火花を散らし、周囲の書類や花瓶を粉々に砕いていた。


「陛下!? どうしたんですか、顔色が……!」


「来るなと言っている……ッ!」


ゼノンが顔を上げた。その瞳は理性を失い、赤く濁っている。


彼がリリアに心を開き、感情が「幸福」や「安らぎ」に揺れ動いたことで、長年無理やり抑え込んできた呪いの魔力が、器から溢れ出してしまったのだ。


「私の魔力は……負の感情だけでなく、正の感情でも暴走する。誰かに触れたい、温かいと感じるたびに、周囲を壊し、焼き尽くす……。これが魔王という呪いだ!」


ドォォォォン! という轟音と共に、執務室の壁が崩落した。


駆けつけたフェンリスやカミラも、あまりの魔圧に近寄ることができない。


「リリア様、逃げて! 今の陛下に近づけば、跡形もなく消し飛ばされる!」


リリアの足元まで、黒い魔力の波が押し寄せる。


ドレスの裾が焦げ、肌を焼くような熱気が襲う。しかし、リリアは逃げなかった。


彼女は、床に落ちそうになった「林檎のタルト」の皿をしっかりと抱えた。


「……陛下。あなたは、お腹が空いているだけです」


「何を……狂ったか! 殺すと……言っているんだぞ!」


「いいえ。あなたは、心の栄養が足りていないだけです。一人で、ずっと空腹を抱えて……誰にも触れられずに頑張ってきた。そんなの、あんまりです」


リリアは一歩、また一歩と、漆黒の嵐の中へ踏み込んでいく。


彼女の体から、淡い黄金色の聖なる光が溢れ出した。それは攻撃のための魔法ではない。ただ、目の前の人の「苦しみ」を包み込むための、慈愛の光。


リリアは、嵐の中心で震えるゼノンの背中に、そっと手を触れた。


ジシュッ、とリリアの腕に火傷のような衝撃が走る。それでも彼女は、彼を後ろからぎゅっと抱きしめた。


「熱い……でも、離しません。陛下、タルトを食べてください。私が、あなたの呪いも全部……一緒に飲み込んであげますから」


リリアの浄化の力が、ゼノンの荒ぶる魔力と衝突し、白い蒸気が立ち上る。


ゼノンの意識が、その温もりに引き戻された。


「……バカが。貴様のような……お節介な人間は、初めてだ」


ゼノンの力が抜け、彼はリリアの腕の中に崩れ落ちた。


嵐は止み、静寂が戻る。崩れた執務室の中で、二人はしばらくの間、重なり合ったまま呼吸を整えていた。


「……不味そうだ。タルトが、すすだらけじゃないか」


「ふふ、焼き直してきますから。……今度は、陛下も一緒にキッチンに来ますか?」


ゼノンはリリアの肩に顔を埋めたまま、小さく


「……ああ」


と答えた。

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