揚げたての誘惑
リリアが厨房で、小麦粉を練り、生地を丸めていた時のことだった。
背筋が凍りつくような冷気が厨房を満たし、扉がバン! と激しく開かれた。
「――貴様が、陛下を毒牙にかけているという人間の女か」
現れたのは、銀髪を高く結い上げ、真紅の瞳をした美女、カミラだった。
彼女は腰の細剣を引き抜くと、リリアの喉元に突きつける。
「フェンリスから聞いたわ。陛下が骨抜きにされていると。……ふん、料理で男を釣るなど、下劣な人間の浅知恵ね。私がここで、その不浄な手ごと切り落として……」
その時だった。
ギュルルルル……。
静まり返った厨房に、なんとも情けない音が響いた。
カミラは一瞬で顔を真っ赤にし、腹部を押さえる。
「……っ! い、今のは……空振の魔圧よ! 断じて私の腹鳴ではないわ!」
リリアは、カミラの険しい表情の裏にある「隠しきれない疲労」と、ふわりと漂う「甘いものへの渇望」を見逃さなかった。
「お仕事、お忙しいんですね。吸血鬼の方は、血液以外にもエネルギーが必要だと本で読みました」
リリアは動じず、熱した油の中に、丸く成形した生地を滑り込ませた。
シュワーッ! という心地よい音と共に、香ばしい、暴力的なまでに食欲をそそる香りが厨房に広がる。
「な、何を……油で何かを揚げているの……?」
「ドーナツですよ。穴が開いているから、カロリーは実質ゼロ……なんて冗談ですけど。カミラさんも、毒味…していかれませんか?」
リリアは揚げたての、まだ熱いドーナツにたっぷりの粉糖をまぶし、トングでカミラの口元へ差し出した。
「ふ、ふん……。毒の有無を確かめるのは、警備隊長の私の役目……。仕方ないわね、一口だけよ」
カミラはプライドを維持するため、あくまで「仕事」として、その黄金色の輪に噛みついた。
サクッ、ふわっ。
「……っ!!?」
カミラの瞳が、衝撃でカッと見開かれた。
外側のカリッとした食感に続き、中は驚くほどモチモチとしていて、口の中でとろけていく。さらに、リリアの魔力で浄化された砂糖の甘みが、吸血鬼特有の「血への渇き」を優しく鎮めていく。
「な……何これ。何なの、この幸せな食べ物は……! 噛むたびに、日頃の残業代が出ないストレスが消えていく……!」
「あ、やっぱりブラックなんですね、魔王軍」
「そうなのよ! 陛下は偏屈だし、フェンリスは胃薬ばかり飲んでて頼りないし、私の部下たちは筋肉バカばかりで……おいしい。おいしいわ、これ……っ!」
カミラは剣を鞘に収めるのも忘れ、リリアが差し出す二個目、三個目のドーナツを夢中で頬張った。
「……カミラ。貴様、そこで何をしている」
そこへ、カミラの様子を見に来た(あるいはドーナツの匂いに釣られた)魔王ゼノンが登場した。
カミラは口の周りに白い粉糖をつけたまま、直立不動で敬礼する。
「はっ! 報告します陛下! この人間の女は……極めて危険です!」
「ほう。何がだ」
「この『どーなつ』という兵器は、魔族の戦意を喪失させる魔力を持っています! 私が……私が、陛下に代わって毎日ここで監視(試食)を行う必要があります!」
ゼノンはカミラの口元と、リリアの持つドーナツの山を交互に見て、あからさまに不快そうに目を細めた。
「……カミラ、貴様には別の任務を与えたはずだ。去れ。……あと、その粉糖がついたドーナツとやらは、私が没収する」
「ええーっ!? 陛下、独り占めはズルいです!」
「うるさい、これは国益に関わる『毒味』だ!」
リリアは、わあわあと子供のように言い争い始めた魔王と女幹部を見て、ふふっと笑い声を上げた。
(なんだか、思っていたよりずっと賑やかになりそう……)




