生贄聖女の夜食調理
「――以上をもって、リリアを聖女の座から解任し、魔王への『供物』として追放する!」
王太子の冷酷な声が、冷え切った大聖堂に響いた。
リリアは石床に膝をついたまま、震える手を見つめていた。
彼女が日々、心を込めてパンを焼き、兵士たちの傷を癒やすスープを作り続けてきたのは、すべて「無駄」だったと断じられたのだ。
「そんな、料理だって立派な浄化の儀式です……」
「黙れ! 派手な奇跡一つ起こせぬ無能が。お前の代わりは、このミレーヌが務める」
王太子の隣で、新聖女ミレーヌが勝ち誇ったように微笑む。
こうしてリリアは、着の身着のままで「死の地」と呼ばれる魔界へと突き出された。
魔界の王城は、重苦しい紫の霧に包まれていた。
リリアが案内(という名の強制連行)をされたのは、城の最上階にある執務室。
そこには、巨大な机を前にした一人の男がいた。
魔王ゼノン。
漆黒の角と、鋭い冬の湖のような瞳。彼はリリアを一瞥すると、苛立たしげに鼻を鳴らした。
「また人間どもがゴミを寄越したか。……食う気も起きん。そこらへんで腐って果てろ」
その声には、深い疲労と、触れるものすべてを拒絶するような鋭い棘があった。
魔王は「呪い」の影響で何日も食事を摂っておらず、立ち上がる気力さえ削がれているように見えた。
(……なんてひどい顔。これじゃあ、呪いに負けちゃうのも当たり前だわ)
リリアの中の「お世話好き」な血が、恐怖よりも先に疼いた。
死ぬにしても、こんなにお腹を空かせた人の前で死ぬのは、料理人(聖女)のプライドが許さない。
「……キッチンを、お借りしてもよろしいですか?」
「はあ?」
と眉をひそめる魔王と衛兵を無視して、リリアは厨房へと駆け込んだ。
幸い、厨房には魔界特有の食材が転がっていた。
猛毒を持つと言われる「デス・ビー」の蜂蜜。人間が触れれば即死だが、リリアが手をかざすと、黄金色の柔らかな光とともに毒が消え、至高の香りが立ち上る。
「サクサクに焼いて……たっぷりの蜂蜜で、お疲れを癒やして差し上げないと」
一時間後。リリアは焼き立てのパイを手に、再び執務室の扉を叩いた。
「毒殺のつもりか? 私に触れるものは、この魔力ですべて砕け散る。その皿も、お前もな」
ゼノンが威嚇するように手をかざすと、黒い魔力の波がリリアを襲う。
しかし、パイから立ち上る甘い香りが、その禍々しい魔力をふんわりと包み込んだ。
「冷めないうちに召し上がってください。陛下、お顔が怖すぎますよ?」
リリアは恐れを知らず、魔王の机に皿を置いた。
ゼノンは面食らった。自分を恐れない人間など初めてだ。
抗いがたい香りに誘われ、彼は忌々しげにパイの欠片を口に放り込んだ。
――サクッ。
軽やかな音と共に、暴力的なまでの甘みと温かさがゼノンの脳を突き抜けた。
「……っ!?」
重く垂れ込めていた頭痛が、霧が晴れるように消えていく。
それだけではない。暴走寸前だった魔力が、まるで子守唄を聞かされたかのように静まり返っていく。
「……何を、した。魔法か?」
「ただの夜食です。美味しければ、心も体も休まるものですよ」
ゼノンは黙々とパイを食べ続けた。最後の一欠片を飲み干すと、彼は深く椅子に背を預け、長い、長い吐息をついた。
その瞳から、先ほどまでの殺気が消えている。
「……リリアと言ったか。貴様を殺すのは、次の食事が終わってからにしてやる」
「あら、それなら明日の朝食は何になさいますか?」
こうして、生贄の聖女と偏屈な魔王の、奇妙な「美食生活」が始まったのである。




