海陵王と耨盌温敦思忠
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
今回は『金史』巻八十四 列伝二十二から、女真族の長老格の耨碗溫敦思忠について見てみましょう。
貞元二年(1154)十月、海陵王は三品以上の官を率いて思忠の邸宅に行幸し、家族の礼を以って会った。そして思忠に言った。
「卿は気力が充実し、先朝の旧事については、卿を置いて良く知る者はいない。朕のために復帰して、共に国を治めてほしい。」
思忠は「主君の命に従わない訳ではありませんが、老病のため行動が遅く誤りも多く、お役に立てないでしょう。」と答えたが、結局、海陵王は思忠を馬に乗せて宮中に連れ帰り、太傅・領三省事とし、斉国王に封じた。まもなく太師兼勧農使となった。
中書門下省が廃止されると、領三省事は置かれず、尚書令が置かれて、位は丞相の上とされた。思忠はこの尚書令となり、特別に散従八人を付けられ、随時宮中に出入りすることが許され、報告の際には座席が与えられた。
海陵王は封爵の制度を定めようと考え、思忠を促して建白させた。王に封ぜられていた者は全て降封となり、異姓は代わりに公か一品・二品の官位を与えられた。ただ思忠のみは広平郡王に封ぜられ、玉帯を賜った。
思忠が「百官の妻への封号が不当に高い者が多い」と言うと、海陵王はこの意見に従った。しかし思忠の次室は特例として郡夫人に封ぜられた。
思忠は自ら太祖以来の旧臣であることを大いに自負していた。海陵王は思忠の諫言を拒まず、思忠は言いたいことを遠慮せず全て言った。
海陵王が宋を討伐しようとして、諸大臣に意見を求めると、みな敢えて何も言わなかったが、思忠だけが「不可です。」と言った。海陵王は不快になり「汝は可否を論じるなかれ。ただ何時なら勝てるかを言うように。」と言うと、思忠は「十年後でしょう。」と答えた。海陵王が「なぜそれほど年月が必要なのか。」と問うと、思忠は言った。
「太祖が遼を討った時でも、準備に数年かかりました。今は民に不満が高まり、出兵の大義名分もありません。また長江と淮河の一帯は暑さと湿気で長期間滞在するのは堪えきれません。十年後でも難しいでしょう。」
海陵王は怒り、側近に目配せして刀を取る様子を見せた。思忠は恐れることなく更に言った。
「老臣は四代の帝に仕え、位は公相に至りました。国家のためなら死んでも構いません。」
しばらくして海陵王は言った。
「いにしえより、分裂した天下を統一してこそ、正統な帝王と言えよう。汝は老人なのにこの事を知らぬ。汝の子の乙迭は書を読むので、行って聞いて見ると良い。」
思忠は言った。
「臣はその昔、太祖が天下を取るのを見ましたが、そのとき文字はありませんでした。臣は七十歳になるまで、更に多くのことを見てきました。乙迭はまだ乳臭い子で、意見を聞くほどの者ではありません。」
海陵王は思忠の意見に耳を貸さず、各地から中都に武器を運ばせた。思忠は言った。
「州郡に武器が無ければ、何を以って盗賊に備えろというのですか。」
海陵王は全ての成人男子を徴兵した。思忠は「山後の契丹の諸部を全て動員してはなりません。」と言ったが、これも聞かれなかった。
その後、州郡では盗賊が発生し、地方官は制することができなかった。契丹の撒八と窩斡が反乱を起こすと、一年のうちに多くの州郡を攻め落とした。
このころ、海陵王は宋討伐を目指し、祁宰は諫言して死に、張浩は進言して杖刑に処され、思忠は疎んじられた。孔彦舟は先に両淮を取ることを計画し、他は顧みられなかった。
正隆六年(1161)、思忠は薨去した。享年七十三。海陵王は深く嘆き悲しみ、自ら葬儀に出席して、通常より多くの弔意の品を贈り、金螭頭車を賜った。官人を派遣して葬列を警護させ、往復の費用を支給した。