塔
「ご覧なさい」
そう言って、男は指をさした。
「あそこに塔が見えるでしょう。あれが、あなたのものなのです」
男は私に向かってほほ笑んだ。
信じられないような気持ちで男の話を聞いていた私は、照れとも誇らしさともつかない感情から、あいまいにはにかんだ。
「今はまだ行けないの?」
そう私は男にたずねた。
男はほほ笑んだままでいる。
「ええ。まだ行ってはいけません。あなたがもっと大人になったとき、きっと行くことのできる機会が来るはずです。その時まで、あなたは待たないといけないのですよ。でも、全てはあなたのものなのです」
そう言うと、男は柵から離れた。
「長居をしてしまいました。そろそろ、下に戻りましょう。夕食も出来ている頃です」
その言葉に、私の言葉は輝いた。
「今日は何が出るの?」
聞くのが待ちきれない私に、男はまたほほ笑んだ。
「季節の食材が今朝届きましたからね。今夜は豪勢ですよ」
「やったあ!」
二人はドアを開けて階段を降りていく。扉の向こうからは、既に階下から伝わる夕食の匂いがただよっていた。
いつの日にも、思い出すことがある。
それは幼い頃の思い出だろうか。どうすることもできなかった失敗だろうか。自分の場合はいくつかあるが、その一つがあの屋上で彼と交わした会話だった。
あの人は、いつも穏やかな笑顔で私に接してくれた。あの人が頭をなでてくれる時、私の心は幸福で満たされた。
それがどうだろう。今も鮮明に思い出せるあの人の笑顔が頭に浮かぶとき、私はどうしようもないほどのやるせない思いにさいなまれる。
あの時、私は幸福だった。確かに、幸福だった。しかし、そのことすらも、思い出となった今は苦い悔恨の味をたたえている。
私はそういう時に、決まって煙草に火をつける。何がどうなるというわけでもないが、そうしている間だけ、自分にこびりついた思い出から逃れられるような気がするのだ。しかし、それも結局は欺瞞だ。それも分かっている。
だが、それ以外に何ができるというのだろう。全ては終わったことだ。これは葬式なのだ。私が煙草を吸うたび、あの人の線香に火が灯る。私が煙を吐くたびに、あの人は燃えて灰になる。それで十分なのだ。
私はいつまでも、この行為を繰り返すことだろう。そうすることでしか、私があの人にできることなど何もないのだから。
十数年前の昔、私は子供だった。私はとある施設に入れられていて、そこで日常生活を過ごしていた。
私は自分の親が誰なのかを知らない。とはいえ、それはさして気にならないことだった。同じような境遇の子供がその施設には沢山いて、特段気にするようなことではないと思えたからだ。
それに何より、私たちにはあの人がいた。常に優しく、時に厳しく、私たちを育ててくれたあの人は、私たち全員の親のようなものだった。私たちはあの人の子供だった。
ある日、私はあの人に黙って家出をしたことがあった。
何ということはない。ただ生活のわずらわしさから、少し遠出をしてみようと思い立ってのことだった。安上がりな方法でひとしきりの旅を楽しんだあと、私は施設に戻った。
玄関のドアを開けるなり、あの人がそれまでに見たことのないような顔で立っていた。私を見るなりあの人は後ろを向いてしまったが、恐らくは泣いていたのだと思う。あの人は何も言わなかった。私も、何も言うことができなかった。ただ、軽はずみな行動があの人を傷付けたことを、私はひどく後悔した。
また、こんなこともあった。私が日頃なにかとそりの合わない連中と、もめごとを起こしたのだ。
彼らは同じ施設に住居する同年代ではあったが、彼らと私との間には微妙な断絶があった。
それは、いつ出来上がったものとも知れない。ただ、日々の言動、日々の生活。それらに対する選択の様々が、私と彼らとの間にわずかな差異を形作り、いつしかそれは二者の間にそれと分かるような距離を作り上げてしまっていた。
お互い、あの人に対しては全幅の信頼を寄せていたが、それと互いが歩み寄れるかということは、別問題だった。自然私は一人でいることが多くなっていた。
そんなある日のこと、もめごとは起こった。
きっかけは何てことのない、ささいなことからだった。あちらのグループの誰かが、何かの持ち物を失くしたらしく、彼はそれをあちこちで探しまわっていた。気に入っていた消しゴムや鉛筆、そんな類のものだったと思う。
しかし、どこを探してもそれが見つかることはなかった。そのうちグループの中の、正義感の強い頭領格の男が、犯人探しをし始めた。
失くした当人は事が大きくなるのをおそれて、失くしたものを諦める覚悟はついているらしかったが、周囲の人間がそれを承知しなかった。施設の中には疑心暗鬼の空気が流れだした。
ところが一向に犯人は見つからない。頭領格の男は次第にいらいらとしだした。彼の正義感とは、己の正義を実行できる相手を欲していただけのことだったのだから、彼はしまいに言いがかりをつける相手を探し出すようになった。そうしてそれは苦もなく見つかった。
つまり、私だったのである。
「お前」
ある日、頭領格のその男は私に話しかけてきた。
もう久しく話していない間柄だったので、私は話しかけられたこと自体から不穏な空気を感じていた。
「なんだ」
私はあまり顔を上げずに答えた。
「お前、××の持ち物を知らないか」
その言い方には、私に話しかける不快さがにじんでいた。
当然その態度は、私の返答に影響を与える。
私は決して友好的とは言えない表情で
「さあ、分からない」
とそっけなく返した。
返答は、彼の癇に障ったようだった。
「嘘をつけ」
彼は私の前からどこうとしなかった。
「知っているはずだ」
私はそれ以上とり合うのが面倒で、読みかけていた本にまた目を戻した。
あの人が私たちを止めに来たのは、騒ぎが大きくなってからのことだった。
頭領格の男が私の本を取り上げ、床に投げ捨てたとき、私は全身の血が逆流するのを覚えた。無言で男に掴みかかると、私は男と殴り合いを始めたのだった。
「何をしている!」
あの人は大きな声で私たちの所にやってきた。私たちの周りには、物見高い野次馬たちが押し寄せていた。
彼らを押し分け私たちのところに来たあの人は、殴りつけられている私と彼をあわてて引き離した。
あっけないものだった。
最初の勢いはあえなく殺され、私は体格のいい彼に殴られるままになっていた。
「なんでこんなことをしたんだ」
騒ぎがおさまったあと、あの人は私と彼を並べて事情を聞こうとした。
私と彼は押し黙っている。
「こいつが」
しばらく沈黙が続いたのち、彼が口火を切った。
「××の持ち物を、盗んだんです」
再び、重苦しい沈黙が流れる。あの人は、何も言わないでいる。
「□□」
あの人が、私の名前を呼んだ。
「それは本当かい」
「違います」
即座に私は否定した。あの人にだけは、そんな風に思われたくなかった。
「嘘をつけ」
彼が、いまいましそうな眼で私をにらみつけた。
「そうでなきゃ、あんな態度をとるもんか」
再び、険悪な空気が流れる。
あの人は少し困ったような顔をして、私の方を見た。
「どうだい、□□」
あの人の眼には、あたたかな信頼があった。
しかし、そのあたたかさの中にわずかな困惑の色があったことは、若かった私の心を傷つけた。
「……………………」
私は、そのまま黙り込んでしまった。
何を言えばよかったのだろう。何を言うべきだったのだろう。私には、分からなかった。
ただ、あの人と彼と、それから私たちを取り巻く数十人の人だかりでできた空間が、あの時は無限に続くかのように感じられた。
そうして次第に、あの人は悲しそうな顔になっていった。
「△△くん」
あの人が、彼の名前を呼んだ。
「これは、どうもここで話すことではないように思われます。今日の夜、二人で私の部屋に来てください。そこで、話をうかがいます」
「…………っ」
彼は、プライドを傷付けられたような顔をしたが、彼はしぶしぶうなずいた。
「□□も、いいですね」
あの人が、私の方を振り返る。
何故だか私は答えられなくて、黙ったままで小さくうなずいた。
そのまま私は下を向いていた。その時あの人がどのような顔をしていたのかを、今でも私は知らない。
「さあ」
明るい、あの人の声がした。
「夕食が遅れてしまいますよ。当番の人は、準備をお願いします」
止まっていた時間が、ふたたび動き出したかのようだった。
あの人の声かけで、周囲はいつもの行動を思い出したようだった。
忙しさを増す周囲の中で、私はまだ動けずにいた。先ほど彼に殴られた頬の内側から、血の味がようやくしはじめた。
そこから先のことは、よく覚えていない。
ただ確かなのは、以前家出をした時よりもはるかに少ない荷物で、この場所を飛び出したことだった。
時間は、夜だった。
あの人に私と彼が呼び出されたことは周知の事実だったので、案外それは簡単に実行できたことを覚えている。夜になってから部屋の外を出歩く私を、誰も怪しまなかった。
私は、逃げ出した。
脱走は、以前同じようなことをした私にとっては、わけもないことだった。
そうして、私は二度とあそこへは戻らなかった。
どうすればよかったのだろう?
事情を話せば、あの人はきっとわかってくれたはずではないか。なのに私は、そのチャンスを、考え得る限り最悪の手段によって、永久に潰してしまったのだ。
施設を出た私の頭にあったのは、ただあの時見せた、あの人の眼差しだけだった。
あの人は私を信頼していた。だからこそ、あの時見せた一瞬の困惑が、私には耐えがたいものだった。それは私にとって、逃げるに足る、充分な理由だった。そうして身勝手な理由だった。私の心の最もやわらかい部分が、あの時歪んでしまったのを、私は感じた。
「どうしようか」
私は夜風にあたりながら、ひたすら歩いていた。
「どうにでも、なれだ」
私は歩き続けた。
それから今に至るまで、まがりなりにも私という一人の人間が生きてこれたのは、全く運によるものとしか言いようがない。
あの後の私は乞食同然の生活をしていたのを、様々な人の助けによって、なんとか過ごしていけたのだった。
私はあの施設から遠く離れたところで暮らすようになった。
そのようになって、様々な人たちを人生で知るようになっても、私の頭の中にはいつもあの人がいた。
もはやあの人への感情がどのようなものなのか、私には分からなかった。
後悔、尊敬、忌避、追慕。………形にしようとすれば、それらの言葉がすべて空虚に思えて仕方なかった。私の脳裏には、ただあの人があった。
あの人の死を知ったのは、ひょんなことからだった。
ある日私は、私のもといた施設に電話をかけてみようと思い立った。
何のことはない。その頃私の周囲には、私の過去を知る人間は一人としていなかった。
その環境は気楽なものだったが、何故だか無性に寂しくなるときがあった。
もう施設を抜け出して、長い年月が経った。私には、過去を思い出すためのよすがが、あそこにしかないのだった。最初のうちは気にもならなかったこんなことが、年数を経るにしたがって自分の脳内に重くのしかかってきた。
何をどうするという訳でもなかった。ただ、懐かしい人の声が聞きたかった。
「はい」
電話に出た人の声は、聞き慣れない女の人の声だった。
「どちら様ですか」
黙っている私に対して、向こうの声はそうたずねてきた。
「あの……」
私はなんと話したらよいか迷いながら、声を出した。
「そちらの施設で子供たちの面倒を見ている、〇〇さんという方はいらっしゃいますか」
「まあ」
電話の向こうの人は、懐かしいものを聞いたような声をしていた。
「そのお名前を聞くのは久しぶりですね。もう何年になるのかしら」
私はとっさに言葉が出なかった。
「もしもし?」
すぐに返答が出来ず、すこし間が空いてから、私は聞き始めた。
「あ、いえ、すみません」
私は謝った。
「もうそちらにはいらっしゃらないのですか」
その後、その女の人が話してくれた内容は、このようなものだった。
私がいなくなった後も、あの人は、ずっと施設で子供たちの世話をしていたらしい。ところが数年前、流行り病にかかってしまい、それがなかなか治らず、結局は亡くなってしまったとのことだった。
「あの時は大変でねえ」
女の人はそう続けた。
「施設の外からも、〇〇さんにお世話になったって人が、沢山駆けつけたものですよ」
彼女はしみじみとしていた。きっとその時の情景を思い出しているのだろう。この人は、私がいなくなってから雇われた、事務員のようだった。
しばらく他愛もない話をして、私は電話を切った。あっけないものだった。
私はなんだか、呆けたようになってしまった。
あの人がもうこの世にいないというのが、どうしても自分の実感として持てないでいた。
施設を出たあとも、心のどこかであの場所はずっと変わらないものだと私は思い込んでいた。しかし、それは私の単なる願望だったのだろう。
あの人は、もういないのだ。
あの屋上であの人と交わした話は、一体何だったのだろう。それは夢のようだったが、はっきりと私の頭の中に残っている。あの人は、冗談半分であんなことを言ったのだろうか。それは今となっては、確かめる術もないことだった。いま、施設の周りにはそれと分かるような塔は建っていない。自分一人では真相はもはや分からない事だった。
だが、それはあの人と二人きりで過ごした特別な時間だった。その幸福が、私をいつまでも生かしていたのだ。
しかしそれも、過去の話だ。
あの人がいない世界で、私は生きることになる。それは時おり、どうしようもないほどの虚しさとなって自分に襲ってくる。
そんな時、私は煙草に火をつけるだろう。あの人の葬式として。あの人の、供養として。
いつまでも叶わない願いの代わりとして、その行為を続けるに違いなかった。




