現流妖怪譚
時は、1955年――高度経済成長期。
とある都会からそれほど遠くない下町に、人形のように端正な顔立ちの、おかっぱ姿の女童がいた。
女童が歩くたびに、カラコロカラコロと下駄の音がして、髪留めに付けている小鈴がチリンチリンと鳴る。鮮やかな、血の色のような着物が印象的である。
商店街を歩いた先に、ビルの建設現場が目に入る。
コーンで部外者が入らないように境界線を引き、『立ち入り禁止』と書いた立札。工事の人たちの元気のよい声と、ガタガタと大音量で音を立てるけたたましい機械。
この工事の人間たちも、明日に希望を見出して、今仕事をしているのだろうか。戦争という、あの真っ暗な時代から抜け出したからであろうか。澱んだ目の色の者は少ない。
しかし…
(森上様が住んでおった土地じゃ)
そこを縄張りとしていた妖怪を思い出した。顔は人の好い爺だが、身体は木が枯れたような妖怪だった。
しかし、その名の持ち主の気配は、すでに無い。逃げて引っ越ししただけならいいが、無法者の人間が知らず知らずのうちに、その存在を荒らし消され――と、ふと嫌な想像をしてしまった。
(此処は、どんどん、住みづらくなるのぅ…)
女童は、ふぅ…と息を吐いて、踵を返して商店街を抜け、なんとはなしに住宅街に足を運び、路地の行き止まりに突き当たってしまった。
そこで、壁に頭を押し当て、なにやらブツブツと独り言を言っている一匹の河童を見つけた。
河童は、本来は体中鮮やかな緑色をしているはずだが、この河童は何故か半分茶色に変色している。
「此れ、何をしておるのじゃ?水辺に居なくていいのか?」
女童は、ツンツンと、河童の背を指で突いた。
河童は、ギギギ…と、油の差していない壊れかけの機械のように、女童のほうに顔を向けた。
「……おいらの住んでいた川は、埋め立てられたんだぁ…もう住む場所がなくなったよぅ…」
目に涙を溜め、鼻水をずるずると垂らしながら、河童は喋った。
「そう弱気になるな。引っ越しすればいい」
「簡単に言うなよぉ…先祖代々住んでいた川なんだよ。おいらの命より大事な川だったんだよぅ…」
妖怪は、人間が居ない場所では存在できない。今まで人間から畏れられていた事で存在できていたのだ。その人間が、妖怪を否定するならば、いつかは消えて居なくなるのだ。
「お主の住んでいた川と心中するのは、それは構わぬが…」
「いやいやいや!やっぱり死にたくないよぉ―――!!!!!」
突然叫びだした河童に、女童は呆れた顔を見せた。
「ほれ、これでも食せよ。落ち着け」
女童は、駄菓子屋の女主人から「商品にならないからあげる」と、もらった飴袋の中から、ちょっと溶けてしまってベチョッとしている紫色の飴を、河童に差し出した。
「なんだぁ?これは面妖な」
「ぐれーぷ味という。いらないのか?」
河童は、返事の代わりに飴を手に取った。
女童は、橙色の『おれんじ味』の飴を、口に頬張った。
着色しているだけなのか『おれんじ』の味は全くしないが、甘い味が口いっぱいに広がっていく。
「あんたは何者なんだい?」
目立たぬように人通りのない路地裏に行き、女童と河童は木箱の上に座り、話を始めた。
もっとも、二人の姿は人間には見えない事の方が多いが、『見える』人間も中にはいる。駄菓子屋の女主人も『見える』一人だが、まさか女童が妖怪だとはさすがに思わないだろう。
時間は昼時なのか、味噌汁の煮立つ匂いが、民家の窓から漂ってくる。
「見てわからぬか?妾は人間になりきれなかった半妖じゃ。こんな成りでも、数百年は生きておるぞ」
すでにこの世ならざる妖怪に『生きる』という表現は、本当は変なのだが。
「ふーん、人間になりたかったのかい?」
「……いや、人間という生き物は、まどろっこしくてかなわぬ」
「ま、そうだろうなー!人間だけには絶対に、なりたくないよなー」
ケラケラ笑う河童に対し、女童は、多少ムッとした顔をしたが、それを流すことにした。
「この町は空襲で焼けなかっただけ、良かったのか…あの一帯の妖怪はひとたまりもなかったじゃろ」
「確かになぁ…あの時代は、ひどかった。今は良い時代になったなぁ」
河童は呑気に返すが、女童は違った。
「良い時代…果たしてそうなのか。古き良きものは、『ださい』と追いやられ、人々は新しいものを追い求める。時代が移り変わるたびにそうじゃ。そんなものじゃ。そうやって人々は文化を発展させていった。しかし…今度は、根こそぎやられてしまうかものぅ」
「何がなんだ?お嬢ちゃん」
女童は、お嬢ちゃんはやめてほしいと思ったが、ひとまずそれは黙っておいた。
見た目は子供でも、心は年季の入った老婆である。この若い河童も例に漏れず、外見で判断するタイプのようだ。
「数百年…いやもっと前からか。この国の人間が潜在的に持っていた心の憑代じゃよ。愚かなことに、人間は失ったことにすら気が付かない。そんなものじゃ。………でも、それでいいのかもしれない」
「お嬢ちゃんの話は、難しすぎてわからん」
ま、この若い河童に理解なぞ無理か、と女童は思った。さっきのぼやきは、ただの独り言だと思うことにした。
もう一個くれ、と河童から飴を催促される。河童は、緑色の『めろん味』、本人の体と同じ色の飴を所望した。
「人間は珍しいモノを食ってるんだな。俺、初めてだよ、こういうモノは」
そうじゃの、と女童は軽く頷いたが、直後、突然の土砂降りの雨のため、話は中断した。
河童は「ふおおおー!!!」と妙に嬉しそうな叫び声を上げ、大雨の中、狂喜の小躍りをし始めた。河童という妖怪にとって、水が恵みで、生命力そのものなのだ。河童の半分茶色の身体が、あっという間に瑞々しい緑に生まれ変わった。
「さらばじゃ、河童よ。達者でな」
女童は別れの言葉を河童に伝えたが、河童はどうやら気が付いていないようだった。
夕刻――
数時間前はこの土地を濡らした大雨もすっかり止み、女童の双方の眼には、綺麗な夕日が移っている。
ここは、町が一望できる小高い丘の上である。
先ほどは、引っ越しの前に、随分と面白い河童に出会えたものだ。
(人々の基本的な営みは、今も昔も大して変わらぬ。だが……)
これからもどんどん産業が発達し、便利な暮らしを手に入れる。その発達とともに、人々は大事なものを置き忘れてしまうだろう。この時代の流れと共に。
女童の左手には、風呂敷包みを持っている。この中には、女童がずっとずっと昔、まだこの現世に存在し始めて間もないころ、母親代わりともいえる女性からもらった大事な形見が入っている。
(もう、一族は途絶えてしまったが――)
ふと、世話になったその人たちの事を思い浮かべた。
「妾も、あとどれだけの命かのぅ?」
残り何年か――いや、もしかしたら数日後には、消えて居なくなるかもしれない。
別にこの世に未練はないのだが…
数百年生き続けた女童は、長年住んでいたその場所を丘の上から眺め、そして去っていった。
この国の行く末を、ほんの少し、案じながら――