幸せの貯金箱
私は生まれた時から貯金箱を持っていた。
産まれる前に、神様がくれた。それは「幸せの貯金箱」と言って、幸せを貯金出来る箱なのだ。
形はピンクのハート型をしている。
幸せを使うのを我慢すると「ちゃりん」と音がして、幸せ貯金が出来るのだ。そして、幸せになりたい時に、いつでも取り出して使うことが出来る。
私はこの「幸せの貯金箱」は誰も持っていないらしいことに気づいていた。
私だけのこの特別な貯金箱に、私はせっせと「幸せ」を使わずに貯金している。
いつか本当に幸せになりたい時、私はこの貯金箱を開けるだろう。
「何度言ったら分かるのよ!」
ぴしゃり、と母の手が私の頬を叩く。
「このページの年表を丸暗記しておきなさいって言ったでしょ!」
お母さん、本当にごめんなさい。
「○○中等部に入れば、大学までエスカレーター式なんだから、今頑張らなくてどうするの!」
そうだよね、今我慢すれば、私はもっと幸せになれる。
外では、お友達が公園で遊んでいる。でも私は週5日塾に行かなきゃいけないからなぁ……
「あの子たちはね、今遊んでいる分、あとで苦労するのよ!」
そうだよね……
私は「幸せ貯金箱」に幸せを貯蓄する。
今は幸せを使わず、取っておこう。そしていつかきっと、あの子たちと遊ぶんだ。
ちゃりんちゃりん。
○○中等部には、入学できなかった。
あの時貯金箱を開けてしまえばよかったんだろうか。でも、実力で勝負したかったし、仕方ないのかな。
「幸せ貯金」は大分溜まっている。
だから、私はこれからもっと幸せになれるはずなんだ。
……と思って新しい中学に入ったら、いじめに遭った。
友達がいなかったから、仕方ないのかな。
不幸の手紙とか、机に花とか、物を盗まれたり、おかしな噂を立てられたり……
でも、私にはこの「幸せの貯金箱」があるから、動じないよ。
幸せは使わないで取っておこう。
ちゃりんちゃりん。
大学に入ったら、初めて友達が出来た。
私の友だちになるのなんか勿体ないぐらい、可愛い女の子。美鈴ちゃんだよ。
いつも、とても可愛い服を着て、髪型もばっちり決まってる。お母さんが美容師さんなんだって。
美鈴ちゃんと一緒にいると、芋づる式に男女問わず友達が増えた。
初めて大勢でファミレスや飲み屋に行ったよ。
こんなキラキラした世界があるなんて、知らなかった。
ある時私が美鈴ちゃんを伴わずに飲み会に参加すると、男の子たちが口々に聞いて来た。
「美鈴は今日いないの?」
私は笑顔で頷いた。すると彼らはこう言ったのだ。
「なーんだ。来るだけ損じゃん」
女子達は一様に黙った。みんな怒っているみたい。そりゃそうだよね。
「こっちだって、時間を損したよ!」
と誰かが言って、女子達は頷き合った。
「行こ行こ」
私たちは男友達を失った。でも、それでいいと思えた。
別のファミレスでみんな愚痴り合う。
「美鈴ちゃん目当てで仲良くして、私らを〝得した〟〝損した〟判定って何様!?」
「損得で人と付き合ったら駄目だよね。そういう奴とは付き合えない」
「時間は有限なんだからさ、もっと違う奴らと付き合おう」
私は頷きながら、ちょっとぐさりと来る言葉に出会った。
時間は有限──
思えば、私ももう20年生きた。人生の四分の一だ。
家に帰ってピンクのハート型貯金箱を振ってみる。中身がぎっしり詰まって重かった。
そろそろ、「幸せの貯金箱」の中身を使う時なのかもしれない。
次の日大学に行くと、美鈴ちゃんは男子たちに囲まれて、女子達は彼女をあからさまに無視していた。
私は美鈴ちゃんが悲しそうな顔をしていたので、とても勇気が要ったけど、声をかけることにした。
「美鈴ちゃん!」
私が来ると、美鈴ちゃんの顔がぱっと輝いた。
「今度、一緒に放課後の秘書検定講座取ろうよ。就活に有利なんだって」
「そうなの!?行きたーい!」
美鈴ちゃんは嬉しそうにそう言った。でも男子たちは不満そう。美鈴ちゃんの放課後を潰す女が現れたとでも思っているのだろう。でも、私ははっきり言えるよ。
「就活で損しないように──時間を有効に使おうね!」
意趣返しされたと気づいた男子数人が、少し苛ついてる。ざまあみろ。美鈴ちゃんは君たちではなく、私と講座を取る方を選んだのだから。
私、まだ貯金を使わなくてもいいみたい。
ちゃりんちゃりん。
私は無事、とある大きな通信会社に就職することが出来た。
なんと美鈴ちゃんも一緒に、だ。
美鈴ちゃんは秘書課、私はコールセンター。配属先は違うけど同じビル内で勤務している。いわば私たちは「同期」だ。
コールセンターで仕事をしていると、まだまだ知識不足の私はどうしても先輩を頼ることになる。
その先輩の名は、畑中さん。
私を含む、2~3人の新卒の教育を任されている。背が高くてカッコいい。指輪はしてなくて、まだ未婚。きっと、こんな人には可愛い彼女がいるんだろうな。
頼れば頼るほど、私の心は畑中さんに傾いた。初めての恋だから、どうしたらいいのかさっぱり分からない。
私は閃いた。
そうだ、そろそろあの貯金箱を開けよう。あれを開ければ、きっと畑中さんはこちらに振り向いてくれる。私はもっと幸せになれるはずなんだ。
でも、勇気が出なかった。今ここで使ってしまっていいのだろうか?もう少し、自分の気持ちが固まるのを待つべきではないのか?あと、畑中さんにもし恋人がいたら、開け損になるでのはないか……?そんなことをくよくよ悩んでいる内に、ある日畑中さんから思わぬことを尋ねられた。
「岡田さん、秘書課の木下美鈴さんとお友達なんだって?」
昼休みのことだった。私はかつて大学で男子たちから尋ねられたのと同じ質問を、好きな人からされている。
「紹介してよ」
私はぐらぐらと頭が嫉妬で煮えたぎるのと同時に、奇妙なことを考えていた。
(「幸せの貯金箱」を……開けなくてよかった)
今まで散々「幸せ」を我慢して溜めて来た分を、この人に使わなくてよかったと思ったのだ。
結果、私は美鈴ちゃんに畑中先輩を紹介した。
二人はすぐに意気投合したようだった。そして、すぐに付き合い始めた。
私は家でめちゃくちゃ泣いた。そして、こんな思いをするのなら、どうして「幸せの貯金箱」を開けなかったのかと後悔した。あの時期、あの瞬間、開けていればもしかして、私は畑中さんと──
私は使えなかった幸せを、貯金箱に入れた。
ちゃりんちゃりん。
ああ、悲しい。
この幸せを溜める音は、ほんとうに、とっても悲しい。
私は畑中さんと美鈴ちゃんの結婚式に出席していた。
おすそわけされた幸せを、私はまた貯金箱に入れる。泣きながら。
ちゃりんちゃりん。
その横で、ひとりの男性が私に声をかけて来た。
「岡田さん、これから親友代表スピーチやるんですよね?僕も畑中君のスピーチ任されてるんですけど、何分ぐらいの内容を予定してます?」
私はその人の顔と、席次を交互に眺めた。鮫島さんか、ふーん。イケメンじゃん。
私は何もかも面倒になって、幸せ貯金箱から幸せを取り出した。
もう今、使っちゃおう。イライラしているし。我慢なんて、もうまっぴら。真面目にやってたって何もいいことなかった。散財してやる。
結婚式でのスピーチもそつなく終えると、私は二次会にも出ず帰ることにした。駅へのしのし歩いていると、なんとそのホームで声をかけられる。
「あれ?岡田さんですよね」
その声に振り返ると、鮫島さんが立っていた。私は驚いた。これが、幸せ貯金の効果か。私みたいな地味な女に異性がわざわざ声をかけて来るなんて、まずないことだ。
「二次会、出ないんですか?」
「はい……ちょっと疲れてて。鮫島さんこそ」
「僕は明日、出張なんです。仙台まで」
私は貯金箱から幸せを取り出した。
「じゃあ笹かまぼこ、買って来て下さい。チーズ入りのやつ」
鮫島さんは、ちょっと驚いている。ここまでぐいぐい来られるとは思っていなかったのだろう。幸せ貯金の無駄遣いをしようとしている私は、無敵だ。
「今度、いつ会えます?」
鮫島さんは更にびっくりしている。ああ、引かれたかなーと思ったが、意外にも彼は前のめりに言った。
「一週間後はどうですか?待ち合わせは、銀座駅で」
「……有楽町駅にして下さい」
「目と鼻の先じゃないですか!」
「……ふふっ」
私は軽く笑う。ああ、貯金を崩すのって、何て気持ちいいんだろう。
このまま、空っぽになるまで使おうっと。
それから、私は鮫島さんと結婚した。
でも、不妊だったのでそれを解決するため、一気に貯金を崩してしまった。
一人娘を生むことは出来たけど、「幸せの貯金箱」は空っぽになってしまった。私が好きな時に使える「幸せ」は、もうない。
ある日のことだった。
「ねぇママー、コレって何だろう?」
幼稚園から帰って来た娘が、真っ赤なハート型の貯金箱を持っている。
「あなた、いつからこれを……」
「産まれる前、神様に貰った」
私は真っ青になって──それを素早く取り上げてしまった。
それから、頭の中にどろどろとしたかつての不幸がよみがえってくる。
こんなものがあるから、私は悲しい子ども時代を過ごさねばならなかったのだ。
でもこれがあったから、こうして結婚が出来、娘を授かることも出来た──
私は娘の目線までしゃがむと、さとすように言い聞かせた。
「……ママ?」
「あのね、この貯金箱は、幸せを貯金できる箱なの。貯めた幸せを、ここぞという時に使うことが出来る。でもね、幸せを溜める間は、とっても不幸なのよ」
幼稚園児でも、女児ならこれぐらいの説明は理解出来る。
娘は頷くと、あっさりとこう言った。
「じゃ、いらなーい」
私は娘の「幸せの貯金箱」を手に入れた。これに私が「私の幸せ」を貯金すれば、娘は好きな時に幸せになれるだろう。そこまで考え、私の胸はずきりと痛くなった。
「……そっか」
私は天を仰いだ。
「〝その時〟幸せじゃなければ、本当の幸せは感じられないんだ。〝その時〟を諦めたら、不幸……」
気づけば、私は赤いハートとピンクのハートを庭先で叩き割っていた。
幸せに「使い時」など探してはならない。幸せを「我慢」してはならない。幸せを、計画的に使うのはとても不幸なことだ。
そう、私はこれを壊して、娘と私の不幸を未然に防ぐことに成功したのだった。
しかしあくる日、私の母から黄色いあの「幸せの貯金箱」が送られて来るとは誰が予想出来ただろう。
「芽衣ちゃんへ。あなたのために、私は幸せを使わず、我慢して溜めました。どうぞお好きに使ってね」
……というおどろおどろしい手紙付きで。
なんと、母も同じものを持っていたのだ。呪いは世代を跨いで繰り返す。私はその貯金箱の中から全ての貯金を取り出した上で破壊し、「母が幸せになれますように」とだけ祈るのだった。