ワガママ悪役令嬢のカタルシスは、愚かな婚約者がいなければ成立しない。
「いい加減にしてくれ!!もううんざりだ!」
壮麗なる王宮の、王家主催の夜会には相応しくない怒鳴り声に、参加者達の顔にサッと緊張が走った。
声の主は私――パトリシア・ボールドウィンの婚約者であり、この国の第一王子である王太子アイザック殿下。私を睨みつける瞳は仄暗く、そして強い憎しみが籠っているように見えた。
「パトリシア・ボールドウィン、貴女との婚約を破棄する!!」
このような衆目の面前で婚約を破棄するなど有り得ない。けれども私はアイザック様以上に声を荒げて言い募る。
「嫌です!!何故ですか!!私はアイザック様の隣に立つべく、毎日努力して参りましたのに!!」
「もう耐えられないんだ!貴女の姿を見るのも、声を聞くのも苦痛で仕方がない!!」
縋りつこうと近づいた私に、殿下は声を荒げて後ずさる。その足取りは覚束ないもので、体調が悪いことに気づいた私は、殿下を支えようと更に近づくのだけれど、それより先に近づく人間がいた。
「ステラ・ガーデン男爵令嬢ッ!!」
アイザック殿下の乳兄弟であるステラ・ガーデンは、いつの頃からか私という婚約者を差し置いて、殿下の傍に侍るようになった。妃教育や公務のせいで私は殿下に会えないというのに、男爵位などという平民と大差ない身分の女に現を抜かすだなんて有り得ない。いいえ、お優しい殿下のことだから、この卑しい女狐が騙しているのね。
「この茶番は貴女の仕業ね。アイザック様に何を吹き込んだの!?」
「お止めください!」
問い質そうとステラ・ガーデンに近づこうとすると、今度は近衛騎士達に取り押さえられる。
「止めなさい!!私を誰だと思っているの!?私はボールドウィン公爵家のパトリシアよ!!近衛ごときが私に触れるなんて許される思っているのッ!!!」
この国が建国して以来の臣下であるボールドウィン公爵家の長女である私に許可なく触れるなんて許されることではない。けれども騎士は私を抑えつけたまま、離れない。辺りを見回せば、誰もが非難がましい目で私を見ていることに気が付いた。
「お父様!お母様!」
誰も味方がいないのだと思い知らされた私は両親に助けを求めた。けれども両親や兄もまた私を冷たく見下ろし、怒りを堪えるような顔をして言ったのだ。
「パトリシア。何故私達の言うことを聞かなかった。アイザック殿下に付きまとうのは止めろと、再三に渡って言い聞かせていたではないか!」
「だって!私は公爵令嬢よ!?どうして二番手に甘んじなければならないのですか!!」
初めて会った日からずっと、私はアイザック様を好きだった。優しくて穏やかな方で、いつも私の話を聞いてくださったの。私の家族は皆忙しくて、ゆっくりと話を聞いてくれることもなかったけれど、アイザック様だけはニコニコと私の話を聞いてくれた。誕生日には私の好きな百合の花と手ずから選んでくださった贈り物をくださったのに。
「嫌よ!アイザック様!!私、本当に貴方を愛しているの!!」
必死に声を掛けるのにアイザック様は応えてくれることもなく、私は引きずられるようにして王宮を後にした。馬車に乗っている間も涙は止まらず、婚約破棄が余りに衝撃的だったせいで、公爵家に帰るなり私は高熱に苦しむことになったのだった。
高熱が下がった途端、まるで憑き物が落ちたように私の心の中からアイザック様への気持ちは消え失せてしまっていた。むしろどうしてあんな男が良かったのだろうかとさえ思えてならなかった。
第一王子とはいえ側室腹の王子。アイザック様は、容姿は美しいけれど凡庸で、第二王子である王妃殿下の御子様である第二王子ヴィクター殿下の方がずっと優秀だと比べられていた。私との婚約によってボールドウィン公爵家の後ろ盾が無ければ王太子などなれなかった程度の男。私との婚約を有難いと思いこそすれ、男爵令嬢と浮気をした挙げ句に婚約破棄するなんて己の立場というものを何一つ分かっていないような愚かな男なのだ。
恐らくきっと父親達は私を公爵家の恥だからと修道院に入れるのだろう。最悪の場合、不敬罪か何かの罪を着せられて監獄に連れていかれてしまうかもしれない。これまで王子妃、ひいては王妃になるべく勉強に励んできた私が、どうしてそのように落ちぶれなければいけないのか。悪いのは浮気をしたアイザック様でしょう。
理不尽だと憤る感情に任せて、私は荷物をまとめてボールドウィン公爵家を出た。
持ち出した貴金属を売ったりしながら、どうにか隣国に辿り着いて、事業を始めた。妃教育で身に付けた法の知識を活用して、街の人の相談に乗ったりしている内に、私は仲介人としての地位を確立し始めた。
そうして平民として楽しく暮らしている内に、私は恋に落ちた。相手は不動産についてよく相談に来ているジェレミーという実業家だ。穏やかで私の話を『うんうん』とニコニコと聞いてくれる優しい人。
「愛している。君のような人は初めてだ、パティ」
「私も貴方を愛してるわ」
私達はゆっくりと愛を育み、一年ほど経ったある日、ジェレミーは私を両親に紹介したいと言い出した。快く応じたのだけれど、御両親に会いに行く為の服装としてドレスを贈られたことに少し戸惑いを覚えた。夜会で直接私を紹介しようというのだろうか。ジェレミーの身なりや立ち振る舞いは洗練されたもので、もしかしたら実家は子爵家くらいなのかもしれないと辺りをつけていたのだが。
「私の色に合わせたものを用意したんだよ」
ジェレミーがニコニコと嬉しそうに言うものだから、私は絆されてしまった。
それがまさかあんなことになるなんて思いもしなかった。
結論を言うとジェレミーは子爵令息どころか、この国の第三王子だった。全然そんな風には見えなかった。だって、私が貰ったドレスだって王子が恋人に贈るようなレベルじゃなかったんだもの。
そして呼ばれた夜会は他国の人間も招待する王家主催の舞踏会で、ジェレミーの兄上でいる王太子殿下の婚約披露がメインイベントらしい。しかもよりにもよって、このパーティーには祖国の第二王子ヴィクター殿下が国賓と招かれていた。
「私の愛する人に謂れなき罪で陥れた挙げ句、国外追放にするなんて非道な行いを私は許すことは出来ない!!」
気まず過ぎてヴィクター殿下と顔を合わせたくなかったのに、ジェレミーは殿下に食って掛かった。しかもジェレミーは私の過去を知っている風な口ぶりで、血の気が引く心地がした。
「……パトリシア・ボールドウィンか」
ジェレミーの隣にいた私に気づいたヴィクター殿下は、冷たく蔑むような目を向けた。兄であるアイザック様が春の陽だまりのような人であるなら、ヴィクター殿下は冬の凍てつく氷のように硬質さを感じる人である。
「己の所業を顧みて反省したかと思えば、手前勝手な言い分を吹聴して、ジェレミー王子まで誑かしましたか」
「パティは私には何も言っていない!!ただ、我々が調べた内容とパティの姿はあまりに違い過ぎた!彼女は誰かに陥れたのだ!!」
きっとジェレミーとの関係したことで私の素行調査があったのだろう。そして、その過程で私がアイザック様に婚約破棄されたことが分かって、だけど私の無実を信じたジェレミーがこの場で行動に起こしてくれたに違いない。
「そもそもアイザック王太子が廃嫡されたのは、パティが冤罪だったからじゃないのか!?」
私の知らない間に、アイザック様は廃嫡されていたらしい。やはり私が想像した通り、ボールドウィン公爵家の後ろ盾を失って引きずり降ろされたのだろう。男爵家ごときでは王太子を支えることなど出来ない。であれば、ヴィクター殿下が立太子されたのか。
「そんなに兄の失脚が嬉しいですか、パトリシア・ボールドウィン」
無意識の内に私の顔には『ざまぁみろ』という感情が浮かんでいたのだろうか、ヴィクター殿下はそれを指摘した。そして殿下は私達だけではなく、国王陛下や周囲にいる他国の代表達に向き直る。
「我が国の問題で誤解があったようですが、兄アイザックは廃嫡ではなく、病気療養の為に王太子の座を返上したのです」
病気?アイザック殿下は幼い頃から健康だったと思うのだけれど。
「軟弱だとお笑いになる方もいらっしゃいますでしょうが、兄は婚約者の非常識な行動に悩まされ、心を病んでしまったのです」
「心を?」
ヴィクター殿下の言葉に王妃殿下が相槌を打つ。
「兄の婚約者は十歳の時に我が兄の容姿が気に入ったと父公爵に強請り、無理やり婚約をしてから破棄するまで、一年365日毎日付きまとい、『私と婚約したから妾腹の貴方は王太子になれたのですよ』と恩着せがましく言い続けていたそうです。小さなミスでも『大丈夫ですよ。貴方が平凡で暗愚だとしても公爵家がフォローしますから』と」
話の流れとして、周囲の人々は私がパトリシア・ボールドウィンだと気づいているせいか、非難の目が集まるのを感じた。
「兄の近くに女性が近づけば暴言を吐き、暴れて手がつけられない。そして止めに入った際に彼女の身体に触れた近衛騎士に対して『辱めを受けた』と訴えて何人も解雇させたのです」
確かに私はアイザック殿下の周囲に群がる恥知らずの女達を排除しようとした。その時に邪魔をした騎士が目障りだったから、こちらも排除した。ただそれだけの話じゃない。
「男の騎士では防波堤にならないからと女性騎士を配置しましたが、既に女性への忌避感が強かった兄は周囲に人をつけることも出来ず、ただ一人だけ受け入れられた女性が乳兄弟であった男爵家の令嬢でした。しかし、婚約者は浮気だなんだと騒ぎ立て、男爵令嬢を虐げたのです」
「だって!どうして私じゃなくて、私がアイザック様の傍にいるのよ!!身の回りの世話なんて男の従者に任せれば十分でしょう!!」
「触れただけで辱めたなどと宣う気狂いがいては、誰も兄には近づきませんよ」
私が異常だとでも言いたいのだろうか。カーッと頭に血が上っていくのが分かる。
「私のお陰でアイザック様は王太子になれたのよ?私に感謝して、私を立てるべきよ!!なのに私以外の女に現を抜かすなんて許せるわけないでしょ!!」
「別に兄は王太子になるつもりなんてありませんでしたよ」
「え?」
「国王とは時には非情な判断も必要だと兄は気づいていましたから、臣下として私を支えたいと希望していたのを、貴女が無理やり仕立て上げたのでしょう?」
そんな話は知らない。
「そ、そんな話、私は知らないわ……」
「聞かなかっただけでしょう」
「そんなことない!!私、アイザック様の為なら何でもやったわ!!」
「もう遅いのですよ。貴女のせいで兄の心は壊れてしまった。もう誰の言葉も届きません。私や父、乳兄弟の言葉もね」
廃人のように心を閉ざしたアイザック様は今は離宮で少数の使用人達と細々と暮らしているのだと殿下は告げた。
「わ、私は……」
「妾腹の王子が自分と結婚して国王になれるのだから有難がれなどと笑わせてくれる。貴女のその傲慢さに兄は耐えられなかったのですよ。それに国外追放なんてしていません。貴女が勝手に逃げたのでしょう」
場違いなほどににこやかな笑顔を見せるヴィクター殿下に、背筋が凍りそうなほどの恐怖を感じる。視線や言葉だけで私を殺してしまえそうなほどに殺意が籠っていた。
「良心の呵責で身を隠したのかと思っていましたが、こんな風に堂々と私の前に現れるほど面の皮が厚い女だなんて……想像通りです」
何か言い返さなければいけないとは分かっているのに私は上手く声を出すことができない。
「だって!だって!!アイザック様は――」
アイザック様は私に笑いかけてくれた。それを止めたのは私のせいだって言うの?
「まぁ、我が兄のことは所詮貴女にとっては過去のことです。しかし一体どれほど分厚い皮を被っていたかは知りませんけどね、貴女の本性を知って愛する者はいるのでしょうかね?」
鼻で嗤ってヴィクター殿下は視線を私から外した。それを追うように私も視線を向ければ、そこには青い顔をしたジェレミーがいた。
「ジェ、ジェレミー?」
「君がそんな女だとは思わなかった!騙したんだなッ!?」
「違うわ!!」
真実、私は心からジェレミーを愛していた。騙していたなんて事実は一切無いのだと伝えたいのに、だけどジェレミーは私のことなんて見ていなくて、別の少女を見ていた。そして少女に跪いて懇願したのだった。
「イザベル、すまなかった!!私はこの女狐に騙されていたんだ!!許して欲しい!!」
愕然とした。この少女はジェレミーの婚約者なのだろう。婚約者がいる身でありながら私にも良い顔をして、恋人として振る舞っていたということなのか。図らずも私は婚約者のいる男性に近づいた卑しい平民女になってしまった。
「罪無き男爵令嬢を泥棒猫と罵った女が、まさか自らは本当に同じ道に堕ちるとは……滑稽なことだな」
懇願するジェレミーの手を振り払って退席しようとする少女の姿を尻目に、ヴィクター殿下は私に止めの一言を告げた。
「誠実でお優しかった我が兄を壊した貴様など、地獄へ落ちてしまえ」
今更何を言ったところで、進み出した時計の針を元に戻すことは出来ないものなのだと私は思い知ったのだった。
END