3.一難去ってまた一難
「…………………………あのさあ。」
不機嫌な表情を隠そうともせずに、アンジェラは部屋に入ってきた騎士服姿のオスカーを睨みつけた。
「なんで私、ドレス着せられてるわけ?」
彼女の今の姿は豪奢なイブニングドレスである。胸元は純白、それが足元に下りるに従って鮮やかな朱色に変わる見事なグラデーションのエンパイアラインのドレスで、腰回りや裾はドレープやリボンで飾られ精緻な金刺繍が施され、その中に散りばめられた様々な宝石類が煌めいている。肩と背中は大胆に露出していて、腕は純白の長手袋に覆われている。
ドレスも手袋も、素材は東方世界から輸入されたと思しき本絹の手織りだ。表地だけでなく裏地までそうで、ドレスの胴の部分は柔らかな綿裏地がさらに縫い付けられている。
どう見てもオーダーメイドの一点物で、製作にいくらかかったのか想像もつかない。とてもではないがしがない伯爵家令嬢が着ていい仕立てではないはずだ。
髪型はハーフアップにまとめられ、ふんわりと背中側に流されていてネットをかけられ、そこにも色とりどりの宝石類が散りばめられている。
アンジェラは髪を短くカットしていたので長さが足らず、だから今の彼女の頭はウィッグで水増しされていた。本来は黒髪だが、黒のウィッグはなかったらしく褐色のウィッグを当てられていて、だからぱっと見は茶髪に染めてから時間の経った黒髪のように見える。
それを周りで甲斐甲斐しく動き回る侍女たちにせっせと飾り付けられ、口々に「お似合いですわよ」「とっても素敵」「お美しいですわ」などと囃し立てられたって、置かれた状況に納得がいかないままでは気分が上がるわけもない。
「まあそう仰らないで下さい。アンジェリーナ様のお披露目の夜会のために仕立てられたドレスですので、主役を着飾らせないわけにはいかないのです」
申し訳なさそうにオスカーが言う。
「だから!私の“お披露目”って一体なんなの!?」
実際、アンジェリーナには訳が分からなかった。これではまるで、婚約披露みたいな雰囲気ではないか。
アンジェリーナ、いやアンジェラはマインとオスカーとともに夜通し駆けて、夜が明ける頃には海岸線にたどり着いた。そこには港はなく、ただ一隻の船があるだけだった。
寝ていないのでだいぶ疲れていたし、思考能力も若干落ちていたかも知れない。予想以上に大きな立派な船で、思った以上に多くの船員が乗り込んでいたのをさすがに訝しんだのだが、マインに「この船は俺の仲間だ。心配いらないからまずは食事でもして、それから一眠りするといい」と言われて船室を宛てがわれて、まあ彼の仲間ならそこまで警戒することもないか、と深く考えることもなく出された食事を平らげて眠りについたのだった。
起きたときには陽神はすでに中天に差し掛かっていて、船窓からは遠くに陸地が見えていた。食事を持ってきたマインに「あれが目的地だ」と言われ、空腹に負けて食事をパクついているうちに港へ入ったらしく、彼に連れられて船を降りた。
降りた先には何故か豪奢な脚竜車が待っていて、訳もわからないうちにそれに乗せられ、気がつけば尖塔をいくつも備えた立派な古城に連れ込まれていたのだ。
マインに問い質しても言を左右に誤魔化すばかりでまともに教えてもらえず、オスカーも苦笑するばかりで、彼女はすっかり疑心暗鬼になっていた。拉致されかけたところを助けてもらったのかと思いきや、別の拉致に遭ったとしか思えない。こんな事ならさっさと逃げておけば良かった。
とはいえ、アンジェリーナも年頃の女子である。綺麗なドレスには純粋に心が踊ったし、それを着せてもらえると知って「まあそれくらいは」とも思ったし、出される食事は上質で美味なご馳走ばかりだし、浴室も広くて豪勢で見たこともない香油が好きなだけ使えて、そういった明らかに普段の生活水準より上の体験ができる状況をちょっと楽しんでる自分があることも自覚していた。
それに冒険者としても個人としても信用の置けるマインが連れてきた場所なのだし、差し当たって敵意や危険も感じなかった。むしろ城の侍女たちや使用人たちから何やら温かい目で歓迎されて、面映ゆくすらあった。
そんなこんなで気付けば何日も逗留してしまっていた。何となく逃げるタイミングを逃してしまったとも言える。
その結果、お披露目とやらの夜会に出席させられる羽目になったわけである。今着ているこのドレスもそれはそれは心が踊ったものだが、よく考えればマインの瞳の色だし、金刺繍は彼の髪色と同じだ。
ってことは何?私、彼の婚約者扱いなの!?
「ていうか“アンジェリーナ様”ってなに!?」
「貴女がグロウスター伯爵家の次女アンジェリーナ様であることはアルヴァイオン国内にて調べをつけてございます。どうか何も仰らず、マイン様のお側に侍して頂きとうございます」
「……………ねえ、薄々分かってた事なんだけど、やっぱりマインはどこぞのお貴族様で、オスカーさんはその従者か護衛、ってことで合ってる?」
「左様でございます」
アンジェリーナは天井を見上げて嘆息した。うっかり信用したばかりに、このままでは貴族の妻にさせられてしまう。
いやまあね?何となく分かっちゃいたけどさ。だいたいマインのやつ、言葉遣いが綺麗過ぎるのよね。顔も声も立ち居振る舞いも洗練されてたし、装備は偽装してたけどどれも仕立てのいいモノばかりだったし、なんかこう、ボンボンの匂いがしなくもなかったのよね。
まあそのイケメンっぷりにちょっと靡いちゃって遠ざけなかった私が悪いっちゃそうなんだけどさ。
「で?そのマインはなんで顔を見せないの?」
「マイン様はエスコートまで楽しみに取っておくと申されまして。ですので明後日の夜まではお会いになりません」
「…………………………あっそ」
くそう、顔を見せたら絶対問い詰められると解ってて逃げてやがるな。これは夜会の当日その時間まで絶対捕まらなそうだ。
しかも箝口令が完璧で、オスカーさんは元より侍女も従僕も使用人も誰に聞いても、彼の正体はもちろんここがどこかすら明かしてもらえない。さすがに話し言葉からブロイスの国内であることは分かったが、それだけだ。そして逃げようとしても立ちどころに見つかって連れ戻されるだろう。ていうか一度試して本当にアッサリ捕まったから、二度目のチャンスはきっと薄い。
「もういいわ。顔も見たくないって伝えておいて。それと貴方ももう来なくていいわ」
不機嫌全開でソファに腰を下ろしてしまったアンジェリーナに、オスカーはまだ何か言い訳したそうだったが、これ以上はもっと怒らせるだけだと判断したのか、一礼してすごすごと引き下がっていった。
周囲では侍女たちがスカートにシワが寄ると青ざめて騒いでいたが、アンジェリーナは全く意に介さなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
衣装合わせを終えて平服に戻ったアンジェリーナは、することもないのでぶらぶらと城内を探索することにした。幸いというか軟禁されているわけではなく、城内ならば出歩くのは自由だったため、単純に初めて訪れた場所への興味もあって彼女は時間の許す限りあちこちへと足を運んだ。
厨房では多くの料理人たちがせっせと下拵えに精を出していたし、広い庭のそこかしこには庭師の働く姿も見える。厩舎には様々な種類の脚竜や馬が何頭も繋養されていたし、馬車も脚竜車も何台もあった。
廊下を歩けばすれ違う使用人や従僕たちはみな脇へ避けて頭を下げてくるので、何だかちょっと自分が偉くなったみたいだ。ていうかこの反応は、この人たち全員が私が誰で何のためにここにいるのか知ってる、ってことよね。私だけが解ってないのって、なんかちょっと不公平じゃない!?
「ねえ」
廊下の隅で頭を垂れる歳若いメイドに声をかけてみる。
「は、ひゃい!?」
声をかけられると思ってなかったようで驚かれた。
「マインってさ、あなた達にとっていいご主人様?」
一瞬、何を問われたのか分からないようにボケッとしていたメイドは、問いかけを理解するとしどろもどろになって答えはじめた。
「あ、はい、その、殿下はとっても素晴らしい御方で…」
(ほうほう。アイツ、殿下なんて呼ばれるご身分なのね)
アンジェリーナは頭の中で素早く貴族名鑑と照合する。彼女の脳内には西方世界各国の主要な貴族の名前と爵位がバッチリ記憶されている。
殿下というくらいだから皇族だろう。ブロイス皇族で年齢の合いそうな人物は数人いるが、その中に名前がそっくりな人物がひとりだけいる。それは最初に会った時に思い浮かべた名前で、いやいやそんな安直な、それはナイ、と候補から除外した名前だった。
ていうか正体隠す気あんのかアイツは!まあ人のこと言えないけどさ!
「私どものような下々の者にまで親しくお声がけ頂いて、大変良くして下さる素晴らしい御方でございます!」
最初は私への心象を良くするためにアピールさせてるのかと思ったけど、どうやら彼女は本心から言っているらしい。メイド娘のうっとりした顔からアンジェリーナはそう判断した。
彼の性格がいいのは今までの付き合いで分かっていたことだが、どうやらそれは作ったものではないと分かって何故かホッとする。少なくともストーン侯爵のように権力を傘に着て傍若無人な振る舞いをするような男でないのは評価点だ。
「ここってさ、訓練場とかある?」
「あ、はい。中庭から裏庭に抜ける通路がございまして、ここから向かうにはそちらをお通りになるのが近いかと存じます。表の方からでしたら厩舎の前からも行けますけど」
「ん、分かった。ありがとう」
アンジェリーナはそう言ってメイドと別れた。どうやら彼女は最後までご主人様の本名のヒントを洩らしてしまったことに気付かなかったようだ。
教えられた通りに中庭へ出て、そこから裏庭へと回る。少し行くと城壁に囲われた何もない広い敷地に出た。どうやら訓練時間ではないようで、そこには誰もいなかった。
チッ。上手く行けばアイツが部隊と一緒に訓練してるかと思ったけど、そうは問屋が卸さないか。
誰もいないなら用はないので、再び建物内に戻る。外へ出てみて分かったが、花季だというのに随分と肌寒い。そういうところも彼女の中でこの城の位置把握の確証のひとつになった。
そう言えば厨房では岩芋の皮むきがやけに多かったな。それに麦酒の匂いが強かった。
うん。間違いないね!ブロイス北部の古都ハノヴェルね!そしてここはブロイス皇族の離宮として名の知れたハノヴェル城!
いやーそっかぁ、私とんでもないお方に目をつけられたもんだわ…。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夜、与えられた自室で静かにお茶を飲みながら過ごしていると、慣れた気配が部屋の隅からかすかに漂ってくる。
来るかな、と思って人を遠ざけておいて良かった。
「いいわよ、出てらっしゃい」
私がかけた声に応じて姿を現したのは、案の定オーロラだった。
「よく忍び込めたわね、ここブロイス皇族のお城なのに」
「さすがに造作もなく、とは参りませんが、お嬢様のおわす所には万難を排して参上する所存でございます」
「さっすが私のオーロラ。頼りになるわ」
私が笑顔になって、それを受けて彼女もかすかに微笑む。
んーまだ笑顔が硬いなあ。まあ無理もないか、去年まで奴隷だったんだし。
「しかしさすがお嬢様。もう下調べはお済みでしたか」
「まあね。城内は自由に歩けたから、手掛かりなんていくらでも手に入ったし」
厩舎の馬車や脚竜車の車体に見えた家紋、厨房から見える食生活の様子、無駄なものが一切ない訓練場。使用人たちはみなブロイス公用語の北部ゲール語を話していて、北部特有の寒冷な気候、そして何より主であるマインが殿下と呼ばれている事実。さらには彼が皇族の離宮を我が物のように使っているという現実。
それだけ揃えば、そしてブロイス貴族が把握できていれば誰でも分かる。
マインラート・フォン・フォーエンツェルン・ブロイス。それが彼の本名だ。ブロイス帝国の先代皇帝フリードリヒ四世の第三皇子にして現皇帝ヴィルヘルム三世の従弟、いわゆる「皇弟」として皇位継承権を持つれっきとした皇族だ。
そして〈賢者の学院〉669年度“力の塔”の卒塔生。席次は確か15席だったかな。つまり先輩だ。
私の入塔の前年卒だから、私が見たことがなくて当然だった。もっと歳が近いかと思ってたけど4歳差だったのね。
「それでお嬢様、いかがなさいますか?」
「そうねぇ…」
正直な話、オーロラがいれば逃げ出すのは簡単だ。仕込んだ私が言うのもなんだけど、体術にかけてはこの子は私より強いから。
でも、ただ逃げただけでは彼はきっと諦めないだろう。やるなら徹底的に、これはもう無理だと思わせないと逃げ切れない。
でもそれはそれとして、このまま彼の妻になるのもアリと言えばアリ。だってそうすればブロイスの内情は私を通してダイアナ陛下に筒抜けになるわけだし、陛下のことだからきっとそれを望んでるような気もするし。
ただまあ、ね。
なんというか、ね。
「しばらくは様子見ですか」
「う〜ん、まだちょっと決めかねてるわ」
「畏まりました。ではオーロラは引き続きお傍におりますゆえ」
「うん。私が仕掛けるときは合図するわ」
「御意。お心のままに」
オーロラはそう言って、現れた時と同じく音もなく消えた。
本当に、何回見てもどうやってるのかサッパリ分からん。東方由来の“シノビ”の技だってのは分かるんだけど……………今度教えてもらおうかなあ?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝。
朝食を取るために朝食室へ出向くと、食卓にはなぜかマインの姿が。
「あら、どういう風の吹き回し?顔見せるなって伝えてもらったはずだけど?」
朝っぱらから嫌なもんを見たとばかりに嫌味を言ってやると、彼の態度が若干おかしい。
「その、なんだ…………おはよう」
いや朝の挨拶は大事だけどさあ!それ以前になんか言うことあるでしょ!?
「おはよう。…………じゃ、おやすみ」
「ま、待て!」
顔も見たくないと言った手前、自室に戻ろうと踵を返すと途端に慌てたような彼の声。焦りに満ちたその声が少々意外で、思わず足を止めてしまった。
「その、怒っているのか………?」
疑問形なのアウトだぞマインくん。
「どう解釈したら怒ってないと思えるのかしらね?」
まあきっと、今まで思い通りにならなかった女なんていなかったんでしょうけどね!
「その、済まない。まさか怒るとは思わなくてだな」
「貴方さあ、助けに来てくれた時の私の状態、正確に説明できる?」
振り返らずに問いかけだけを投げる。
初級問題、点数は5点だぞ。
「あの時は………お前が望まぬ婚約をさせられそうになっていた、か?」
また疑問形だからマイナス2点ね。
「有り体に言って拉致されかけてた、ってところね。
で?そのあと君は私に何してくれたのかなあ?」
「……………………。」
おいサービス問題だぞ!?解けなくてどうする!?
なんだコイツ、意外とポンコツなの!?
しばらくイライラしながら答えを待っててやると、ようやくポツリと呟く声が聞こえた。
「まさか、私もお前を拉致したことに………なる、のか?」
「なんで疑問形ばっかなのよ!?拉致そのものでしょうが!」
我慢しきれなくなって振り返り、言葉を投げつける。
助けたフリして実はストーン侯爵と全く同じことをしでかしてただけだって、なんで分かんないの!?
だってアルヴァイオンの海岸からブロイスの北岸まで、船で少なくとも3日はかかるのだ。私は船内で一度しか寝ていないから、丸2日以上眠らされていたことになる。おそらく食事に盛られていたのだろう。
行き先を知られたくなかったのだろうが、それにしたってふざけた話だ。手酷い裏切り以外の何物でもない。
私の剣幕に驚いたのか、彼はひどく気まずそうな顔をして、俯いてしまった。
「その、済まない。喜ぶとばかり思っていたものでな…」
「ずいぶんおめでたい頭してるのね、貴方。少なくとも『冒険者のマイン』は頭のキレる奴だと思ってたんだけど?」
「私の何が悪かったのか教えてもらえないだろうか。改善できるものなら何でも改める。だから機嫌を直してはくれないか?」
「…………それを私に聞いてる時点で0点だよ」
「だ、ダメなのか?」
「ダメに決まってるじゃない!そもそもアンタの中で私はどういう位置づけだったのよ!?」
みるみる彼の顔が驚愕に歪む。
え、なに?まさかそこからなの!?
ふと視線を感じて周りに目を向けると、給仕のために待機していたメイドたちがハラハラするやら狼狽えるやら。これはアレか。皇子さまが見初めて連れてきた婚約者だって話だったのに、予想外に聞いてた話と違うんでアワ食ってるパターンだな。
「だいたいさあ、私がアンタに惚れてるとでも思ってたの!?今までそんなやり取りした憶えもないんだけど!?」
だからハッキリ言ってやる。そんな要素は1ミリもなかったぞ!
……………いや1ミリはあったな。なんなら絶対もっとあった。ぶっちゃけこのまま流されて彼の妻になってもいいかとさえちょこっと考えてるし。
でも声に出して貴方とそういう話したことは無いはずよね!?
彼の顔が驚愕から絶望に変わる。
この端正な顔がコロコロと百面相するの、意外とオモロイな。今までこんな狼狽えた姿も見たことなかったし、ちょっとなんか楽しい、っていうか意外とカワイイかも。
まあでも、それで絆されたら何が悪かったのか彼は気付けないままになるし、ここは心を鬼の一択だ。
「マインラート・フォン・フォーエンツェルン・ブロイス皇弟殿下」
スッと心を鎮めて、表情を消して背筋を伸ばし、伯爵家令嬢としての矜持をできる限り全面に押し出して外見を作ってから呼びかけた。それもわざわざゲール語で呼びかけてやったぞ。
フルネームで正確に呼びかけられたことに彼はまず驚愕し、次いでキョロキョロと周囲を見渡す。居並ぶメイドや使用人たちが一斉に首をブンブン左右に振って(言ってません)(明かしてません)(ちゃんと隠してました本当です!)と目で訴えるのを見て混乱している。
「隠す気がおありなのでしたら、せめて隠蔽は完璧になさいますよう。わたくしを軟禁せず、このハノヴェル城内を自由に出歩かせて下さったご厚情には感謝申し上げますが、それならそれで最後まで隠し通して頂きとうございましたわ」
「な……、どこでバレた!?」
「どこでも何も。使用人たちはゲール語で会話し、花季だというのに肌寒い。厨房ではハノヴェル特産の岩芋や麦酒が大量に準備され、厩舎を覗けば車体にははっきりと家紋が刻まれているではありませんか。そしてハノヴェル城を現在お使いなのは皇弟殿下、貴方です。
その程度、国際情勢が一通り頭に入っていれば誰でも分かることです。わたくしをグロウスター伯爵家の者と知った上でそれに気付かないとでもお思いなのでしたら、大層侮られたものですわ」
グロウスター伯爵家は昔から海運と貿易で立身してきた家系である。地理関係はもちろんのこと、各国の特産や輸出入、政情など関係情報は当然押さえてある。そしてアンジェリーナはそこに生まれた娘として、当然のごとく教育されて頭に叩き込んでいた。
つまりマインは、彼女を貴族の務めも果たさずに冒険者などやっている放蕩娘だと侮ったも同然なのだ。
「いや、そのようなつもりは…」
「無いとでも?そのほうが問題だとご理解なさっておられませんの?」
そう、無自覚な方がなお悪いのだ。
そして無自覚に盛大にやらかしたのだと、彼には自覚して反省してもらわねばならない。全てはそれからなのだ。
だからアンジェリーナは逃げなかったのだ。オーロラとともに逃げ去って縁を切っても良かったのだが、どうせなら彼には気付いて欲しかった。きちんと気付いた上で、さらに一段と男を上げて欲しいと、そう願ってしまったのだ。
これだけのハイスペックイケメンなのだから、どうせならパーフェクトヒューマンを目指して欲しい。そうすれば彼に影響を与えた女として、この先一生自慢できるだろう。
マインラートは顔を歪めて、俯いたまま黙ってしまった。それ以上何も言い返せないと悟ったのだろう。
「だから申し上げたのですよ。まずはきちんと口説いてからになさいませ、と」
入り口の方から声がして、アンジェリーナが振り返るとオスカーが顔を覗かせていた。「外まで声が響いておりましたよ」と言いながら彼は室内に入ってくる。
「もしくは最初から身分を明かして、正式に婚約を申し込むべきでした。下手にサプライズなど仕掛けようとするからこうなるのですよ殿下」
「オスカー………」
あ、オスカーさんは本名なんだ?
私の記憶にないから、下級貴族か平民の出かな?
「とにかく、こうなってはお披露目は延期ですな。夜会自体はもう開かないわけには参りませんが、アンジェリーナ様のお披露目とするわけには参りますまい」
「まあ、そうですわね。お受けしてもおりませんのに、既成事実だけ作られるのも困ります」
既成事実、という言葉に彼が反応する。
まるで、そんなつもりは無かったのだとでも言いたげに。
だから無自覚なのがダメだっつってんのに、まだ分かんないかなあ?
「ならば、ならばどうすれば良いのだ?そなたは何をすれば私に靡いてくれるのだ」
「ご自身でお考え下さいませ。婚約を望んでいるのはわたくしではなく、貴方様でしょう?」
そこまで言って、今度こそ私は朝食室を後にした。食べ損ねた朝食は、あとで自室に持ってきてもらおうっと。