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普通が怖かった

作者: 廃村の管理人



     1



 受け取ったメールを見て、数年前のその言葉を思い出していた。

「私は、三浦くんくらい普通な方がよかったな」

 高校生の頃、唯一の友人だった仙石(せんごく)理光(りこう)がそんな皮肉をぶつけてきたことがあった。いや、本人は心の底からそう思っていたのだろうが、当時の俺からしたら煽り以外の何物でもなかった。何でも人一倍の能力を持った彼女が、何もかも平凡、その上普通であることを恐れている自己矛盾の権化のような俺に対してそんなことを言うんだから、尚更だ。俺が理光のようになりたいと望んでいることを知った上で当て付けられているのかと思っていた。

 返信もせずにスマートフォンの電源を切ると、唯一の光源を失った部屋が深海のように黒くなった。

 俺はまだまだ沈み続けているのかもしれない。深度に比例して大きくなる社会の目という水圧に、いつか俺は潰されるのかもしれない。それよりも先に、この恐怖症を克服できるのだろうか。少し考えてから、無理だな、と鼻で笑う。

 普通が怖い。だけど、そこから飛び出す勇気も持ち合わせていない。だから俺は、今も暗い部屋で一人閉じこもっている。

 眠くはなかったけど布団に包まった。そして、頭の中で理光に問いかける。


 これが本当に、お前の望んだ姿なのか?



     2



 日曜の夜、ましてや個人経営の小さな居酒屋だからか店内は空いていて、おかげで待ち合わせている友人を血眼になって探す必要もなかった。呼び出した俺よりも早く、有働(うどう)はカウンター席に座っていた。一人で先に飲んでいたらしく、泡だけが付いたジョッキとタレだけを纏った竹串が机上に乗っている。挨拶もせず隣に座ると、彼はゆっくりと視線を動かし、そして目を丸くした。

「お前、仕事始めたのか?」

 スーツ姿の俺を見て、有働は常識が崩壊したかのような表情で訊ねた。それは正しい反応だ。今の格好で十人の知り合いと会ったならば、十人ともが同じ反応をしていたことだろう。俺にはそんなに知り合いがいないので、実際に割合を算出できないのが残念なところだ。

「まさか」

 俺は即座に否定してから、カウンター内で作業をしている店員に口頭で注文を伝えた。

「じゃあ何でスーツ着てんだよ」

「見栄だよ、見栄」

 有働はくくくと笑った。



 大学に入学して最初の学科ガイダンスで、俺は有働と出会った。気取った言い方をすれば『運命の出会い』と形容できないこともないが、実際は落ちるところまで落ちた人間同士が最下層で合流したというだけの話だ。

 学科長を名乗る滑舌の悪い中老の教授が、教壇に立って聞き取れない呪文を吐き散らかしていた。断片的に聞き取れた単語から察するに、授業の評価基準とか、必修科目の説明とか、研究室配属の話とか、そんなところだろう。配られたプリントを見ればわかることを回っていない舌で永遠と語られるものだから、他の新入生もうんざりしていた。それでもほとんどの学生が重い瞼に鞭打って必死に聞いているふりをしていたのは、これから新しい環境が始まるというところで悪目立ちしてしまうのを嫌ってのことだろう。誰もが必死になって、自分は真面目で普通な人間ですよとアピールしていた。

 人並みであることがそんなに美徳なのだろうか?

 この場にいる全員が大量生産されたロボットのように見えて恐怖と嫌悪を感じたが、しかし自分もその中に含まれている事実を覆せず、早く終わってくれと心の中でひたすら唱えた。

 寝る、携帯を弄る、そもそも欠席する。そんなことをしてしまっては、我々ロボット内の規律を脅かすバグとして扱われ、排除の対象となってしまう。そう考えていた。

 そんな中で有働は、前から二列目の真ん中という目に入りやすい席に座っていたにも関わらず、突如荷物を持って立ち上がり、かったるそうに教室を出て行ったのだ。その動作があまりに自然なものだから、刹那その行為に疑問を持つことすらできなかった。教室の誰もが、まるで視界の隅を飛ぶ小鳥に目を引かれるように一瞬だけ視線を動かしたが、すぐに何事もなかったかのように手元の資料に目を落とした。教授も教室から出ていく有働を視線で追っていたものの、しかし何も言及しなかった。

 彼が教室から出て行って、五秒くらい経っただろうか。周りも教授も、何も見てないですよと言ったようにガイダンスを続けていたが、俺の中には彼への好奇心がふつふつと湧き出していた。あの空気の中で席を立てるなんて只者じゃない。俺の中にある普通じゃないものセンサーが反応した。

 最後列に座っていたことが幸いした。俺は机上に散らばっていたプリントや筆箱を慌てて仕舞い、音を立てないように後ろの扉をゆっくりと開いて、この場から逃げ出した。彼とは違い、教授の目を盗んで、こそこそと。

 小走りで一階まで降りると、中途半端な時間で人気(ひとけ)の無いエントランスに、今まさに自動扉を潜ろうとしている彼がいた。

「何で途中で出たの?」

 キャンパスを出てすぐのところで追いついた。わずかに息が上がっている俺を、彼は訝しげな目で品定めするように眺めた。

「飽きたから」

 彼は躊躇いもなくそう言った。直感的に、自分と似た匂いを感じた。その上で、俺にはない、普通を突き破る行動力を持っている。そう思った。

 ガイダンスに戻るよう説得しに来たとでも勘違いしていたのか、俺もあの演説に嫌気がさして逃げ出してきた旨を話して昼食に誘うと、彼は相合を崩して快諾してくれた。駅前のファミリーレストランに入って軽食を取り、その後はドリンクバーという免罪符を掲げて長らく居座り言葉を交わした。軽い自己紹介から始まり、普段の生活、好きな本、ガイダンスの文句など。話しているうちに、先ほど感じた直感は間違っていなかったと確信していった。

 有働も俺と同じように、レールに沿って歩くことを嫌っていた。大学に入ったのはモラトリアム期間の延長でしかなく、無限ループのような毎日を過ごすサラリーマンになるくらいなら無職でいたほうがマシ。だから結婚はおろか、恋人すら無用。興味を引くものがあれば本能の赴くままに近づき、興味のないものは義務だろうと遠ざかり、放浪者のようにそこかしこを揺蕩う。今は、世界から選ばれた時のために力を蓄えているのだと自分に言い聞かせ、周りよりも一段上から達観してその時が来るのを待っている。

 俺は勝手に親近感を覚えた。ありきたりな日常は身を滅ぼす毒となり、予想も出来ない非日常こそが心身の渇きを癒す御馳走である。それが俺たちの共通認識で間違いないと思っていた。

 しかし、彼はせいぜいサボり癖の延長線上にいるというだけの話だった。頻繁に授業を欠席したのも、よく寝坊をしたのも、そのせいで単位が足りずに留年したのも、ただ全てが面倒だったというだけで、決して俺のように普通でいることが怖かったわけではなかった。波に揺られていたのは本人の意思ではなく、流された先に普通が待っていたとしても、彼は甘んじてそれを受け入れた。

 同期や教授に流されるがままに就職したIT企業を、なんだかんだで一年間続けているのが何よりの証拠だ。


 

 若い女性の店員が、先ほど注文したビールと焼き鳥を持ってきてくれた。バンダナから覗く綺麗な金髪にしばし目を奪われたが、彼女はすぐにカウンターの奥へと引っ込んでしまった。

「お前が普通嫌いを克服してたら、俺の奢りで祝わないといけないところだったな」

「そんなことは呼吸が止まるか心臓が固まるか死ぬまで訪れないから安心してくれ」

 乾杯もせずにジョッキを口に運んだ。働いていないから金に余裕があるはずもなく、アルコールを摂取するのは久しぶりだった。

「それで、有働は最近どうだよ?」

「どうってなんだよ」

「仕事だよ。続けてんだろ?」

「一応な」ビールを飲んでから、吐き捨てるように言った。「辞められるもんなら辞めてえけど」

 俺たちは閉店時間まで居座り、あの日ファミリーレストランでそうしたように、腹の底に溜まっていた不平不満をひたすらぶちまけた。あの日と違ったのは、有働の溢す愚痴が以前に比べて現実的なものになっていることだ。職場の話だったり、恋人の話だったり、将来の話だったり。

 その行動力を尊敬していたかつての友人は、見事に犬に成り果てていた。顔からも覇気が消え、以前に比べてずいぶんと小さく見えた。

 店員から閉店時間であることを告げられ、俺たちは店を後にした。飲み足りないし、語り足りない。それは有働にとっても同じだったらしく、俺たちはコンビニで缶ビールを買ってふらふらと夜道を飲み歩いた。

 道路沿いに等間隔で植えられた桜が、街灯に照らされて道標のように淡く輝いている。それに誘われる虫のように、俺たちはその並木を辿った。

 実際、美しい物なのだろう。街中で百人捕まえてきたら、九十八人くらいは美しいと言うのだろう。それでも、俺は桜が嫌いだだった。桜に限った話ではないが、無条件で美しいものは、見ていてとても不安になる。

 美醜賢愚善悪等々、相対するものを全て均せばプラスマイナスゼロに収束するという信条を持っている俺にとっては、美しい桜のツケをどこかの誰かが払わされているのではないかというありもしない裏を勝手に探り同情してしまうのだ。その被害を被っているのが花であるとは限らない。名前もない雑草かもしれないし、深海生物かもしれないし、俺かもしれない。そう考えると、どうしても他人事には思えなかった。せめて自己完結のために、下に死体でも埋まっていてほしいものだ。

 そんな俺とは対照的に、有働は頻繁に立ち止まり、恍惚とした表情で夜桜を見上げていた。俺はその数歩先をゆっくり歩きながら、真っ黒な影に視線を落としていた。

 あてもなくふらふら歩いているうちに、とある公園に流れ着いた。ジャングルジムにブランコ、小さいながらガゼボも設置されており、中々広い。しかし電灯は寿命が迫っていることを知らせようと必死に明滅していて、数匹の蛾がその光を頼りに集会を開いていた。廃れた遊園地のような不気味さが漂っている。

 どちらからともなく入っていき、動物を模した薄気味悪いオブジェに腰掛け、新しい缶を開けながら話を続けた。

「お前、いつまでそのままでいるつもりだ?」

「さっきも言ったろ。死ぬまでこのままだよ」

 質問を投げた有働の顔を見て、俺を咎めようとしているわけでも、馬鹿にしようとしているわけでもないことは伝わった。多分こいつは、身近なネタがいつまで生きているか気になったのだろう。俺がそう答えると、有働はまたくくくと笑った。

「そりゃいいや。呼べばとりあえず来れる人間がいるってのは、色々便利だからな」

「活動時間が真逆だから、起きてるかわからないけどな。それに、しょっちゅう呑みに行けるほど俺の懐は暖かくないんだ」

 それから一時間くらい駄弁っていただろうか。酒を切らした有働が買い足すべくコンビニへ走り、突如俺は一人になった。有働の大きな声を失った空間には、先ほどまで有働の声によって掻き消されていた小さな音があちらこちらから聞こえた。名前の知らない虫がどこかで鳴いている。そよ風が草木を揺らしている。隣家のテレビから聞いたことのある芸能人の声が漏れている。

 空を仰ぐと、白く大きな月が悠然と浮かんでいた。桜と違い、いくら手を伸ばしても、背伸びをしても届かない。このもどかしさ、やり切れなさが、俺は好きだった。いっそ俺もそっち側に連れていってくれないかな。月が俺の手を引いてくれることを期待して、黒い空に手を伸ばす。

『お前、いつまでそのままでいるつもりだ?』

 その言葉が、頭の奥からふわりと浮上してきた。頭の中の有働がもう一度訊いてきたのかもしれないし、深層心理からの自問なのかもしれないし、もしかしたら、毎晩俺の体たらくを見せられている月が痺れを切らして訊ねてきたのかもしれない。

 焦っている自分がいることは自覚している。でも、怖いものは怖い。過去の嫌な記憶がふつふつと湧き出し、頭を陰鬱な色で塗りつぶしていく。俺はどうするのが正解なんだろう。

 沈んでいく俺の意識を引っ張り上げたのは、砂利を踏み締める足音だった。やっと帰ってきたのか。そう思って振り向いた先に、しかし有働はいなかった。その代わりに、深夜の公園にはそぐわない、長袖のスクールシャツにチェックのスカートという制服に身を包んだ金髪の少女が、驚いたようにこちらを見ていた。

 寂れた公園に酔っ払いというこの世の最底辺のような世界が、一人の少女が迷い込んだことによって、ある種異世界のような浮世離れした雰囲気を纏った。何もかもが場違いに感じるその空気が気に入って、俺は視線が重なっていることも忘れてその空間を堪能していた。

「あ、もしかして、さっきうちに来てくれていたお客さんですか?」

 先に口を開いた少女は何か合点がいったようで、ぽんと手を叩いて笑顔を浮かべた。それに釣られるようにして、俺も既視感の正体を理解した。

「ああ、店員さん。さっきはどうも」

「呑み足りなかったんですか? ふふっ」

 そう言いながら歩き出し、さっきまで有働が座っていたウサギのオブジェに腰掛けた。

 居酒屋での少女は、金髪を適度に隠すバンダナと落ち着いたデザインのエプロンの効果で幾分か大人びて見えたが、現在隣に座っている少女は、なるほど服装に見合ったやんちゃな女子高生という印象を受ける。

 では、そんな高校生がこの時間の公園になんの用だろうか? まさか、帰り道で俺を見かけたから寄った、なんてことはあるまい。

 少女は足をぱたぱた動かしながら、何をするともなく月を眺めていた。月光に照らされた少女の横顔が、ほのかに青白く光っている。

 心地の良い沈黙は、またしても何者かが砂を踏み締める音で遮られた。

「おいおい三浦……変わった奴だとは思ってたけど、まさか高校生に手を出すとはな……」

「変な勘違いはやめてくれ」

 後ろでくすくす笑う声が聞こえた。有働はビニール袋から缶チューハイを取り出し、プルタブを引きながら、今度はライオンのオブジェに腰掛けた。

「なんだ、さっきの店員さんじゃないか。キミも呑む?」

 そう言って有働は度数の低い酒を差し出した。

「未成年だぞ。ダメだろ」

「知らないのか? 夜ってのは法の拘束力がなくなる時間帯のことを指すんだぞ」

「何言ってんだ」

 しかし少女はけろりとした様子で、有働が差し出した酒を礼を言って受け取った。「バレなきゃ犯罪じゃないんですよ」微かに嗤ってそう言った。

 俺は諦めて(ぬる)くなったビールを一気に喉へ流し込み、冷えた新しいものをビニール袋から勝手に取り出した。

 人と人とを隔てる壁が、アルコールによって壊れやすくなるという噂は聞いたことがある。生憎有働以外と杯を交わす機会がないため真偽は不明だが、仮にそれを事実として加味しても、この空間はあまりに異様じゃないだろうか。

 現状に疑問を抱いているのは俺だけなのか? 自棄(やけ)に近い高揚感が湧いてきた。

「ところで、キミはこんな時間に、こんなところで何してるのさ?」

 有働が訊ねると、少女は気まずそうにはにかんだ。

「ここが私の家ですから」

 思わず有働と顔を見合わせてから、その言葉がどういう意味を孕んでいるのか模索した。真っ先に思い浮かんだのが、この公園はこの少女の家族が所有権を持っているということ。しかし、一個人が持つにしては広すぎるし、何より近くに公園を所持していそうな雰囲気を漂わせた豪邸は建っていない。となると……

「ええ⁉︎ なんで泣いてるんですか⁉︎」

 突如涙を流した俺を見て、少女は引き気味に驚いた。

「いや、苦労してきたんだなあと思ってさ……その歳で浮浪者なんて」

「違います! そういう意味じゃないです!」

 必死に弁明する少女曰く、こういうことらしい。親が海外出張でしばらく家を空けることになったのだが、その日に限って彼女は鍵を忘れて学校に行ってしまった。夕方帰ってきた時には既に親は出張先に到着しており、締め出されてしまったのだ。窓を割るとか電話をするとか色々考えたらしいが、親に迷惑をかけたくないことと、以前から野宿というものに興味があったらしく、このような選択肢を選んだらしい。前者は見上げた親孝行精神だと感心するが、後者の意味はちょっとわからない。

「お風呂は女将さんに貸してもらっているので、なんとかなりそうな気がします」

 そうは言っても、年頃の少女が制服のまま屋外で寝るというのは、やはり危険だろう。春には変質者も増えるというし。もしかしたら、世間から見れば俺たちもその類にカテゴライズされてしまうのかもしれないが。

 想像の斜め上をいく現状に言葉を失っている俺の代わりに、明らかに酔いが回り始めている有働がへらへらと口を開いた。

「じゃあこいつの家に居候でもすれば?」

 有働が指差すその先には、脳が理解を辞めて固まったままの俺がいる。有働が言った言葉の意味を、俺は働いていない脳に鞭を打って必死に考えた。

 居候。誰が? 多分、少女だ。じゃあ、誰の家に? 有働は何故か俺を指差している。なるほど。

「お前はなにを言っているんだ?」

「なにって、割と名案だと思ったんだけどな」

 赤ら顔でへらへらしているが、確かに目の奥には、有働が真面目な話をする時特有の眼光のようなものが窺えた。酔っ払った状態でこの目ができることも、この意見を大真面目に言っていることも、平凡な俺には何もかも理解が追いつかない。

「いくら切羽詰ってるとはいえ、見ず知らずの男の家に泊まろうとする女の子がどこにいるんだよ」

 言い合う俺と有働の間に割って入った少女が、おどおどした様子で訊ねた。

「泊めてもらえるんですか?」

 見ず知らずの男の家に泊まろうとする女の子は、どうやらここにいるらしい。

「本気か? 友達の家じゃだめなのか?」

「友達の家は、ほら、ご両親がいるから迷惑になっちゃうかなって。あ、いや、あなたになら迷惑かけていいとかそういうわけではなくてですね」

 あまりに焦って弁解するのが面白くて、つい口元が緩んでしまう。それを見てもう一押しだと思ったのか、少女はさらに自分を売り込んできた。

「こう見えて家事は得意なので任せてください。それに、もちろん言う事は聞きますよ。お使いだって行きますし、お兄さんが一人になりたい時は外で時間を潰してきますし、襲われたって文句は言いません。どうですか? 優良物件ですよ」

 得意気な顔の少女と泥々にニヤけている有働がこちらに熱い視線を送ってくる。

「わかったわかった。とりあえず今日一日泊まって頭を冷やすといい。明日またよく考えて、それでも泊まりたいのなら、俺は構わない」

 昔からそうだが、押しに弱いと言うのは損だと思う。しかし内心で、このまま流れに身を任せたらどこに辿り着くのか、気になっている自分もいる。この非現実感が、変化がなくつまらない日常のスパイスになったのだ。

 兎にも角にも、こうして俺は名前も知らない少女を拾った。



     3



 旅先で目を覚ました時、普段とは違う寝起きの景色に「ここはどこだ?」と動揺することがある。少しして脳が活動を始めると、旅行に来ていたことを思い出して納得する。これについて新発見があったので記録しておくと、これは旅先でなくても発生するようだ。

 目が覚めて最初に視界に飛び込んできたものは、いつもの汚れた天井ではなく、堆く積まれた本の山だった。それに加えて体の節々が痛んだ。耐性を失っていたアルコールの仕業かと思っていたが、どうやらそういうわけではないらしい。座布団を丸めて申し訳程度の枕を作っているものの、手足は硬いフローリングに直接乗っかっていた。

 伸びをしようと上体を起こした時、しかしここは明らかに俺の部屋だった。

 ベッドから落ちたのか?

 酔い潰れたのか?

 昨晩の記憶を掘り起こそうと動かした視線の先、ベッドの上ですやすやと気持ちよさそうに寝ている少女を見て、頭にかかっていた靄がきれいさっぱり吹き飛んだ。

 ああ、あれは夢じゃなかったんだなあ。他人事のようにそう思った。

 大きく伸びをする。凝り固まった身体がパキパキと小気味の良い音を立ててほぐれていき、思わず小さく声が漏れた。その声に反応するかのように、少女もまた小さな声を出して寝返りを打った。

 きっと連日の野宿で疲労が溜まっていたのだろう。もう少し寝かしてあげた方がいいかもしれない。シャワーを後回しにし、山積みになった本の一番上を手に取ってパラパラとページを捲った。

 俺が生きる上で、小説というものは必要不可欠だ。自分では体験できない特殊な世界を間接的に経験することができる。現実の世界に足りない『俺のための要素』を、文字を通して別の世界から供給してくれる。いつから本を読むようになったか定かではないが、今では依存症と言っても差し支えない段階まで来ている。

 ただ、この気分転換には大きな欠点がある。俺の求める世界を一時的に経験した後に現実を見直すと、以前よりもより味気なく感じてしまう。新しい世界を旅すればするほど、現実は歩く価値がないように思えてしまう。卵が先か鶏が先か、この習慣のせいでこの世界に馴染めなくなってしまった可能性も否めない。

 百ページほど読み進めたところで、別の世界に没頭していた意識が引き戻された。

「おはようございます」

 顔を上げると、目の前に少女の顔があった。

「おはよう。もう昼だけどね」

「あはは。お昼ごはん作りましょうか?」

「その提案はとても魅力的だけど、生憎冷蔵庫の中にはなにも入っていないんだ」

 少女は「まさかー」と言いながら廊下に置いてある冷蔵庫を開き、そして絶句していた。

「なんですか? これ。ただの冷たい箱じゃないですか」

「今はコンセントを入れてないから、常温の箱かな」

「いつもご飯はどうしてるんですか?」

「近くのファストフード店をローテーションしてるよ」

「ちゃんとした物食べないとダメですよ。そうだ、今からお買い物に行きましょう。ついでに私の部屋着も買いたいので」

「部屋着……?」

 どうやらしばらくここに滞在する前提らしい。

「制服は少し堅苦しくて」

「いや、当たり前のように連泊が決まっていて虚を衝かれた」

「あ、やっぱり出て行った方がいいですか?」

「ここから出ても行く当てがあるわけではないんだろ?」

「はい……」

「だったら、何かしら策を思いつくか、親御さんが帰ってくるまでここにいるといい。俺は別に居座られても困らない。多分」

 なにが悲しくてこんなつまらない人間の家に泊まりたがるのかはわからなかった。きっと雨風さえ凌げれば誰でもよかったってことだろう。

 順番にシャワーを浴びてから、俺たちは近くのショッピングモールに向かった。

 ここに来れば大体の物は一通り揃うであろう雑貨屋、常に流行を取り入れた品揃えの良いアパレルショップ、決めあぐねてしまうほど多種多様なレストラン、映画館やボウリングといった娯楽施設が併設された大きなショッピングモールは、平日の昼間というだけあって人はまばらだった。常に人が多いという先入観であまり近寄らないようにしていたが、どうやらそれは、ここが持つ数多の表情のうちの一面に過ぎなかったらしい。この時間帯、社会人や学生は拘束されているということを失念していた。

 だったらフードコートで談笑している制服を着た三人の男子学生は何なのか気になるところではあるが、俺がそれを問い詰めることのできる人間でないことは理解しているので、見て見ぬふりをした。そして視線を戻した時、制服を着ている人間がすぐ近くにもいることに、今更ながら気がついた。

「そういえば、今日学校は?」

 少女の顔が凍りついた。昨晩の突飛な出来事で曜日感覚が壊れていたのか、面倒だからサボっていただけなのかはわからないが、まるで悪戯がバレた子供のように動揺していた。

「ま、まあ、たまにはいいんじゃないですか?」

「まあな。俺も働いてないし、咎めるつもりなんて毛頭ないよ」

 少女はホッとしたような表情を浮かべ、再び前を向いて歩き出した。

 制服の少女と成人男性が平日の昼間から行動を共にしているこの現状は、周りにはどのように映っているのだろうか。ふとそんなことが気になった。サボり癖のある兄妹くらいに思ってもらえれば上々だろうか。あらぬ誤解をされる可能性もあるのだから。

 初めは少女の服を買うためにアパレルショップへ向かった。店の外で待っているつもりだったが、腕を引っ張られて半ば強引に店の中に引き摺り込まれた。

 少女は流行のものにはあまり興味がないようで、入り口でマネキンに着せられた春物の新作には目もくれず、奥の棚に追いやられた無地のティーシャツやパーカーを物色し始めた。一つを手に取り、姿見の前でスクールシャツの上に重ね、首を傾げて元に戻す。時折こちらを見て「この色似合いますか?」などと聞いてきたが、正直俺には服の似合う似合わないがわからないし、基本的に部屋で使うのなら気にする必要はないのではないだろうかと思ってしまう。

 一方で、この束の間の小さな幸福を楽しんでいる自分がいるのも事実だ。というのも、俺は恋人や妻を持つことを敬遠しているくせに、特別な誰かと二人で出かけたいという幻想を抱いていた。所謂デートというやつだろうか。早朝の潮風を浴びながら砂浜を散歩したり、深夜のコンビニに軽食を買いに行ったり、こうしてショッピングモールをふらふら散策したり。小説の読み過ぎで頭がおかしくなった人だと笑われても文句は言えないが、一個人の理想を追求していくと、どうせ何かしらマニアックな要素が紛れ込んでいるものだ。そういうわけで俺は、少女が服を選んでいるのを遠目で眺めたり、時折少女が感想を求めてくるこの時間を、案外気に入っていた。

 結局少女は黒いティーシャツとパーカー一着ずつと、グレーのコットンパンツ二着を抱えてレジへと向かった。一足先に外で待っていると、すぐに大きな袋を提げた少女がやってきた。

「ちょっと別の着替えも買ってきたいので、お兄さんはどこかで時間を潰しておいてもらえませんか?」

「ああ、わかった」

「終わったら連絡するので、連絡先を教えてください」

 俺たちは携帯電話を取り出し、メッセージアプリの連絡先を交換した。友達一覧に『佐倉春香』という文字列が追加され、俺の友達とやらは両親を含め五人となった。一般的な意味での『友達』は一人としていないが。

 ぱたぱたと駆けていく少女を見送ってから、エスカレーターで一つ上の階に登った。こういう時に時間を潰す手段を、俺は本屋以外知らなかった。

 三階のおよそ半分を占めている広い本屋は、俺にとって夢の国のようなものだ。その境界線を跨ごうとした時、ポケットの携帯電話が震え出した。まさかもう用事が終わったのかと思いながら取り出した携帯電話の画面には、先ほど交換された連絡先ではなく、『有働祐輝』という不吉な四文字が表示されていた。平日の昼間から奴が電話を寄越すなんてことは滅多になく、思わず身構える。

「もしもし?」

「なあ三浦、今日見た面白い夢の話をしてやろうか」

 こいつは突然何を言っているんだと考えていた無言の間を、彼はどうやら肯定と捉えたらしく、揚々と話を続けた。

「公園でお前と呑んでたんだが、色々あってお前が女子高生を持ち帰るって夢だったんだ」

「へえ、奇遇だな。俺もその夢を見たような気がするよ」

「で、どうだ? その後は上手くやったか? 言質取ったもんな」

「馬鹿言え」

 有働は電話の向こうでしばらく笑っていたが、不意に黙りこくり、妙な間が生まれた。

「で、用件はそれだけか?」

 こいつがくだらない冗談を言うためだけに電話を寄越すなんてありえない。しかし中々本題に入ろうとしないことに痺れを切らして催促すると、有働は声のトーンを少しだけ下げて続けた。 

「言い出しっぺの俺が言えたもんじゃないが、一応気をつけるに越したことはないからな」

「何の話だ?」

「あの子だよ。ゲームでもあったろ、行き倒れてる奴を助けてやろうと話しかけたら実は山賊で戦闘になるってオチ」

「ああ、あったな。あれは強かった」

 これも有働なりの冗談かと思ったが、どうやら笑っているのは俺だけのようで、電話の向こうからは小さなノイズだけが聞こえていた。

「どうせお前の部屋に盗まれて困るものなんてないだろうが、あることないこと語って強請られる可能性だってある。少しでも何か不審な点があったら注意しておけよ。助けを乞うている人間の全員が善人だとは限らないんだからな」

「ご忠告どうも。だったら最初からあんな提案するなって話だけどな」

「それに関してはすまん。今度奢るよ」

「いや、冗談だよ。折角だからこの非日常を楽しむさ」

 それから少しだけ雑談を交わした後、有働の休憩が終わると同時に電話を切った。俺は声の聞こえなくなった携帯電話を見下ろしながら有働の話を頭の中で反芻し、そして笑い飛ばした。

 ドラマか何かの見過ぎじゃないのか? 俺が言える立場ではないが。


 しかし結果的に、有働の言うことはどこまでも正しかった。そして俺は、どこまでも浅はかだった。


 そんなことを当時の俺が知るわけもなく、携帯電話が鳴らした通知音と、佐倉春香からの「終わりました」というメッセージを受け取った俺は、踵を返して下の階に降りた。夢の国への入国はまた後日になった。

 先ほど別れたアパレルショップの前で再び合流し、さて次は食材を買いに行こうとしたところで俺たちの腹が小さく鳴ったので、先にフードコートで昼食を取ることにした。俺は気分に従いうどんを注文して一足先に席を取ったが、少女は決めあぐねているようで、五つある店のメニューを眺めてあっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。しばらくふらふらしていたが、不意にある店の前で足を止め、メニューの書かれた立て看板を穴が開くほど見つめていた。やがて恐る恐るといったように注文口へ足を運び、呼び出しベルを受け取ると口元を緩めてこちらにやってきた。

「お兄さん、ビビンバって料理知ってましたか?」

「ああ、もちろん」

「私初めて知りました! こんな美味しそうなものがあったんですね」

「この国の料理じゃないけどね」

 少女は足をぱたぱた振りながら「まだかなー」と呟いた。他の利用客がほとんどいなかったことが幸いし、程なくして俺が呼ばれ、そのすぐ後に少女が呼び出された。

 お盆を運んでいる時には既に輝いていた少女の目が、料理を口へ運ぶや否や、より一層眩しく輝いた。「ん〜‼︎」と言葉にならない悲鳴を漏らし、次々とスプーンを料理と口へ行き来させた。

 言ってしまえば高々フードコートの簡素な料理ではあるが、俺と違い普通を愛す人間がいるように、このような料理を楽しむことの出来る人間というのも一定数いるのだろう。それとも、俺の方が少数派なのだろうか。

「お兄さんも食べますか?」

 少女は山盛りに掬ったスプーンを笑顔でこちらに向けた。

「食べたことあるから味はわかるよ」

「一人で食べるご飯より二人で食べるご飯の方が美味しいんですよ」

 そう言ってずいと体を近づける。どうやら引く気はないらしい。やむなく口を開くと、スプーンが丁寧に運ばれてきた。

「どうですか?」

 いつもよりお腹が空いていたからだろうか、この店の品質や技術が上がったからだろうか、それとも本当に、にこにこしながら美味しそうに食べる少女が隣にいるからだろうか。以前食べたそれよりも、確かに美味しいと思ってしまった。

 お返しに一口あげたうどんも、少女は心底美味しそうに食べていた。その笑顔を見ていると、何か違和感のような澱が心の中に沈殿していることに気がついた。それは少女に向けられた違和感ではなく、自分が自身を理解出来ていないような、形容し難い不快感だった。しかしいくら自問自答しても、その正体は掴めない。答え探しは一旦後回しにし、いつもより一割増しで美味しいうどんを啜った。

 それから俺たちは、足並みを揃えて一階の食品売り場に向かった。カップ麺やエナジードリンクを買い物かごに放り込もうとする俺を少女が嗜め、代わりに俺の好きな料理を聞きながら、自炊のための材料を選んでいった。

 勝手に会計を済ませた少女に代金を渡そうとしたが、少女は「居候なんだからこれくらい当たり前です」と、断固としてそれを受け取らなかった。

 水色に染まった空に浮く白い太陽が陽気に辺りを照らしているが、四月にしては少々肌寒い。俺はたまたま視界の隅に映ったのぼり旗と香ばしい匂いに誘われ、エントランスの入り口前に陣取っていた移動販売車で鯛焼きを二つ購入した。今度は俺が少女からの支払いを拒否し、渋々承諾してくれた少女と並んで鯛焼きを囓りながら帰路についた。焼きたてのそれがじんわりと体を温めていった。

 部屋に戻ると、キッチンから聞こえるトントンと小気味の良い包丁の音をBGMに読書に耽っていた。廊下では買ってきたばかりの服に身を包んだ少女が、鼻歌混じりに夜ご飯の支度をしている。暗い引き出しの奥でずっと眠っていたキッチン用品たちも、久しぶりの出番にさぞ心躍っていることだろう。

 次第にこの部屋には馴染みのない良い香りが漂い始めた。この部屋にもこんな一面があったんだなと感心する。そのうち匂いに気を取られ、手元の文字が頭に入ってこなくなったあたりで本を閉じた。

「もう少しでできますよ」

 少女は廊下からひょっこりと顔を出して言った。

 待ちきれずに様子を見にいくと、この香りの元凶が火にかけられた鍋の中でふつふつと湯気を吐き出していた。醤油ベースの出汁と、それが染み込み程よく色のついたじゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉にしらたき。一目見ただけで涎が湧き出たのがわかる。今すぐにがっつきたい衝動を理性で何とか押さえつけて傍観に徹した。

「それにしても意外でしたよ。あれだけ退廃的な食生活をしてたのに、食べたいものを聞いたら肉じゃがって返ってくるんですもん。ハンバーガーとかフライドチキンみたいに、もっとジャンキーなものを要求されるかと思ってました」

「普段あれだけ粗末なものを食べているからこそ、こういう時には人の温かみが篭った優しい手料理を食べたくなるもんだ。普段手に入らないものが手に入る機会は逃したくないだろ?」

 少女は納得した様子で「確かに」と言って微笑んだ。

 食器や箸は二人分あるものの、それらを置く肝心の机がこの家にはなかった。以前もそうしたように、引越しで使った段ボールを二つ組み立て、その上にタオルを敷いてその場しのぎの机とした。そこに少女が作った料理が運び込まれる。この家でコンビニ弁当以外の食料を見るのは久しぶりだ。

 いただきますを言ってから、恐る恐る口へ運ぶ。味について心配する必要がないことは、香りを嗅げばすぐにわかることだ。俺が恐れていたのは、舌がこの味を理解できないほど馬鹿になっているという可能性だ。しかしそんな心配は、口に入れた途端にふわりと広がった芳醇な幸せによってあっさりかき消された。懐かしく、優しい味がした。

「どうですか?」

「舌と一緒に顔もとろけそうだ」

 すぐに少女も俺に続いて舌鼓を打った。


 食後は俺の本を貸すなどして各々が自分の世界に没頭していたが、やがて座ったまま船を漕ぎ出した少女を促して床に就くことにした。昨日に続いて座布団を丸め、大きめのバスタオルを敷いて申し訳程度の緩衝材を作り寝床とした。

「やっぱり、家主が床はおかしいですよ」

 ベッドの上で胡座をかいて枕を抱いた少女が、寝惚け眼を擦りながら言った。

「この現状の方がおかしいから、その程度のおかしさなんて誤差みたいなものさ」

 笑ってもらうつもりでそう言ったものの、少女がわずかに悲しそうな目を浮かべたことで、言葉に棘が含まれてしまっていることに気がついた。

「いや、すまない。別にキミを責めるつもりはないんだ。俺はおかしいのが大好きだからな」

 いよいよ自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。少女は俯いたまま何か考え込んでいるようだ。失言を反省しつつ、今日を終わらせるために電気を消そうとした。

「じゃ、じゃあ、一緒にベッドで寝ましょう。それが今できる一番おかしな行動ですよ」

 少女にいつもの笑顔はなく、わずかに紅潮した頬と固く結ばれた口元が冗談ではないことを示していた。少女は、自分がベッドを降りたところで俺がベッドに登らないことを理解しているようだ。しかし流されるがままベッドを占有していることに負い目を感じてもいて、必死に模索した少女なりの打開策が、あの言葉だったのだろう。

「もう少し、自分を大切にした方がいい」

 言い終えると同時に電気を消したので、少女がどんな顔をしたのかはわからない。すぐに布団に潜る音が聞こえてきたので、納得はしてくれたようだ。

 硬い床に身を横たえながら考えた。

 見当違いなことを言ったかもしれない。

 また傷つけてしまったかもしれない。

 一言も交わさぬうちに、背後から寝息が聞こえ始めた。静かな部屋に聞こえる自分以外の呼吸音が、安らかな安堵感をもたらした。

 出会ったばかりの居候の少女になぜ、俺はここまで気を遣っているのだろう。ふと浮かんだ疑問は、一つの結論に辿り着いた。

 俺はきっと、このおかしな少女に、近くにいてほしいのだと思う。それは恋愛感情や友情なんて尊いものからくる願望ではない。俺と全く接点のない、遠い場所にいる人間だからこそ、期待した。当初の思惑通り、この突飛な少女が俺のつまらない日常を覆う殻を破壊して、暗く深い牢獄から連れ出してくれるのではないかと。



     4



 少女を学校に送り出したこの部屋は、少女が来る前の静けさを一時的に取り戻した。昨日丸一日少女に振り回されたわけだが、寝ていただけの今までとは一日の密度が比較にもならないほど違い、本当に二十四時間での出来事だったのかと疑問を抱いてしまう。そんな濃い一日を挟んで二日ぶりの静寂は、俺が思っていた以上に重く息苦しいものだった。まるで大昔に失くした大切なものを、ふとしたきっかけで思い出してしまったかのようだ。気分転換をしたかったが、しかし俺にはそのやり方がわからなかった。

 今まで一人きりでいた時、俺はほとんど何もしていなかった。ベッドに横たわったまま、朝が来たら夜を待ち、夜が来たら朝を望んだ。虚しさが限界に達した時に、少しだけ文字の世界を旅する。それの繰り返しだった。気分の浮き沈みなんてものもなかったから、気分転換を必要とすることがなかったのだ。いや、自分の気分の浮き沈みへ向ける関心すら、どこかに置いてきてしまっただけだろうか。死にたいと思い、けれども生きてここから抜け出したいとも思い、しかしどちらに倒れる勇気もなく、ただ酸素を消費しながら、何か革命が起きてくれるのをじっと待ち続けていた。

 改めて室内を見回す。床に、机に、至る所に、本。ゲーム機の類は実家に置いてきてしまったので、娯楽という娯楽はそれだけだった。そのまま室内を眺めていると、散乱した本の隙間を縫うようにして、歩きづらそうに移動する少女の幻影が浮かび上がった。昨日、口にこそしていなかったが、確かに少女はそのように歩いていた。そうしてやっと、俺はこの部屋が散らかっているということを理解した。

どうりで狭いわけだ。俺はようやく納得した。本棚から本が溢れたあの日、床に直接横たわった本を見て、近いうちに片付けなければと、確かに思った。しかし慣れというのは怖いもので、いつしかこの部屋の床は本のためにあり、俺は大きな本棚の中で生活しているという思考が芽生え出した。結果がこのザマだ。一人でさえ狭かった空間に人が増えたのだから、その窮屈さは余計際立っていた。

 俺は部屋をひっくり返す勢いで、片っ端から本の分別を始めた。一冊一冊を手に取り、置いておくべきものか、手放しても惜しくないものか、じっくりと吟味した。俺にとって必要不可欠な世界は本棚へしまい、もう必要のない世界は積み重なって高い塔を構築していった。

 普段は開かないような押入れの中やベッドの下の引き出しも、奥まで念入りに掘り返した。そこからは、持っていたことすら忘れていた小物や、内容すら思い出せないような文庫本が次々と発掘された。まるで小学生の頃、卒業前に校舎裏に埋めたタイムカプセルを掘り返しているような、懐かしい感じがした。

 当時はまだ、今ほど『普通が怖い』という強迫観念には駆られていなかったように思う。たくさんの級友たちとその時間を謳歌することに精一杯で、そんなことを考えている余裕すらなかったのかもしれない。まだ世界を構成するあらゆる要素が輝きを持っていて、その全てが魅力的に写っていた。

 次第に形を成し、光沢を帯びていく泥団子。目的地を探そうと必死に跡を追うが、いつの間にか見失っている蟻の行列。母と手を繋いだ雨上がりの帰り道、傘を畳んで見上げた空にかかっていた大きな虹。一見自分には無関係な物にすら魅力を感じる才能が、当時の俺にはまだ備わっていた。俺に限らず、子供というものはそういう才能に秀でているものなのだろう。大多数の人間は、その豊かな感性を代償として大人へと成長する。俺も例に漏れず、どこかに忘れてきたらしい。

 水の入ったバケツを抱えてほくほく顔で砂場に向かったことも、蟻と並行してを歩進めているうちに知らない場所に迷い込んでしまったことも、虹の端を見つけたくて屋上の柵から身を乗り出して叱られたことも、最後に経験したのがいつだったか、まるで思い出すことができなかった。

 その代わりに、中学に入学したあたりでこの世界が生きづらいと感じ始めたことだけは鮮明に覚えていた。自分も例外でないことを棚に上げ、他人を『このつまらない世界の構成要素の一つ』としか見ることができなくなった。その価値観を押し殺して学校生活を送ることができるほど器用な人間でもなく、表情や一挙手一投足から滲み出るその思考を嫌うように、次々と友人達も離れていった。

 孤独を孤高と勘違いし出したあたりで、既に今の俺は出来上がっていたのかもしれない。価値観が合わずに皆が俺から離れていくのは、俺の思想が周りに比べて一段高いステージに登っているからで、そこにたどり着くことができる俺ほどの人間はそういない。だから俺が孤立することは至極自然なことである。そう言い聞かせ続けているうちに、俺の思考と道はぐにゃぐにゃに歪んでいったのだった。

 片付けをしているだけのはずなのに気分を沈めることができるのは才能だろうか?

 悲しい追想にストップをかけ、引き出しに突っ込んだ手を再び動かし始めた。無造作に放り込まれた小物をかき分けて引き出しの床が見えた時、記憶にも残っていない有象無象の中から一つだけ、よく見覚えのある物が顔を出した。デフォルメされた結果、モチーフが何なのかも検討がつかないモンスターに成り果ててしまった、曰く動物のキーホルダー。以前理光がこの家に来た際、いらないという俺の主張を無視して無理矢理置いていった物だ。

「なんだかキミに似てるなって思って買っちゃったんだけど、いらないからあげる」

 確かそう言っていた。彼女の頭の中に俺がいること、その空想の俺に対して嫌悪感を抱いていないことがわかり、当時の俺はキーホルダーは拒みつつもその事を内心喜んでいたのだが、今になって思う。得体の知れないモンスターに似ているというのは、悪口なんじゃないだろうか。今更怒ったところでもう遅いが。

 暗い引き出しの奥から救い出し、テーブルの上に置いておいた。俺もいらないのだが、捨てる気にもなれなかった。

 部屋中を隈なく漁り、必要な本とそうでない本を一通り分別できたところで、俺はいらない本の山をいくつかの袋に分けて突っ込み、そのうちの二つをそれぞれの腕からぶら下げて家を出た。

 その古書店を見つけたのは、俺が大学に入学して少し経った頃のことだ。まだここら一帯の地理を把握しきれていなかったある日、駅に向かう途中にある大通りの路地裏に迷い込んだことがあった。何となく見覚えが無い道だなと思いながらも、むしろこの辺りで見覚えのある景色の方が少なかったこともあり、俺は奥へ奥へと歩を進めていった。やがて突き当たった袋小路の脇に、それはあった。一見すると空き家か倉庫と見紛いそうな外観だったが、扉の外には小さな本棚が一つだけ置いてあり、手書きの文字で『一冊百円』と書かれた紙が貼り付けられていた。ノックしてから恐る恐る扉を引くと、その先には天井まで聳える本棚がいくつも連なり、それにさえ入りきらないたくさんの古書が所狭しと床まで溢れていた。新品が並ぶ本屋とは違う、古紙特有の香ばしい匂いが充満した空間を、俺はたちまち気に入った。まだアルバイトをしていて金にいくばくかの余裕があった当時の俺は、それから定期的にそこへ行き、新たな世界との邂逅に心を躍らせていた。

 久しぶりに訪ねると、店の外にある本棚の値段が、一冊百五十円に変わっていた。通っていた時の癖でそこに並んだ背表紙の文字列を一通り眺めてから、以前よりも傷んでいるように見える木製の扉を開けた。奥に座って新聞を読んでいた店主の老人がこちらに視線を移した。まるでしばらく会っていない実家の父に会ったようで、思わず口元が緩んだ。

「お久しぶりです」

 向こうは相変わらず無愛想だったが、俺が持ってきたものが大量の本であることがわかると、彼は微かに顔を歪めた。

「引っ越しでもするのか?」

「いえ、少々片付けを」

 結局俺は家と古書店を四回往復し、合わせて七つの袋を運び込んだ。持ち込む回数に比例して彼の顔の歪みが大きくなっていったのが、ある意味で俺に裏切られたと感じていたからか、それとも単に売れる見込みの無い本を大量に買い取るのが嫌だっただけなのかは定かではない。

 彼は不機嫌そうに顎をしゃくりながら、付箋とボールペンを差し出した。

「この量は一日じゃ終わらん」

 俺は携帯電話を取り出して画面を見ながら、覚えていない自分の電話番号と名前を書き込んだ。

「よろしくお願いします」

 俺はそれだけ言って、返事を待たずに踵を返した。きっと大した額にならないだろうが、それでもいいと思った。今まで彼らに依存していた非日常要素は、形を変えて今、俺の近くにいるのだから。

 陽が沈み出した中家に戻ると、見覚えのある少女が、玄関扉の前に座り込んでぱらぱらと本を捲っていた。何故家に入らないのだろうかと考え、そして自分の過ちに気がついた。急ぎ足で少女の元に駆け寄ると、こちらに気づいた少女が安堵したような表情を浮かべた。

「よかった。ここでも閉め出されちゃったかと思いました」

「すまない、そこまで気が回っていなかった」

 これからは鍵を開けたまま外出しようと思った。いよいよ空き巣に盗られて困る物もなくなったしな。

 鍵を開けて一緒に部屋に入ると、少女は悲鳴にも近い声をあげた。

「本はどうしたんですか?」

 まるで常識が崩壊したかのような表情を浮かべている。本が散らばっていない家なんて俺の家じゃない、私の帰る場所じゃない、みたいな表情。きょろきょろと部屋中を見回し、玄関を振り返り、ここがいつもの安息地で間違いないかを必死に確認していた。

「邪魔だし、金が心許ないから、さっき古本屋に持っていったよ」

 少女は「そうですか」と言って残念がっていた。小学校の図書準備室のようなあの部屋を、少女は案外気に入ってくれていたのかもしれない。俺自身も、常識的な程度にさっぱりとした部屋を見て、どこか物悲しさを感じていた。それと同時に、何か恐怖のような感情が湧き出していることにも気がついた。特定の何かに対する恐怖ではなく、むしろ正体がわからないことへの恐怖のような。

 もしかしたら、俺という人間が少しずつ変化しているのかもしれない。それが一般的に言って良い方向なのか、悪い方向なのかはわからないが、もしそうだとしたら、どっちでもよかった。

 もしも俺の前に少女が現れなかったら、どんな些細な変化も起こらなかっただろう。変化が起きるためには何か外的要因が必要なくせに、変化を起こさないで過ごし続けるということは思いの外疲れるものだ。独りきりで部屋に篭り続けていたら、いつか心身共に疲れ果てていたかもしれない。それならそれでいいんだけど。

 そういう意味では、これは好機なのかもしれない。手に入らなかったはずのチャンスを、普通はありえない方向から飛び込んできた他人が生み出してくれたのだから。

 そこでふと、一冊のノートのことを思い出した。高校生の頃から普通に対する呪詛を書き散らかして溜飲を下げていた、八つ当たり専用のノート。最近はあまり触れていなかったが、以前はことあるごとに、普通に、社会に、自分に対する不満を書き殴っていた。

 そのノートに今日のことを書こうと思った。あの俺が本を一気に処分するに至ったこと。俺の中で、何か変化が起きていそうなこと。そうすることで、過去の俺を弔うことができるような気がした。いや、実際は単に、今の俺が安心したかっただけかもしれない。

 しかし、部屋中をひっくり返した今日、そのノートに見覚えはなかった。再度引き出しや押入れ、上着のポケットやカバンの中を探してみたが、やはり見つからなかった。実家に置いてきてしまったのだろうか。こっちに来てから書いたような気もするが、ないものは仕方ない。これもきっと、あのノートに頼らないで生きるためのきっかけなのだ。そう言い聞かせた。

「これは何ですか?」

 机の前で考えに耽っていた俺の横に、いつの間にか部屋着をまとった少女が現れた。指差す先には、理光から渡された例のモンスターが横たわっている。

「昔友人に押し付けられたんだ。いらないんだが、捨てる気にもなれなくて、困ってるんだ」

「えー、可愛いじゃないですか。カバンとかにつければいいのに」

「じゃあ、キミにあげるよ」

 当て付けて言ったつもりだったのだが、少女は目を輝かせて喜んでいた。これを可愛いと思える感性はちょっと理解できないが、喜んでくれたならよしとしよう。俺が知らないだけで、最近の女子高生にはこういうものが流行っている可能性もある。……いや、さすがにないな。

「なんかこれ、お兄さんに似てませんか?」

 キーホルダーの付け所に悩む少女のそんな言葉に、俺は小さく吹き出した。



     5



 それからしばらくは代わり映えのない日々が続いた。毎朝学校へ行く少女を送り出してから、新しく買ったマットレスに飛び込んで、昼頃まで本を読んだり、妄想の世界に飛び込んでぼんやりと過ごす。その後は洗濯をしたり、買い物に行ったり、天気が良ければ散歩に行ったり。少女がアルバイトで遅くなる日は、俺が少女の分までまとめて晩ご飯を作るようにもなった。

 昼夜逆転が治り、自炊を始め、外出も増えた。働いていないという一点を除けば、俺がずっと忌避していた『普通』の生活に返って近づいているわけだが、当時の俺はそれに気がついていなかった。俺の生活を普通たらしめるそれらと相殺して余りある程の『異常』が、常に隣にいたからだろう。

俺たちが出会った春から季節は一つ進み、気温と湿度が不快にまとわりつく初夏のある日。この日もいつも通りの時間に目を覚まし、トースターで焼いた食パンにバターと苺ジャムを乗っけてかぶり付き、学校へ行く少女を見送ってから、部屋で一人呆然としていた。

 寝返りと妄想を繰り返して昼を迎えた俺は空いた小腹を満たそうとキッチンに向かい、そこで空っぽのバスケットを発見し、今朝食パンを切らしてしまったことを思い出した。冷凍していた白米も昨晩使い切ってしまい、炊かなければいけない。さてどうしたものかと考えながら居間に戻ると、真正面の窓から差し込む白い景色に目が眩んだ。

 買い物ついでに散歩でも行くか。

 その選択をするのに、ほとんど時間はかからなかった。我ながら、以前の自分とは見違えるほど活動的になったと思う。俺はスウェットからティーシャツとジーパンに着替え、踵の潰れたスニーカーを引っ掛けて外に繰り出した。

 玄関を一歩越えただけで、日差し耐性の無い俺の体はじんわりと汗ばんだ。この不快感を自ら享受してまで夏の日中に外出しようという奴の気が知れなかったが、今ならわかる気がする。まさか自分が、日差しが気持ちいい、と感じる日が来るとはなと感傷に浸りながら、そう思った。

 目的地も決めず、だらだらとあてもなく歩き続けるのが最近のトレンドになっている。そうした方が、知っている道をただ往復するよりも、思わぬ発見に出会える機会が多い。分かれ道に差し掛かったら、行ったことのない方へ、狭い方へ、人気の無い方へ、何かに誘われるように進んだ。

 そのようにしばらく歩いた先で、俺はその古ぼけた公共図書館を見つけた。家から歩いていける距離に図書館があることは知っていたが、詳しい場所までは理解しておらず、実際に訪れたのはこれが初めてだ。本の虫であるにも関わらず今まで図書館を利用していなかった理由は単純で、俺の活動時間と図書館の営業時間が見事なまでに噛み合っていなかったからだ。図書館に限らず、普通の人の為に作られた公共施設には、同じく縁がなかった。

 外観こそ年季が入って、遠い過去に忘れ去られた施設のようだったが、入り口のガラス戸を潜ると、外観とは対照的に小綺麗な空間が広がっていた。木目調の床が真っ直ぐに伸び、左側にはシューズの擦れる音が響いている体育館が、右側には長机が几帳面に並んだ多目的室が併設されている。どうやら図書館は、突き当たりの階段を登った先にあるらしい。

 入り口のカウンターで必要事項を記入してから、靴を下駄箱に入れてスリッパに履き替えた。そのまま真っ直ぐ本を物色しに行こうとした俺の足を止めたのは、開きっぱなしにされた扉の隙間から見えた体育館の光景だった。ネットを挟んだ大学生くらいの男女が、互いのコートを忙しなく行き来するシャトルを打ち合っている。その二人の影が、過去の自分と重なって見えた。あくまで気晴らしに遊びでやっていた俺は彼らほど機敏に動いてはいなかったが、それでもラケットがシャトルを弾く瞬間の突き抜けるように爽快な音は、過去の記憶を嫌に鮮明に呼び起こした。講義間の空き時間、キャンパス内の誰もいない体育館でのこと。



     *



「何で俺なんかに構うんだ?」

 飛んできたシャトルを打ち返しながら俺が訊ねる。

「私が連れ出さなかったら三浦くん、自殺しちゃいそうだし。それに、キミと一緒にいれば、私も普通になれるかなって」

 飛んでいったシャトルを打ち返しながら彼女が答える。

 腕に余計な力が入ったのがわかったが、その力を解そうともせずに、力任せにラケットを振り下ろした。案の定シャトルはネットに捕まり、羽に怪我をした鳥のように力なく地面に落ちた。

「煽りかよ」

 飛べない鳥を睨みつけながら吐き捨てる俺に対して、彼女は声色を変えずに「違うよ」と言った。彼女の表情はわからないが、赤子をあやすような優しい口調が、かえって嫌味ったらしく聞こえた。

「キミだって私の体質が羨ましいって思ってる節があるでしょ? それと同じだよ」

 そう言われて思わず口ごもる。確かに、彼女が自身に備わった特異性を忌み嫌っていることを知った上で、俺はそれを羨望していた。

 しかし、俺は思っていた。周りの人間から頭ひとつ抜けた才能を求めることは当たり前じゃないだろうか、誰もが羨む才能を持った人間が一般人に成り下がろうとする方がおかしいことじゃないだろうか、と。故に、俺の彼女への羨望を肯定し、彼女の俺への羨望を否定していた。

 今回は相手がイレギュラーなだけだ。

 そう言い聞かせて自己を正当化した。

「人並みが悪いとか、特別が良いとか、そこに優劣はないと思うな。結局人間なんて、どこにいても隣の芝が青く見えちゃうものなんだよ」

 この時の彼女の表情は鮮明に覚えている。シャトルを拾って顔を上げた先で彼女が浮かべていた、今にも泣き出しそうな表情を。

 


     *



 ぱしんと一際大きな音が響き、俺の意識を現実に引き戻した。

 勝ち誇る女性と、悔しそうに項垂れる男性。その一コマが、今のラリーの行方を十二分に表していた。男性のコート内に転がっているシャトルが何よりの証拠だ。男性は脚を叩いて喝を入れてから拾ったシャトルを女性の方へ放り、受け取った女性がサーブの構えについた。試合はまだ続くようだ。

 たった一コマで、ラリーの行方はわかる。しかし、試合の結果まではわからない。壮絶なラリーを制しても、あっさりサービスエースを決めても、得られるものは同じ一点。勝負の行方は試合を見届けない限り何者にもわからない。

 それは人生と似ている。ある時、ある人から見て勝ち組である人間が、その後も勝ち続けるとは限らない。イレギュラーがつきものだ。体や心に怪我を負い、途中で棄権をする人、せざるを得ない人もいる。

 俺はそのことを理解していなかった。勝ち組は何もかもが上手くいくからこそ勝ち組なんだと思い込み、その裏にある努力や勝ち組ゆえの苦悩を考えもしなかった。彼女の思想を借りるなら、そもそも勝ち組負け組という考え方が間違っているのかもしれないけれど。

 俺が彼女の裏側を見ることが出来ていたら、今とは違う今があったのだろうか。

 頭を振って思考を遮る。もしもの世界の妄想は得意だが、過去を省みるのは好きじゃない。過ぎたことを今更どうのこうの言っても仕方がないじゃないか。

 気を取り直して歩を進め、わずかに重くなった足取りで階段を一段一段上がっていく。これを登り切れば楽園が待っていると自分を鼓舞した。

 その先に、忘れかけていた失望が待っていることも知らずに。

 図書館というには少々狭く、しかし外観から予想していたものよりは広く感じた。小さい頃に訪れた祖母の家の空気と古紙の匂いを混ぜたような居心地の良い空間に、ついに自分の居場所を見つけたという興奮がふつふつと湧き出した。当初は借り出して家で読もうかと思っていたが、ここなら落ち着いて本が読める気がした。毎日通うくらいでもいいなと、何も知らない俺は呑気に心を躍らせた。

 入り口に近い本棚から順に目を通していく。直感が、本能が、今まさに読みたがっている本を求めて視線を動かす。一つ二つと本棚を物色していき、三つ目でようやく、以前から気になっていた海外作家の小説を発見した。これを置いているなんて中々見る目があるじゃないか、と偉そうに褒め称えながら抜き取り、最奥に設けられた読書スペースにほくほく顔で向かった。

 長机が仕切りで三等分に区切られたものが四つ、合わせて十二人分の個人スペースが用意されている。そのうち利用中の席は一つだけだったが、俺は入り口でただ立ち尽くし、一向に座ろうとはしなかった。いや、正確には、出来なかった。

 平日の真昼間だというのに、一番手前の席で女子高生がこちらに背を向けて座って何やら筆を動かしている。ショートヘアを綺麗な金色に染め、半袖のスクールシャツとチェックのスカートに身を包んだ、よく見覚えのある女の子が、そこにいた。

 少女によく似た別人だ。そう思い込みたかったが、筆箱のチャックからモンスターのキーホルダーを垂らした女子高生が、少女の他にいるのだろうか。諦めるしかなかった。

 今は学校に行っているはずじゃないのか?

 今日は早く終わったのか?

 それなら何故帰って来ないんだ?

 そもそも通っている学校はどこなんだ?

 考えてみれば、俺は少女のことをあまりにも知らなすぎる。今まで気になっていなかったといえば嘘になるが、直感的に、そういったことを聞くのは憚られた。俺が少女の細部を知れば知るほど、少女は俺から離れていってしまいそうな気がしていた。お互いのことを何も知らないからこそ、この不安定な関係が続いているような気がした。

 ふと有働の警告を思い出す。『助けを求めている人間の全員が善人であるとは限らない』。少女もそうだったということだろうか。

 しかしそれでは、少女の目的がわからない。金目の物を盗ろうというのなら、初めて家に上がった段階でハズレを引いたことは理解できただろうから、翌日にさっさと出ていってしまえばいい。既成事実を作って強請るにしても、その為だけに何ヶ月も見知らぬ男と一つ屋根の下で生活するだろうか。生活費を全て俺が出しているならまだしも、食費はほぼ全て少女が出していると言っても過言ではないのだから、割りに合っていないように見える。

 考えれば考える程謎が深まっていく。ただ一つ、俺の使い物になっていない頭が導き出した結論は、『少女は俺に何か隠し事をしている』という漠然とした失望だけだった。実は学校の成績が酷くて赤点塗れであるとか、鎖骨の下に火傷痕があるとか、そういったプライベートな隠し事なら、誰だっていくつか持っているものだ。しかしこれは、俺たちの関係を揺るがしかねない大打撃にもなりうる。

 今この場で問い詰めることも、玄関の鍵を閉めて関係を断つこともできるだろう。けれど、俺はこのことについて少女に言及するつもりはないし、いつも通り玄関の鍵を開けっぱなしにして少女の帰りを待つつもりだ。

 守る価値の無い過去を守ってより深いところへ落ちるくらいなら、道化であることを享受してでも過去より価値のある今を守りたかった。少女の都合に沿って、掌の上で踊らされているのかもしれない。でも、都合の良いように踊れるだけ幸せじゃないだろうか。

 踵を返し、大事に抱えていた本を元あった場所に返却してから図書館を後にした。ついに見つけた自分の居場所は、瞬く間にその価値を失っていた。

 外はいつの間にか、初夏特有のバケツをひっくり返したような大雨が降っていた。ここでしばらく待っていれば止むであろうその大雨の中に、傘もささずに飛び出した。当初の目的である買い出しも忘れて、家に向かって歩き出す。ここまで着の身着の儘で来たのは幸か不幸か、折り畳み傘は持っていなかったが、濡れて困る物も同様に持ち合わせていなかった。途中親切な八百屋の店主がずぶ濡れの俺を見て傘を差し出してくれたが、礼を言ってから断った。この雨に打たれていたら、心の中にどすんと居座る蟠りや、霧のように広がるモヤモヤを流してくれるのではないかと信じて。

 家に着く頃には、先ほどまでの悪天候が嘘のように、鈍色の雲間からわずかにオレンジがかった青色が覗いていた。もしかして今日一日の記憶は全て妄想で、俺は今日散歩にも行っていなくて、その先で図書館なんか見つけていなくて、そこでいるはずのない少女を見つけてもいないのではないか。我ながら馬鹿げたその祈りは、満遍なく水を被ったアパートの共用廊下と、大量の水を吸って重りのようにずっしりと体にへばりついている服にあっさりと否定された。

 玄関で服を脱いで洗濯機の中に放り込み、シャワーで軽く温まってからすぐに敷きっぱなしにしていた布団に潜った。濡れた服を着て歩くというのは思いの外重労働だったようで、俺は瞬く間に微睡に落ちた。



     *



 あの表情の理由も聞けないまま、俺たちは帰路についた。大学から駅までをわざわざ迂回して、川沿いの道を並んで歩いていた。街路樹の葉は全て落ち、冬の足音が聞こえ始めている。隣の彼女は、首に分厚く赤いチェックのマフラーを巻き付け、視線を斜め下に落としたままとぼとぼと歩いている。

「この道、歩きやすいよね」

 赤茶色のレンガタイルが敷き詰められた道を踏み締めながら彼女が言った。

「まあ、道だからな」

「歩きにくい道もあるよ」

 何が言いたいのか分からなくて、俺は彼女の方をゆっくり振り向いた。彼女はいつの間にか立ち止まり、オレンジに染まる川を眺めていた。彼女が川の中の鯉を見ていたのか、アヒルを見ていたのか、ゴミを見ていたのか、それとも何も見ていなかったのか、俺には分からない。この川が流れ着く先に想いを馳せていたのかもしれない。

「このレンガの道は、キミの道みたいだよね」

 彼女は振り向いて一瞬目を合わせた後、また視線を落とした。

「どういうことだ?」

「たくさんの人が歩く道だから、キミの言う通り面白味はあんまり無いかもしれないけど、とても歩きやすい。それに、全ての道が同じってわけじゃない。レンガの道、アスファルトの道、コンクリートの道。私はあんまり詳しくないけど、多分他にもあるでしょう。自分に合った道の上で、自分の思うままに歩いていけばいい。生き急ぐ時があってもいいし、回り道してみるのもいいし、たまには立ち止まって川を眺めるのもいいかもね」

 彼女は再びゆっくり歩き出した。

「でも、キミが歩きたがっている道っていうのは、せいぜい獣道。最悪、雑草が生い茂った足場の悪い密林。歩き方を選ぶ余裕なんてない。必死にもがいて、転んで、這いつくばって、それでも何とか視界の開けた場所を求めて歩き続ける。誰も歩いていないから、その先に遺跡や宝石が眠っている可能性は、確かに舗装された道よりも高いけど、そんなの結局夢物語。気づけば樹海の深部に迷い込んでいて、出口もわからず、助けも呼べず、全てを諦めるしかなくなってる」

 俺の顔を覗き込むように、彼女は顔を近づけた。力の篭った眼に気圧されるようにのけぞり、一歩後ずさった。

「本当に、そんな道を歩きたいの?」

 口元は悪戯っぽく曲がっているが、確かに潤んだ瞳が俺を断罪するかのように突き刺さった。

 俺の理想はそんなに馬鹿げたものなのだろうか。この時初めて、自分の特別への執着に正面から向き合った気がした。けれど、やはり俺の答えに変わりはなかった。

 普通は嫌だ。自分の考えに間違いがないことを再認識した。

 そんな俺を、しかし彼女は自殺志願者を見るような目で見ている。

「まあキミの人生はキミだけのものだから、私はこれ以上余計な介入はしない。舗装された道を歩く気になったら、そこからの景色を教えてよ。もし獣道を進むんだったら、私と違って、ちゃんといい景色を拝めるといいね」

 突如辺りが黒一色に塗りつぶされた。動揺する俺を置いて彼女は歩き出し、やがて黒色に飲まれて姿が見えなくなった。虚空に一人放り出された俺に、どこからか声が聞こえる。

『本当に、そんな道を歩きたいの?』

 耳を塞いでも、その声は頭に直接送り込まれているように鮮明に聞こえた。頭を振って脳内を攪拌しようと試みるが、徒労に終わる。

「やめてくれ」

 情けない声を漏らしてもその声は止まらない。罪を咎めようとする空気がだんだんと圧力を増してきて、次第に呼吸もままならなくなった。最後に蹲って苦しむ俺が黒色に塗りつぶされて、頭の中は空っぽになった。

「やめてくれ」

 空っぽの空間にもう一度、その言葉が虚しく響いた。



     *



「大丈夫ですか?」

 黒一色の世界で、光を求めて声が聞こえた方向を探した。頭が動き出し、目がゆっくりと開き、白く眩しい証明に目が眩んで再び目を瞑る。乱れた呼吸を整え、覚悟を決めてもう一度目を開くと、眼前には夢で見たものとは違う顔が、心配そうに覗き込んでいた。

「すごい魘されてましたけど」

「ああ、大丈夫だ」

 出来る限り平静を装って起き上がる。明らかに夏の暑さのせいではない汗が、シーツにくっきりとシミを作っていた。

「大丈夫ならいいんですけど……。あ、もう少しでご飯できますよ。それと朝食パンが切れちゃったので買ってきました。それから――」

 少女はいつも通りの笑顔を浮かべながら捲し立てたが、それらは全て右の耳から左の耳へ突き抜けていった。渦巻く思考のループの内側に囚われたまま、あの質問の答えを再び探していた。しかし今度は前回と違って、答えが見つからなかった。

 俺が嫌っていた普通って、何だろう。

 俺が望んでいた特別って、何だろう。

 渦巻きは次第に速度を増し、竜巻になって頭の中を散らかした。整理がつかない。思考がまとまらない。そんな中、答えがないことを知った上で、ひたすら自分に問うた。

 俺は本当に、そんな道を歩きたかったのか?



     6



 すぐに過ぎ去ると思っていた昨日の雨は思いの外尾を引いていたらしく、朝から再びしとしとと小雨が降り続いている。天気が悪いと、湿度の影響か、重苦しい雲の色に釣られてか、不思議と体が重く感じることがある。床から生えてきた無数の手に足を掴まれているかのように体が動かない。後々のことを考えると洗濯機を回すことすら億劫になる。雨が地面や窓を叩く音の心地良さを言い訳に、一日中家でそれに耳を傾けながら怠惰に過ごすことを正当化する。

 しかし、今俺が感じている体の重さは、雨だけに起因するものではなさそうだ。布団から起き上がる気力もなければ、洗濯をする気も起きないのはその通りなのだが、それに加えて視界が歪み、思考に靄がかかり、関節が軋むように痛み、体が熱を帯びている。寝返りすら重労働で、俺は敷布団の上に漬物石のようにどっしりと微動だにせず横たわっている。

「大丈夫ですか?」

 少女は心配そうな顔で覗き込んだ。何だかデジャブだなと内心で笑いながら「大丈夫じゃなさそうだ」と返した。

 流されるままにベッドに移った。動悸が早いのは、ベッドに登るという重労働をこなしたからか、あるいはいつの間にかベッドに染み付いた俺のものではない匂いに包まれたからか。気持ちは落ち着かないのに体がそれについてこれず、とてももどかしい。

 風邪を引くのは久しぶりだった。それは体が丈夫なわけでも、特別衛生観念が高いわけでもなく、単に外出しなかったが故に雨に濡れたり、他人からウイルスを貰うといった機会が著しく少なかったというだけの話だ。そういうわけで、この体調不良は俺が以前よりも活動的になった象徴とも言える。名誉の負傷だ。

 布団やシーツが肌に擦れた時の何とも言えないくすぐったさと切なさを不承不承堪能していると、少女がキッチンからお盆を持ってやってきた。

「とりあえずお粥と味噌汁と作ったんですけど、入りそうですか?」

 ほんのりと漂う生姜の香りと優しい声に誘われて重たい頭をゆっくりと動かすと、ベッド横の小さなサイドテーブルの上に、たまご粥とネギがたっぷり入った味噌汁が置いてあった。体調とは裏腹に食欲はあった。しかし、食べたいという意志に反して、体がいうことを聞いてくれなかった。

「ああ、ありがとう。体が動くようになったら食べさせてもらうよ」

 それを聞いた少女はスプーンでたまご粥を少量掬い、こぼさないようにゆっくりと俺の口元に運んだ。少女の意図はすぐに察することができた。それに対して意思表示することも億劫で、俺は流されるがままに口を開いた。少女はにっこりと笑ってから、手に持ったスプーンをそっと俺の口の中に入れた。

 弱い力で何度も咀嚼してから飲み込むと、荒れた喉がじんわりと癒されていった。たまご粥を半分ほど食べたところで体の再起動が終わり、ようやく命令を受け付けてくれるようになった。それでも重たいことには変わりなかったが、上体を起こし、少女の作ってくれた料理を掻っ込んだ。

「どうでしたか?」

「美味しかったよ。ありがとう」

 少女は「よかったです」と言って上機嫌でお盆を下げた。もう一度内心でお礼を言ってから、少女が皿を洗う水の音に耳を傾けた。

 早く眠りたかったが、睡眠という行為は結構体力を使う。横になっているだけでも体は疲弊していくし、かといって上体を起こすのも一苦労。立ち歩くなんてもってのほかである。存在しているというだけで、俺の体力はガリガリと削られていく。だから俺は、キッチンに流れる水の音や窓についた雨粒に集中力を向け、精神を自分の体から乖離させることに努めた。そうすることで、この倦怠感を客観的なものとして捉えることができると考えた。

 やがてキッチンの音が止み、小さな足音を立てて少女が戻ってきた。居間に入るや否や少女はキョロキョロと室内を見回し、右往左往してからデスクチェアを枕元に動かして腰を下ろした。この部屋における少女の居場所であったベッドの上を俺が占領してしまったので、代わりとなる場所を探していたのだろう。慣れない場所で落ち着かなそうにそわそわしながら、時折様子を伺うようにこちらに視線を移していた。

「解熱剤とか冷却シートとか、ゼリーとか買ってきましょうか?」

視点を戻してぼんやりと天井を眺めていると、不意にベッドが軋み、少女の顔が視界に飛び込んできた。

「雨が止んだら頼みたい」

「でも、早い方が……」

「雨に濡れて、キミまで倒れたら元も子もないからな」

 少女は何かを言いたげに口を開きかけたが、その言葉を形にはせずに飲み込んで、渋々納得したように戻っていった。

「じゃあ、他に何かしてほしいことはありませんか?」

「そうだな……それじゃあ、買い出しに行くまで、ずっとそこにいてくれ」

 間の抜けた「はぁ」という声が聞こえてから、室内は静寂に包まれた。

 じわじわと眠気が襲ってきた。目を瞑ると、雨音、衣擦れ、少女がページを捲る音、あらゆる音がその音量を増した。その中でも自分の鼓動を聞いていると、得体の知れない恐怖が湧き出した。このまま眠ってしまったら、少女が俺の前から姿を消してしまうのではないかという、まるで根拠のない恐怖。

 弱った体が人の温もりを過剰に求めているだけだ。そう理解している自分がいる反面、不安を拭い切れていない自分もいる。落ち着けと自分に言い聞かせるほど、不安はどんどん大きくなっていった。やがて内側に留めておけなくなった感情が、言葉となって口から溢れ出した。

「なあ、佐倉」

「どうしたんですか?」

「今から俺は独り言を言う」

 大きく深呼吸してから、ゆっくりと続ける。

「キミが俺に何か隠していることは知っている。それが俺に害を与えるものなのか、そうでないのかはわからないが、俺はどっちでもいいと思ってるんだ。俺は今、一人ぼっちに戻るのがどうしようもなく怖いと感じている。この恐怖が解消できるなら、俺は喜んで傀儡になろう。だから、せめてキミが実家に戻れるようになるその時までは、俺の隣にいてくれないか」

 目を瞑ったままだから、少女がどんな表情でこの言葉を聞いていたのか、聞き終えてどんな表情になったのか、俺にはわからない。少しの間を置いてから、少女はくすくすと笑い出した。

「本当にどうしたんですか? 相当参っているみたいですね」

 掛け布団の上に投げ出していた左手に何かが触れた。それは俺の手より冷たく、俺の指より細く、俺の心と同じくらい脆そうだった。

「わかりますか? 心配しないでも、私はここにいますよ。そして、ここに帰ってきますよ」

 俺の手がそっと握られた。不思議なことに、自分自身であれだけ必死に言い聞かせても追い出せなかった不安や寂しさが、たったそれだけのことで影も残さずに消え去った。同じくらいの力で握り返すと、少女はまたくすくすと笑った。

「雨が止んだので、買い物に行ってきますね。すぐに戻ってきます」

「ありがとう」

「ええ、いってきます」

「いってらっしゃい」

 言葉だけで少女を送り出してから、瞬く間に微睡に落ちた。

 

 目が覚めた時には、窓の外はすっかり暗くなっていた。まだ風邪の余韻がわずかに残っていたものの、はるかに体が軽くなっていた。上体を起こして頭の電源を入れると、寝る前に少女に言った言葉が脳内に蘇った。我ながら臭い台詞を言ってしまったなとわずかに後悔しつつ、その羞恥と眠気を拭うように目を擦った。

 照明のついていない部屋から手探りで携帯電話を探し出して電源をつけた。時刻は午後八時を指していた。

 少女はまだ帰ってきていない。アプリを開いても、未読のメッセージは送られてきていない。寄り道でもしているのだろうと思い、夜ご飯を作りながら帰りを待った。しかしいくら待っても、少女が帰ってくることはなかった。



     7



 それから三日が過ぎた。相変わらず少女は帰ってこないし、こちらから送ったメッセージに既読がつくこともない。なんとなく、もう帰ってくることもないような気がしていた。

 俺はこう考えた。

 少女には何かしらの計画があった。それを実行に移して最初に出会ったのが俺だったというだけで、恐らく転がり込む相手は誰でもよかったのだろう。有働の推理通り強請りが目的ならば男でなければならないが、どの道俺は適任だったというわけだ。しかし計画はまだ準備段階で、俺の目を盗んでこつこつ準備を進めていた。しかしあの日、弱った勢いで俺は『何か隠していることは知っている』と口にした。何かを企んでいることがバレていると悟った少女は、計画を諦めて俺の前から姿を消した。

 多分、これが妥当なんだろう。この仮説を信じたいわけではないが、しかし自分でも驚くほどにすっきりと納得ができた。そして、不思議と怒りはなかった。見れなかったはずの夢を見させてくれた分、むしろ感謝をしているくらいだ。

 という旨を話したところ、有働はいつも通りくくくといやらしく笑った。

「それでフラれたお前は寂しくなって、また俺を呑みに誘ったと」

「お前に言われるとムカつくけど、まあそんなところだ」

 まだアルバイトをしている可能性にかけて前回と同じ居酒屋に来たものの、案の定そこに少女はいなかった。店主にそれとなく少女の行方を聞いてみたが、納得のできる回答は得られなかった。

「それで、お前はこれからどうするんだよ」

 未だ一口も飲んでいない俺とは対照的に、有働は運ばれてきたばかりのジョッキを既に空っぽにしていた。昼間から酒を飲む背徳感と明日が休みであるという高揚感が混じったニヤけ顔がこちらを向いている。

「どうもこうも、少し前の俺に戻るだけだ」

「ま、そんなこったろうと思ったよ。たかだか一回の失恋でお前の壊れた感性が治るとは思えないからな」

 馬鹿にされているとは思わなかった。

 へえ、これが失恋なのか、と他人事のように思っただけだった。

「なあ、有働」

「なんだよ」

「俺は本当に、失恋したのかな」

「お前があの子を好きだったんなら、そうなんじゃねえか?」

 果たして俺は、少女のことが好きだったんだろうか?

 ……わからない。

 そもそも『好き』という感情がわからない。仮に俺がその感情を抱いたとしても、それが『好き』であるということを自覚できないだろう。

「俺はただ、隣にいてほしかった。裏では良いように利用されていても構わないから、表側では、ただ隣で笑っていてほしかった」

「なら、それはもう立派な失恋だな」

「そうか」

 一口だけ飲んだビールがいつもより苦く感じて、有働にジョッキを渡した。有働は何も言わずにそれを受け取り、一気に胃の中に流し込んだ。

 俺はきっと、長い夢を見ていたんだ。春の陽炎に化かされて、長く、幸せな夢を。でも、どうせ夢を見るなら悪い夢の方が良かったなと思った。幸せな夢から覚めて元々持ってもいない物の喪失感と虚無感を味わうくらいならば、悪夢から覚めてこのつまらない現実に戻ってこれた安堵感を噛みしめた方がマシだろう。一際大きな溜め息が漏れた。

 その時、テーブルの上に置いてあった携帯電話がメッセージを受信して震えた。どうせ迷惑メールの類だろうと横目でみたその画面には、夢の中の住人であるはずの、佐倉春香の文字が表示されていた。思わず有働に視線を向けると、彼もその画面はしっかりと見えていたようで、ニヤニヤしながら顎で携帯電話を指した。

 恐る恐るトークルームを開くと、三日間未読だった俺のメッセージに既読がつき、その下に二件、少女からのメッセージが追加されていた。

 『約束をしたばかりなのに、突然いなくなってごめんなさい。もしもお兄さんがまだ私と会ってくれるのなら、次に送る場所に来てください。お話ししたいことがあります』

 その下には、恐らく今少女がいるであろう場所の住所が表示されている。

 そこへ行けば、少女に会える。しかし俺は、行くべきなのか、すぐに判断ができなかった。

 『全てを話す』。わかりきっていたことだが、やはり少女は俺に何かを話していなかった。だが、それをいざ少女から真っ直ぐに伝えられると、どうしても尻込みしてしまう。仮説と確信とでは、重みがあまりにも違いすぎる。情けないことに、パンドラの箱を開ける覚悟が、俺にはまだなかった。

「何ボサッとしてんだ。さっさと行ってこいよ」

「結局、お前の言う通りだったな」

「なにが」

「気を付けろっていう忠告をお前からもらった時、俺はどこか他人事に感じていた。内心ではその可能性を理解していたはずなんだが、きっと認めたくなかったんだろうな。この子は大丈夫だと無根拠に言い聞かせていた。けど、あの子から隠し事をしていたと告白された今、俺は自分で想像していた以上に動揺しているらしい。何を隠していたのか、どんな顔をして会いに行けば良いのか、そこで何を要求されるのか、考え出したら足が動かないんだ」

 それを聞いた有働は、しばらくいつも通りくくくと歯を見せて笑っていたが、やがて口を大きく開き、たがが外れたように笑い出した。

「それだけ余計なことを考えるのが得意なんだから、お前にとってこの世はさぞかし生きづらいだろうな」

 有働はひとしきり笑ってから、大きなため息を吐いて頬杖をついた。

「今、お前が考えなきゃいけないことはたった一つ。お前はあの子に会いたいと思っているのか、そうでないのか。それだけだ。それだけを頭に入れて、もう一度自分に聞いてみな」

 偉そうに語られるのは癪だったが、おとなしく指示に従って再考しようとした。しかし、脳がその決断を出すよりも前に、俺は勢いよく立ち上がっていた。スツールが大きな音を立てて倒れて店員や他の客が訝しげな視線を送る中、有働だけはいつものニヤけ顔でこちらを見上げていた。

「ツケでいいぜ」

 気がつけば俺は店を飛び出し、全力で送られてきた場所に向かって駆け出していた。そんなに遠い場所でもないし、何よりタクシーやバスを待つその時間がもどかしかった。自分の足で、俺は少女に会いたかった。



     8



 目的地に着く頃には完全に息が上がり、吐き気がこみ上げて立っているのもやっとのような状態だった。全力疾走なんていつぶりだろうか。思い出せないあたり、もしかしたらこれが人生で初めてなのかもしれない。

 自動扉を潜って建物のエントランスに入ると、強く効いた冷房が汗で濡れた体を急速に冷やしていった。両腕を摩って季節外れの寒気を抑えつけながら、蛍光灯の白い光が鈍く反射するリノリウムの床を歩いて受付に足を運んだ。少女の名前を出すと、受付の女性は面会カードを差し出し、少女から送られてきたメッセージと同じ部屋番号を告げた。残念ながら、ここにいることは間違いないらしい。

 大きなエレベーターで三階まで上がると、すぐにに『佐倉春香』の文字が刻まれているネームプレートが刺さった目的の部屋に到着した。深呼吸を二回して上がった息と覚悟を整えてから意を決して扉を叩くと、「はーい」という明るく元気そうな返事が聞こえた。四日ぶりに聞いた、ずっと求めていた声。そして開かれた扉の先には、四日ぶりに見た少女が薄緑色の入院着を着て、ベッドテーブルの上で何か書き物をしていた。少女の視線がこちらに向き、入ってきたのが俺であるとわかると、わずかに緊張したように表情を硬らせた。

「お久しぶりですね」

「ああ、久しぶり」

 やっぱり、どんな顔をすればいいのかわからなかった。怒っていないという意思を表明するために笑顔を作ったつもりだったが、少女には引きつった半笑いに見えていたかもしれない。俺は来客用の椅子に腰掛けて、少女の次の言葉を待った。

「お兄さんが来る前に頭の中を整理したつもりだったんですが、いざ対面したら、何から話せばいいのかわからなくなっちゃいました」

 眉を八の字に曲げ、照れたように儚く笑った。

「急かすつもりはないし、まだ話したくないことがあるのなら、話さなくてもいい。俺は君に会いに来ただけだから」

俺は少女から視線を逸らし、窓の外に広がる景色をぼんやりと眺めた。無機質な住宅街のはるか上を、大きな雲が泳ぐように悠々と流れていた。

「私、病気なんですよ。二年くらい前から」

 二年。少女が言ったその月日が、俺たちが出会うよりもはるか前のことを指していることは明白だ。あの日公園で出会った時には、既に少女の体は病魔に蝕まれていたということになる。

「お使いに行ったあの日、どうやら私は帰り道で倒れてしまったらしく、気がついたらここにいました。必ず帰ると言った日に限ってこうなるなんて、本当に私って人間は間が悪いですよね」

 自嘲する少女の顔は、しかし事態を笑い話として割り切れてはいないようにどんよりと曇っていた。

「体は大丈夫なのか?」

「あと四ヶ月、らしいです」

 少女は親指だけ畳んだ右手を力なく前に出してそう言った。

 それを聞いた時、その四ヶ月という数字は、少女が入院しなければいけない期間だと思った。解放されるまでの四ヶ月間、少女はここに幽閉され、俺は独りに戻ってその期間を耐えなければならないのだと思い込み、一人憂鬱な気分になった。それでも、四ヶ月待てば戻ってくるのだからと自分に言い聞かせて、なんとか鼓舞しようとした。

 しかし、すぐに自分の勘違いに気がついた。そうでないと願うばかり、無意識のうちに可能性から省いていた最悪のシチュエーションが、ひょっこりと姿を現した。

 これから四ヶ月間独りになるんじゃない。これから四ヶ月間しか、二人でいられないんだ。

 目を見開いて絶句する俺に、少女は「嘘です」とも「冗談です」とも言ってくれなかった。ただばつが悪そうに視線を逸らして、大きなため息を吐いた。

 沈黙が重苦しい。しかし、死ぬゆく人にかける言葉を持ち合わせていないことも、その場凌ぎの言葉に何かを変える力がないことも、俺は既に知っている。何もできないまま、刻一刻と貴重な四ヶ月が削れていく。

「お兄さんへの連絡が遅れてしまったのは、母親と色々話していたからなんです」

 外で倒れて病院に運ばれたら、真っ先に家族へ連絡がいくのは当たり前のことだろう。そのことは容易に想像ができたし、今更それについて追求する気もなかった。むしろ残り短い時間、何故俺なんかを態々呼び出したのかがわからなかった。家族との時間を大事にした方がいいのではないだろうかと思ってしまう。別れる時はしっかり「さようなら」を言わないと気が済まない(たち)なのだろうか。

「お兄さんにとって、普通って、何ですか?」

 脈絡もないその質問に、俺は答えあぐねた。それはあまりに突然のことで反応が遅れたとか、持論を展開したくないだとか、そんな理由ではない。

「お兄さんにとって、特別って、何ですか?」

 普通というのは、今までの俺のようなもので、つまらなくて、俺にとって嫌悪の象徴。

 特別というのは、理光のようなもので、興趣が尽きなくて、俺にとって羨望の象徴。

 ……本当だろうか?

 散々嫌っていた普通も、求めていた特別も、自分なりの明確な定義がないことを自覚していた。

「お兄さんは、そもそもどうして私が居候することになったのか、覚えていますか?」

 俺は少女の目を見て頷いた。もちろん覚えている。居酒屋で有働と呑んでいたあの日、閉店時間になっても飲み足りなかった俺たちは公園で缶ビールを開けていた。そこへやってきた一人の少女と流れに任せて雑談を交わしているうちに、少女が閉め出されてしまったことを知り、そして——少女の意図を、ここでようやく理解した。

 俺の仮説を確信にかえるように、少女は一つの鍵を見せた。

「閉め出されてしまったという話、あれは私の作り話です。親は海外出張になんて行っていませんし、鍵があるので帰ろうと思えばいつでも帰れました」

 俺はずっと、土台の上で間違い探しをしていた。渡された二枚の紙を見比べて、印刷された絵の中に相違がないかを探っていた。しかし実際は、印刷された紙の素材が違うように、手放しで表面を見比べてもわかるはずのない、土台の間違いだったのだ。

「というのも、私、母親とあまり仲良くないんですよね。私の意識が戻る前に、病院が母に連絡しちゃったみたいなんですけど、正直私は、連絡しないでほしかったです」

 それから少女は、自分に生い立ちについて、他人事のように淡々と、しかし思い出したくないものを無理やり吐き出すように訥々と語り出した。

 物心がつく前に父親を亡くしたこと。少女が大きくなってからも、母親は父の死を嘆き悲しみ続けていたこと。その衰弱しきった心につけ込まれたのか、母親が怪しい団体と連み始めたこと。その団体の連中が頻繁に家に屯するようになり、少女にとっての安息地が失われていったこと。

 聞いているだけでも耳を塞ぎたくなるような話が次々と告げられた。

「そこまではまだよかったんですが、段々と母が狂い出しましてね。いや、もう狂ってはいたのかもしれませんが、攻撃性が増したというか。父が死んだのはお前のせいだとか、お前が産まれてから家庭がおかしくなっただとか、色々言われました。私が学校で倒れて、運び込まれた病院で病気と余命を宣告されたのは、そんな時でしたね。母のこともあって学校での居場所も無くなり、家に帰れば狂人が待ち受けているんですから、その余命宣告は本当に嬉しかったです」

 少女はカバンの中から一冊のノートを拾い上げ、俺に差し出した。

「これをお返しします。私がお話したかったのは、この二つです。ずっと隠していてごめんなさい」

 それは失くしたと思っていた、俺の呪詛の篭ったノートだった。

「どうしてこれを、キミが?」

「初めて会ったあの日、お店の床に落ちていたんです」

「そりゃ俺が悪いな」

 受け取ってぱらぱらとページを捲る。何かが消された跡はなく、書き加えられた様子もない。尚更、少女が今までこれを抱え込んでいた理由がわからなかった。

「残り短い人生を、病院のベッドの上で過ごすことも、母のいる家で過ごすことも、私にとってはとても苦痛で、私は家を飛び出しました。死ぬまでに少しでも多くいろんなことを経験してみたくて、アルバイトをしてお金を貯めて、時には自分を安売りして、色々な人の近くに身を置きました。そんなある日、私はそのノートを拾ったんです」

 少女が指差すそれを再び開き、中に書かれた文字を読んだ。

 退屈だ。

 つまらない。

 今日も理光に煽られた。

 レールの上を歩きたくない。

 何か起きてくれ。

 思わず苦笑いが漏れた。これを見た大多数の人間は、おそらく引くだろう。けれど、少女は例外だったらしい。

「私にとっての普通というものは、家に狂人がいたり、学校に居場所がなかったり、余命が短いということなんです。あなたの嫌う普通は、私にとって特別で、いくら願っても手に入らないものでした。この人といれば、私もこの『特別』を味わえるかもしれない。そう思ったんです」

 少女と理光が重なった。彼女も似たようなことを言っていた。俺といたら普通になれるんじゃないか、と。彼女の気持ちがようやく理解できた気がした。

 同じ悲劇でも、大多数の人間が一目瞭然に納得するものと、一部の人間だけが共感できるものがある。おそらく、少女の人生は前者に、理光の人生は後者に属していたのだろう。だから俺は、理光の悲劇を理解できずに、少女の悲劇にだけ同情してしまった。

 そして、俺の人生はきっと、後者なんだと思う。普通を堪能できるという幸福の中で、誰もが一眼でわかる悲劇を抱えていないが故に、ありふれた日常が悲劇に成り下がった。露骨な悲劇を抱えている人間には理解されないが、同じような日常を過ごしている人間の中には、俺と同じような悩みを持っているやつもいるんじゃないだろうか。

「以前キミにあげたキーホルダーを押し付けてきた友人も、同じようなことを言っていた」

 少女と理光の悲劇の方向性は真逆だ。それなのに少女に理光の話をしたのは、もしかしたら俺よりは彼女の苦痛を理解できるのではないかと考えたからだ。同情が必ずしも薬になるとは思わない。けれど理光には、そういう仲間が必要だったと思う。

 過去を振り返るのは好きじゃない。けれど、過去しにかないものもある。



     9



 何だかすごい奴がいる。

 高校に入学してすぐの頃、俺のいた学年でそんな噂が立ったことがあった。曰く、頭脳明晰、容姿端麗、品行方正、運動神経抜群、加えてどこかの社長令嬢らしい。どこまでが本当かはわからないが、そんな噂がまことしやかに囁かれるくらいだから、要するに、特別な人間だ。

 この時には既に自分が特別な人間であるという錯覚と普通恐怖症に陥っていたが、認めたくなかっただけで、本心では自分が特別でないことを自覚していたのかもしれない。本当の意味で特別な人間であるそいつに嫉妬と興味を持っていた。

 時間が経つに連れ、噂がほぼ事実となっていった。定期試験で常に満点を取っている奴がいる。隣のクラスにとびきりの美人がいて、クラスのイケメンが告白したけどフラれた。体力テストも全項目でトップクラスらしい。流れてくる数々の逸話の中で、俺はついに『仙石理光』という名前を耳にした。

 その傑物と実際に対面したのは、学年が一つ上がってからだった。選択科目の授業教室に向かうと、座席表で俺の隣にその名前が記されていたのだ。俺は自分の席について、そいつがやってくるのをそわそわしながら待っていた。

 授業開始の五分前に満を持してやってきたその女生徒を見て、しかし俺は拍子抜けした。特別な人間というのは、存在するだけでそういったオーラが滲み出ているものだと、勝手に思い込んでいた。俺の思考が漏れて人が寄り付かないのと同様に、どこか近寄り難い雰囲気を醸し出しているものだと決め付けていた。

 しかしそいつは、二人の友人とにこやかに雑談をしながら現れ、既に教室にいた他の生徒とも親しげに語を交えていた。顔立ちは確かに端正で、言葉遣いも丁寧という点では噂通りだった。きっと頭も良くて、運動もできるのだろう。そういう意味では俺の理想とする特別な人種なのだが、しかしどこか違うように思えていた。今思えば、それは理光が裏で抱える苦悩が俺に伝わっていたからだろう。特別な人間に悩みなんてないと思っていたから、当時の俺はそれに気づいていなかったが。

 観察するように横目で睨んでいると、視線に気がついたのか、振り向いた理光と目が合った。にっこりと笑顔を作って会釈する彼女の表情がどこか癪に障って、俺はすぐに視線を逸らした。

 まともに会話をするようになったのは、そこからさらに一年後の話だ。

 就職する生徒と進学する生徒がおよそ半々であるこの学校では、卒業後の進路に合わせて三年生でクラスが分かれる。進学組は二組あり、俺と理光は同じクラスに配属された。それだけならまだしも、学期初め、進学組の中で同じ志望校の生徒を集めて傾向と対策を練るという講習会が開かれたのだが、幸か不幸か、俺が指定された教室には俺と理光の二人しかいなかったのだ。これを機に、嫌が応でも会話する機会が増えていった。

 それからというもの、理光から俺に話しかけてくることが増えていった。その上、今まで彼女を取り囲んでいた数多の友人よりも、俺との関係を優先しているように見えた。自惚れだろうか。しかし、他の連中の前では見せないような様々な表情を、俺の前ではして見せていたのが何よりの証拠だと思う。俺からしても、特別が向こうから近づいてきてくれているのだから、悪い気はしなかった。

 受験を間近に控えたある日、授業はなかったが、俺と理光は示し合わせて図書室で共に勉強をしていた。彼女は英語を、俺は数学を、各々黙々と進めていた。それならば別々に家でやればいいじゃないかと今では思うが、当時は勉強の場に理光がいることが当たり前になっていた。彼女は集中力が人一倍高い。そんな人間を間近に置いておくことで、自分もこいつには負けていられないと感化されていたように思える。結局、集まった午前十時から、図書室が閉まる午後六時まで、一言も言葉を交わさなかった。

 閉館のアナウンスが流れ、どちらからともなく片付けを始めて外へ出ると、そこへ見覚えのある二人組の女生徒がやってきて理光の名を呼んだ。俺は理光から少し離れて、会話をしている様子を茫然と眺めていた。話している内容は聞こえなかったが、理光は無理に笑顔を作っているように見えた。俺の前で浮かべる笑顔よりも、どこか硬いというか、本心から笑えていないように感じた。やがて理光は手を合わせて謝るような仕草をしたかと思うと、俺を指差して何かを口にした。俺を見た二人組は、何か衝撃的なものを見るかのように表情を引き攣らせていたが、すぐに理光と似た薄っぺらい笑顔を作ってから手を振って去っていった。どうせ、一緒に帰ろうと誘われたが、連れがいるとでも言って断ったんだろう。前にも何度か似たような場面に出くわしたことがあった。理光は、俺と違って人が良さそうなたくさんの友人からの誘いを断り、わざわざ俺と帰ることを選んだ。

 理光は離れていく二人の背中をしばらく笑顔で見送っていたが、見えなくなったあたりで急に表情を失い、まるで先生に叱られた生徒のように肩を落として戻ってきた。

「何でいつも、俺を優先するんだ?」

 ずっと気になっていた疑問を、この時初めて直々にぶつけた。

「三浦くんといる方が、気が楽だからね」

 先程の贋物とは明らかに違う表情で、気恥ずかしそうに微笑んだ。

 何となく歩いて帰りたかったから、学校を出た俺は駅とは逆の方向に歩き出した。厚着をしていても寒かった冬の夜、理光の言葉が内心をじんわりと暖めてくれていたような気がする。理光は白い息を手に吐きながら、何も言わずに俺についてきた。月明かりに照らされた夜道を、二人で並んで歩いた。

「皆はね、私との間に、何か一枚、壁があるような感じがしちゃうんだ」

 心地の良い静寂を遮って理光が口を開いた。その声もまた、聞いていて心が安らぐような、静寂とは別の心地良さがあった。

「住む次元の違う人間を敬虔してるんじゃないのか?」

「どういうこと?」

「理光は何でも出来るだろ。誰が見ても『自分より凄い人』に映るから、皆かしこまっちまうんだよ、きっと」

「それは買い被りすぎだと思うけどなあ」

 理光は悲しそうな目でころころと笑っていた。

「でも、三浦くんは、何か違うの。壁を感じないっていうか、本音で話せるような気がするんだ」

「俺が敵対心を持ってるからじゃないか? 怨敵に敬意を表する奴はいないだろう」

「怨敵?」

 理光は意味が理解出来ない様子で、きょとんと目を丸くしてこちらを見ていた。

「俺は誰もが歩くようなありきたりな道を歩くのが怖いんだ。でも、レールから外れることのできる特別な才能も持ち合わせていない。だから理光は、俺に取っての理想なんだ。そして憧れると同時に、自分の持っていないものを持っている人間を、恨めしいとも思う」

「……そっか」

 月に分厚い雲がかかり、辺りが急に彩度を失っていった。視覚がろくな仕事をしなくなった分、より研ぎ澄まされた聴覚が、理光の小さな言葉もはっきりと聞き取った。

「それでも、そんな理由で敬遠されちゃうくらいなら、私は三浦くんくらい普通な方がよかったな。そうしたら、もっと普通に友達とおしゃべりができて、もっと普通な将来の展望を描いて、普通の家族と、普通だけど幸せに暮らせたかもしれない」

 この理光の言葉を最後に会話は途切れた。道が別れるまで、俺は地面を睨みつけて、理光は空を仰ぎながら、とぼとぼと歩き続けた。お互い柄にもなく心の内をぶちまけ、且つ相手の本心を聞いた手前、この後相手になんて話しかければ良いのか、わからなかったんだろう。少なくとも俺はそうだった。

 別れ際、理光が「またね」と言って控えめに手を振った。俺は「ああ」とだけ言って、ポケットに突っ込んでいた手を挙げた。

 その後、お互い無事志望校に合格し、学部こそ違ったものの同じキャンパスライフが始まった。親の勧めもあって一人暮らしを始めた俺の家に、理光は時折遊びにきていた。どうせすぐ学部に友人を作ってそっちへ流れていくものかと思っていたが、結局卒業まで、理光は友人という友人を作らなかったようだ。もしかしたら作れなかったのかもしれない。かくいう俺も、有働とかいうネジの飛んだ輩としか連んでいなかったから、似たようなものか。

「キミと二人でぼんやりと過ごすこの時間、好きだったなあ」

 卒業式の後、俺の部屋で理光が作った料理を二人で食べている時、彼女はそう呟いた。持参した部屋着に着替え、持参した箸で野菜を口へ運びながら、彼女は一人で恍惚としていた。

「なんか、三浦くんのおかげで普通なんだけど、私のせいでどこか変。お互いがお互いを引っ張り合って、なんとか妥協できるところまで歪めてくれている。そんな感じがするの」

 理光の言いたいことは、何となく伝わった。実際に俺も、彼女が近くにいることで、間接的にではあるが、特別に片足だけ突っ込んでいるような気がしていた。だからいつも、理光と別れるのが嫌だった。自分独りの虚しさが、より一層際立ってしまうから。理光と会うのが嫌だった。必ずその時が来てしまうから。

「なあ、理光」

「でも安心して。この空間は好きだけど、キミを好きになったりはしないから。だって、怨敵に好かれても迷惑でしょ?」

 俺の呼びかけを遮って、理光は悪戯っぽい笑顔を浮かべた。否定したかったけど、意志が形にならなかった。やっとの思いで絞り出した声は、「そうだな」という心にもない肯定の言葉だった。

 翌朝、駅前の喫茶店で軽い朝食を摂ってから理光と別れた。

「じゃあね」

 別れ際にそう言った理光に違和感を覚えつつも、俺は「ああ、またな」と言って手を振った。しかし彼女はにっこりと笑うだけで、手を振ろうとはしなかった。改札の奥に彼女の背中が溶けていくのを見送ってから、俺は家に戻った。

 キッチンで手を洗っていると、ふと隣の乾燥台に理光が忘れていった箸が目に入った。引き返してもらうのも手間だし、どうせ近いうちに会うだろうから、その時に渡せばいいだろう。理光に箸を忘れているぞとメッセージを送ってから、独りきりの寂しさを誤魔化すように本を開いた。

 しかしそれ以降、理光には会っていない。もう、会うことはできない。

 その一週間後、俺の元に一件のメールが届いた。仙石というよく見覚えのある苗字に、理光とは違う名前が続いていた。その文字列が理光の母を指すということを、何故だか俺は知っていた。記憶に残っているわけではないが、きっと理光から聞いたことがあったのだろう。

 理光の母が直々にメールを送ってくるなんて、一体何の用だろう。俺は呑気にそんなことを考えながらメールを開いた。


 『仙石理光が昨晩、亡くなりました』


 趣味の悪い迷惑メールだと一蹴することも出来たが、何となく俺は、それが事実であることを確信していた。曰く交通事故だったらしいが、俺は自殺だと、今でも思っている。根拠はないが、前兆のような思い当たる節がいくつかった。

 悲しみは、驚くことに、感情の半分程度しか占めていなかった。残りの半分は、不謹慎かもしれないが、よかったじゃないか、と思っていた。ようやくこの生きづらい世界から飛び出すことができたんだ、おめでとう、と。いっそ俺も連れていってくれればよかったのに。 

 目を瞑ってから考えた。もしも、俺と理光の立場が逆だったら、どうなっていたんだろう。理光の立場に立った俺は、俺の立場にたった理光は、この世界がどう見えただろう。いくら考えても、答えが出るはずはなかった。


 理光の葬式の際、初めて理光の両親と対面した。厳しそうな人たちだったが、理光の死を心から嘆いているのは、俺の前でも無遠慮に流れ続ける涙が語っていた。

 二人の愛は、理光に届いていたのだろうか。理光はどれだけ追い詰められていたのだろうか。理光は本当に、俺のようになりたかったのだろうか。俺は本当に、理光を死に追いやった『特別』に、なりたかったのだろうか。

 段々と、普通が何なのか、特別とは何なのか、自分が何なのか、わからなくなってきた。思考を整理したかった。今ではもう唯一になってしまった友人を電話で呼び出すと、翌日が仕事だというのにも関わらず俺の誘いを快諾してくれた。一度頭を空っぽにして、また一から考えよう。そう決めた。

 居酒屋で酒を多分に呑み、しかしそういう日に限って頭は嫌に鮮明なままで、負の思考に抗うためにコンビニで買ってきた缶ビールを持ち込んで公園で追い酒をし、そして――


「俺はキミに出会ったんだ」



     10



 答えを出すにあたり、理光の死はあまりにも急な出来事だった。後一歩で目的地に辿り着けそうというところで、いきなり通行止めの看板が現れたような気分だ。だから俺は迂回路を探した。遠回りになってもいいから、当初の目的地に到達し、俺の意志、理光の意志を再確認したかった。

 少女を居候として家に置くことを許したのは、そうすることで、かつては理光に頼っていた普通ではない要素を供給できると考えたからだろう。理光の代わりというのは少し違うが、俺にはもっと時間が必要だったのだ。事実、最初の数日間は、その非日常を純粋に楽しむことができた。独りぼっちという普通の連続の中で、隣に少女がいるという期間限定の特別が、とても尊いものであると感じていた。普通の人間が一生をかけても経験しないであろう事態に身を置いていることに対して、優越感のようなものを抱いていた。

 では、いつからだろう。隣に少女がいることを『普通』だと感じるようになったのは。孤独をより嫌い始めたのは。

 気がついた時にはそうなっていた。当初想像していた以上に長い時間を少女と共有したからだろう。求めていた特別が日々の生活に順応し、普通に成り下がった。いや、違う。特別を普通と感じてしまうくらい、俺の特別のハードルが上がっていたのだ。

 この数ヶ月の延長戦で、俺はようやく解に辿り着いた。

 特別を味わい続けることは不可能である。普通を普通に過ごすからこそ、特別という一瞬の輝きがより一層綺麗に見える。

 毎日焼肉を食べたって、すぐに飽きるし胃もたれする。普段は一人で質素な料理を食べているからこそ、たまの休みに友人と食べる焼肉は、あれほど美味しいのだ。

 多分に時間を要してしまったが、二人のおかげで、ようやく俺は黒いループの外側に出ることができた。

「この期に及んで烏滸がましいことはわかっていますが、一つお願いをしてもいいでしょうか」

 ずっと口を噤んで話を聞いていた少女がおずおずと顔を上げた。

「俺が出来ることなら、何でも言ってくれ」 

 俺は食い気味に頷いた。

 理光にはもう、どれだけ感謝を伝えたくても叶わない。だからせめて、まだ間に合う人に、間に合ううちに。

 俺は何かお使いを頼まれるとか、院内を移動したいから付き添ってくれとか、もしくは車椅子を押してくれとか、そのような願いだと勝手に予想していた。このタイミングで、その他に俺に頼まなければならないような内容が想像できなかった。しかし少女は、いつも通り俺の予想の斜め上から話を切り出した。

「私のための小説を書いてほしいんです。もしも、私が普通の環境に生まれた世界で、あなたと出会えていたら、今とは違う今があるんじゃないかって考えちゃうんです。だから、あなたの考える、最も健全で幸せな、私との邂逅。あり得たかもしれなかったけどあり得なかった、そんな素敵な世界を、私に見せてほしいんです」

あまりに突飛なその頼みに、俺は思わず素っ頓狂な声で聞き返してしまった。

「余命を宣告されてから、やりたいと思ったことは何でもやってきました。しがらみになった学校を辞めて、個人経営の小さなお店でアルバイトをしてみたり、公園で野宿してみたり、髪色を明るくしてみたり。そして……」

 少女は気まずそうに上目でちらりとこちらを盗み見た。

「恋人というものに憧れていました。私のことを想ってくれる人がいつも隣にいてくれたら、それはどれだけ素敵なことだろうと、ずっと焦がれていました。手に入らないとわかっているものほど欲しくなってしまう、人間の悲しい性ですね」

 真っ白な腕と対照的に、頬がほんのりと紅く染まっている。

「だから私は、あなたを勝手に恋人だと思い込んで、空想の恋人にそうするように接してみました。そうすることで、虚しい自己満足を得られると思ったんです。でもあなたは、嘘だったとはいえ、私の境遇を聞いて心配してくれました。自分よりも私を優先してくれました。こんな普通じゃない私に、隣にいてほしいと言ってくれました」

 紅潮した頰の上を大粒の涙が流れ落ち、シーツにぽつぽつとしみを作っていった。少女はとめどなく溢れるそれを拭おうともせず、ただ真っ直ぐに俺を見つめていた。

「もしも私が、こんなんじゃなかったら。嘘で繕っていない、正直な私があなたと出会えていたら。もしかしたら、今とは違う今があったのかもしれない。今よりも先に行けたのかもしれない。でもやっぱり、主観的な妄想ではご都合主義になってしまいます。だからあなたに、夢の続きを見せてほしいんです」

 端から断る気なんて毛頭ないが、少女のその表情は、改めて俺に喝を入れてくれた。生半可な覚悟で臨んでは、返って少女を傷付ける結果になる。今まで一度も成功したことのない最適解探しを、今度こそ成功させなければならない。

「喜んで引き受けるが、どうして小説なんて回りくどい方法を選んだんだ?」

 少女は俺の抱えるノートを指差した。

「そのノートに書いてありましたよ。作家になりたいって。その夢はもう、昔に置いてきちゃったんですか?」

 俺にとって作家という職業は、特別の代名詞のようなものだった。言ってしまえば、世界の創造主なわけだ。世界を造り、人々の心を動かすことができる作家というものにかつての俺が憧れるのは、ある意味で至極当然のことだった。ずっと閉じ込めていたかつての夢が他人にバレるのは、存外恥ずかしい。「いや」とか「それは」とか必死に言い訳を探す挙動不審な俺を見て、少女はくすくすと笑っていた。

「いいじゃないですか、作家さん。お兄さんによく似合ってると思いますよ」

「まあ、一度夢見たんだ。忘れ物を探すつもりで頑張るが……あまり大層なものを期待しないでほしい」

 かくして、俺の創作と妄想の世界に没頭する日々が始まった。

 机の隅で埃をかぶっている卒業研究用に拵えた安物のノートパソコンを叩き起こし、ひたすらキーボードを叩いて頭の中の世界を形にしていった。行き詰まったらベッドに横になって空想の続きを描き足し、それも難航した時はふらふらと散歩に出かけ、理想とは真逆に位置するこの世界をじっくりと観賞した。

 しかし、俺が想像していた以上に、何かを作り出すという作業は難しいことらしい。ある程度書き進め、読み直し、しかしどこか腑に落ちずにゴミ箱に放り込む。それが何度も続いた。

 俺が少女に伝えたいことはこんなことなのか? これが最善なのか? いや違う。

 自問自答を繰り返し、段々と理想の世界に靄が広がっていく。筆が進まない。しかし見舞いに行くたびに弱っていく少女を見て焦燥感に駆られる。とりあえず何かを書こう。そんな適当な気持ちで書いた文章を見て、さらに気が沈んでいく。完全な悪循環に囚われていた。

 ここで一度筆を置くという選択をしたことは、我ながら英断だったと思う。気分を紛らわせようと、売らずに取っておいた俺にとって大事な小説たちをぱらぱらと捲っていた時、ある作家の後書きが偶然目についた。

『僕たちは起承転結の元に、理想とする世界を文字に乗せて作り上げる。感動的だったり、常識外れだったりするその世界は、とても綺麗で、儚くて、尊くて、しかし作者によって仕組まれた事象しか起こらない。そういう意味では、誰にも予想もできないどんでん返しが起こり、僕たちの心を根底から揺るがしてくれるのは、筋書きなんて用意されていない、現実の方なのかもしれません』

 かつてその意味も考えずに一蹴したこの言葉が、今ならよくわかるような気がした。理想の世界が、常に文字の中にしか存在し得ないわけではない。時には現実が最善の形をしている場合もあるのだ。

 俺と少女の歩いてきた道を、そっくりそのまま書き記そう。

 少女の本意とずれてしまうかもしれないが、俺はその結論が間違っているようには思えなかった。

 俺と少女の道が交わった交差点まで戻ると、少女と出会ってまだ半年程しか経っていないことに驚愕しつつ、そこから再度頭の中で来た道を歩き出した。現実を文字に起こすだけだったから、一から新しい世界を創造するよりも、はるかにとんとん拍子で進んだ。そして何より、現実離れした突飛な出会いと共同生活は、俺が作り出した理想的でありきたりで胡散臭い世界よりも、圧倒的にすんなりと納得ができた。俺は何かに取り憑かれたようにキーボードを叩き続けた。それは朝まで続いた。

 鳥の鳴き声が聞こえ始めた辺りで、俺の不細工な物語はなんとか形になった。カーテンを開くと、久しぶりに拝む紺色の空がどこまでも続いていた。独りの頃はこの空が就寝の合図だったが、少女にそのサイクルを狂わされたことで、いつしかこの色すら忘れてしまっていた。

 繰り返された特別が普通に成り下がるように、間を置いた普通が特別に成り上がるということもあるらしい。普通だと思っていた普通じゃない色の空に包まれながら、俺は面会時間まで仮眠をとった。

 案外疲労が溜まっていたのか、予定よりも長く寝入ってしまったらしく、目を覚ますと時計の針が十二の位置で重なっていた。紺色は跡形もなく溶け、文字通りの空色に塗りつぶされていた。俺は大慌てで身支度を済ませてから、少女が待つ病室に向かった。

 入り口の引き戸を開いた先で、少女はいつも通り上体を起こして、退屈そうに窓の外を眺めていた。少女の元に歩み寄ると、窓の手すりに止まっていた二羽の雀が、俺の影を察知して逃げるように飛んで行った。その後ろ姿を名残惜しそうに見送ってから、少女はゆっくりと視線をこちらに動かした。

「ありがとうございます。楽しみにしてました」

 担いできたノートパソコンをベッドテーブルの上に置いて電源をつけた。緑色のランプが光ってから、大層な映像効果と効果音を引き連れてメーカーロゴが姿を現す。一連の流れが、まるで物語のオープニングのように見えた。

「念のため、先に謝っておく。キミが求めている内容とは、大きく違うものになってしまったと思う」

 寒々しいデスクトップの上に転がった一つのテキストファイルをダブルクリックし、それが開かれるのを待った。どうやら俺は緊張しているらしく、たった数秒間のその間が、判決を待つかのように息苦しく、長く感じた。

「正解なんてないと思います。小説にも、現実にも」

 その一言が、俺の背中を押してくれたような気がした。

 ノートパソコンの使い方がわからないという少女に最低限の操作を教えてから、俺は一度病室を出ようとした。少女が読んでいる間、俺はこの場にいない方がいいような気がしたのだ。自分が書いた物語を目の前で読まれるのが気恥ずかしいというのもあるが。しかし少女は、俺の手を掴んだ。

「私が読んでいる間、こうしていてください」

 多分、少女は俺の手を握ろうと、力を入れたのだろう。しかし、その力はあまりにも弱かった。それが元からなのか、病魔の進行に寄るものなのかはわからないが、考えたくなかった俺は、その手を優しく握り返した。くすぐったそうに微笑む少女が愛おしくて、俺は空いた左手で少女の頭を撫でた。

 教えた通りにタッチパッドをスライドしながら、少女は俺たちの物語を少しずつ歩き直していった。何もかもが不自然な瞬間に俺たちは出会い、一つ屋根の下どころか一つの部屋で共に過ごし、時には疑い、時には頼りながら、二人分の道幅をゆっくりと歩いてきた。

けれど、その道は途中で崩落していて、そこからは一人分の道しか延びていない。そしてその瞬間は、きっと手を伸ばせば届いてしまう距離まで来ているのだろう。だからここからは、ちょっとだけ先の未来の話。

「やっぱり、私は死んじゃうんですね」

 物語を読み終えた少女は、ノートパソコンから手を離してゆっくりと目を瞑った。その結末を否定するわけでも、悲観するわけでもない。しかし受け入れるにしてはまだ整っていない覚悟と勇気を、ゆっくりと培っているのだろう。

「俺たちが今この世界に生まれてこの世界で生きているのは奇跡のような出来事だ。けれど、そこに住む人々が皆いずれ死ぬということは、至極普通なことだろう。未来のことなんて俺にはわからないけど、その場凌ぎの希望を煽る大団円は、バッドエンドよりも悲劇的だと思うんだ」

 お気に召さなかったか訊ねると、少女は目を瞑ったまま口元を緩めて首を横に振った。

「実は私も、書こうとしたんです。図書館で物語の書き方っていう本をたまたま見つけたのがきっかけでしたけど、今の自分を慰める手段になるんじゃないかなって思って、試してみました。でも、空想の私にいろいろな方向からの助け舟を出してみたんですが、いまいちしっくりきませんでした。同じ名前がついた赤の他人を遠くから眺めているようで、どうしても自分とは関係のないお話にしか思えなかったんです」

「平日の昼間に図書館で何をやっていたのかと思ったが、そういう事だったのか」

 俺はようやく納得して一人で笑った。

「バレていたんですね」少女ははにかんだ。「嘘をついて転がり込んでいる手前、せめて境遇以外は普通の人間であるように見せないと、疑われてしまうかなと思ったんですが、今考えてみれば、そのせいで嘘を塗り重ねた上に、お兄さんと一緒にいられる時間を削ってしまっていたんですよね。馬鹿な私です」

「馬鹿なキミと阿保な俺だったからこそ、こんな素敵な今があるんじゃないか。キミが何不自由ない家庭で育っているか、俺が普通に怯えていなかったら、そもそも俺たちは出会うことすら叶わなかっただろう」

 少女は強く頷いた。

「その事に、私は気づけていなかったんですね。このお話のおかげで、初めて私の人生を肯定してあげることができそうです」

「過去に分かれ道に突き当たった時、今とは違う道に進んだ自分を想像したところで、それはもう自分じゃないんだよな。だから、過去を振り返るよりも未来を考える。遅かれ早かれ訪れる死を、自分がなし得る最善の形で迎えた自分。それが一番、納得できる理想なんだろうな」

 そして少女は、図らずも最善の形でそれを迎えることができるだろう。仮にまだ届いていなくても、俺がそこに連れていく。

「いつかお兄さんが書くかもしれない、他のお話を読めないのだけが心残りです」

「万が一書くことがあったら、君のお墓に持っていくからさ。そこで一緒に読もう」

 少女は大きく手を広げた。俺は来客用の椅子から立ち上がり、少女を抱きしめた。少女の細く、脆く、柔らかい体を、しっかりと。

「私、生まれ変わったら桜になりたいです。普通で面白味はないかもしれないけど、みんなから愛されて、散り際も、散った後も、精一杯生きた証を美しく残す、桜に」

「キミならなれるよ」

 少女の嗚咽が室内を満たす。俺はいつまでの少女の背中をさすっていた。窓の外で滲む夕日が、嫌に目に染みたのを覚えている。

 俺と少女の二人分の道は、それから一ヶ月だけ続いた。



     11



 俺を呼び出した有働は、既にライオンのオブジェに座っていた。一人で先に飲んでいたらしく、足元には潰れたビールの空き缶が一本転がっていた。挨拶をしてからゾウのオブジェに座ると、彼はゆっくりと視線を動かし、そして口元を歪めた。

「お前のその格好、やっぱ慣れねえや」

「ああ、俺もだよ」

 一通り笑ってから乾杯をした。

「それで、最近どうよ」

 有働のその言葉に、どこか懐かしさを感じた。

「どうってなんだよ」

「仕事だよ。始めたんだろ?」

 一年前の鏡のような会話に思わず笑みが溢れる。有働もわざとやっているのか、終始ニヤニヤしていた。

「ああ、おかげさまでな」

 缶を持つ俺の手に、一片の花弁がひらひらと舞い降りた。見上げると、遅咲きの桜が一木、切れかけの蛍光灯に照らされていた。

 この春、俺は有働に勧められたIT企業に流されるまま入社した。ようやく舗装された道を歩き出したわけだ。不安や恐怖、嫌悪がないと言ったら嘘になる。けれど、まともに歩いたこともないのに嫌っていたその道を、理光と少女が求め続けていたその道を、嫌うのは一度歩いてからでも遅くないと、今なら思えた。

 それでもやはり、普通であり続けることは、俺に限らずとも難しい。どこかでつまずき、変わらぬ景色に飽き飽きし、投げ出したくなる時もくるだろう。そんな時は、無理せず立ち止まり、寄り道をして、川沿いを歩こうと思う。そんな気分転換も新鮮味を失ってきたら、俺は俺なりの寄り道を考えよう。その時はまた、筆を執るかもしれない。


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― 新着の感想 ―
[一言]  普通とは何なんでしょう。  特別な人は普通に興味を持ち、普通は特別に興味を持つというのは現実味があります。自分は普通に生まれていたら、どうなっていたのかなと思います。
2021/07/17 12:03 退会済み
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