幸福な遺書
[プロローグ]
部室の奥に置かれた応接セットのソファで二人きり、僕と彼女はテーブルを挟み、向かい合って腰掛けている。
「これは、どう?」
笑って僕に、バッグから取り出した紙切れを差し出す彼女。
その笑顔を楽しみながら紙片を受け取る。
そして、しばらく睨むようにして読む。
「わかる?」と彼女。
僕は、余裕たっぷりの顔で答える。
「アシタハニチヨウビ」
彼女の顔が悔しそうに歪んだ。
「どうして分かるの?」
「法則さえ見抜けば簡単だよ。それに、パターンはシンプルなほうがばれにくい……かな」
僕のその言葉に彼女は呻いた。
その時、音を立てて部室のドアが開いた。ドアの前に設置してあるスリガラスの嵌まった衝立に透ける人影――入ってきたのは男と分かる。
男の呼ぶ声。応え、彼女はバッグを持って立ち上がり、見上げる僕と視線を合わせた。彼女は幾らか弾んだ声で僕にまたね、と言って、その人物と一緒に部室を出て行った。
[僕]
私がまだ学生だった頃。
一月三日。
ゆっくりと僕は地下鉄の階段を上った。気圧の違いで吹く風が僕のコートを容赦なく巻き上げていく。ひどく冷たい風に思わず頬が引きつる。
地上に出た。ケータイで時間を確認すると午後六時をほんの少し過ぎていた。
――いけね。
僕は重い足取りで歩き出した。街は、年が始まったばかりだというのにそこそこ店が開いている。
――あぁ、行きたくない……。
僕は今、一つの予感にとらわれている。
昨日の夜、水原に呼び出された時、何故かいつものように気軽に返事が出来なかった。
と言うのも、色んな場面、その時々に、「おや」と感じることが増えていたからだ。自分の周りにいる人達が、普段は取らないような行動を取ったり、絶対言わないような台詞を言ったり――そんなことが。
「おや」が僕の中でどんどん積み重なって、首を捻ることが一日のうちにどんどん頻度を増していて。
考えてみたら、居酒屋に来る前から僕は答を知っていたんだと思う。積み重ねられていた疑問符を無意識の内に寄せ集め、体系化し、推論を立てていた。そうでなければあの場であんなに冷静でいられた自分を説明できない。落ちると分かっている大学の合格発表を見に行った時のように、「やっぱり」という気持ちがあった。
「遅かったな」
居酒屋の座敷に上がると端っこに座っていた水原が声をかけてきた。周りにはサークルの知った顔が何人もいる――どうやら僕がいちばん遅れて来たようだった。
「ごめん、起きられなくて」
曖昧に僕が笑うと、彼も曖昧な笑顔を返した。
周りの人間はとらえ所のない笑顔でめいめいお喋りをしている。僕は空いている座布団に座り、辺りを見回す。
見付けたい顔は水原の隣にいた。彼女は、長い黒髪を後ろで束ね薄い青のワンピースを着ていた。僕と目が合うと無言で口角を上げ、軽く手を振ってくれた。
「さて」
水原が顔をゆっくりと隣に座る管野はるかに向けた。僕の予感が最悪の形で――現われようとしていた。
「えー、個人的なことなんだけど」
前置きする水原、相変わらず男前だ。
「三月に卒業したら、俺たち結婚します」
照れたような顔。
――男前がはにかむ顔なんて見たくないなぁ。
ヒュー、と誰かが口笛を吹き、一斉に拍手となった。
――にしても、やっぱり。
心の中で「受験票」を握り潰した。受かりっこないと分かっていたからその落胆は小さなものだった。最初から分かっていたから。管野はるかがいつも、誰を見ていたか知っているから。
「――そっか」
ため息とともに、僕はそれだけを言った。
「何だよ、もっと……」
「おめでとう水原。それから――管野さん。どうぞお幸せに、ね」
それを聞いて、水原は僕をちりっと睨んだ。
「――本心、ってことでいいんだよな?」
いつもは明るい水原の声が、どことなくとげとげしかった。
全員にビールの行き渡る間、僕はずっと上の空で何もない空間を見ていた――ありもしない自分の受験番号を探すように。
誰かが乾杯の音頭を取り、全員がグラスを合わせていく。
かちん、かちん――グラスがぶつかるごとに僕の中の感情がぷちぷちと潰れていくようだった。言いようのない悲鳴を上ながら。
「かんぱーい」
隣にいた女の子がそう言って僕のグラスを弾いた。
かちん。
――まあ、そりゃそうだよね……。
自分が泣きたいのか、落ち込みたいのか、とにかくこの場だけでも冷静になろうと思った。
あんなに苦いビールを飲んだのは、あの時だけだった。
一月六日。
傷心の僕が部屋でぼんやりしていると夕方になってケータイが鳴った。二つ折りケータイを開いて発信者を画面で確認する――意外な人物、僕はケータイを落としそうになってお手玉してしまう。番号を交換したことは覚えていたが、かかってくるとは思わなかった。どうにか着信音が途切れる前に、受話器のボタンを押す。
「も、もしもし、菅野さん?」
「そうそう。ごめんね、急に電話しちゃって」
「いや、それはいいけど……な、何の用、かな」
落ち着け、一体何をそんなに慌てているんだ――自分に言い聞かせた。
「ええと……ちょっと会えませんか?」
おずおずとした彼女の言葉に、僕の頭の中がゆっくりと真っ白になって行く。先日、水原との婚約を聞かされたばかりだ。
「今からどうですか?」と管野はるか。
「いや、けれど……」
「あ、大介さんのことですか? なら、心配要りませんから」
「……分かった、どこで?」
僕の返答に、彼女は少し弾んだトーンでここから二つ先の駅前を指定してきた。
――遅いな……。
見上げると、黒い雲が張り出していた。
雨になる空だと思った。
駅前で、僕はケータイの画面を睨んでいた。
もう指定の時間を一時間オーバーしている。
ため息をつく。
雨になる空だと、もう一度思った。
――からかわれた?
タチの悪い、僕の管野さんへの気持ちを知っている誰かの悪戯? そう言えばあの電話の声は微妙に彼女の声とは違っていたような気がする。誰かが彼女のケータイを借りて……?
――どこかで僕を、笑ってる?
ぽつぽつと雨が落ちてくる。
僕は空を見上げる。辺りを見回す。サークルの連中の顔を一人ひとり思い出しながら、彼ら全員を心の中で罵倒し、僕は踵を返した。
管野さんが亡くなったことを知ったのは二日後、一月八日だった。日曜日で、朝から酒でも飲もうと思い準備していた時、ドアがノックされた。
「はい?」
「――俺だよ」
くぐもった声がして、田渕だと分かりドアを開ける。
「どうしたんだ、来るなら電話くらい――」
そこで僕は口篭もる。目の前に立っている田渕が何となく容易ならざるものを持っているような気がしたからだ。少なくとも、素面でも饒舌に喋るいつもの田渕ではない。
「――まあ、上がったら?」
そう促すと、田渕は神妙な顔つきのままで靴を脱いだ。
「で、何の用?」
僕は、ビールでも出してやろうと思って冷蔵庫を開ける。
「管野さんが」
田渕はそれだけをまず言った。よく見ると、真っ青な顔をしていた。
「大変なんだ」
「何だよ、お前らしくない。どう大変なの?」
僕は缶ビールを渡す。
「な、亡くなった」
全く予想外のその言葉を僕は危うく聞き逃しそうになった。
「は? 冗談だろ?」
笑って取り合わない僕に、田渕は目を剥いた。
「いや、本当なんだ! か、管野さんが……!」
僕は、まだ冗談だと思っていたから話の内容を理解しようとせずに、いつ田渕がオチを言うのかその時のリアクションだけを考え始めていた。
だが、彼の次の言葉は。
「一昨日、電車にはねられて――」
この言葉も僕は聞き逃しそうになった。その時になってやっと目の前の田渕の顔が嘘や冗談を言っている顔ではないことに気付いた。
「そ、そんな……、嘘でしょ?」
声が上擦る。僕は思わず彼の肩を掴んでいた。
「――本当に、管野さん?」
「駅のホームから転落してやって来た電車にはねられたそうだ。事故か自殺か、今のところは分からんが、多分事故だ――そうに決まってる」
確かにその通りだ。彼女が自殺をする理由は何処にもない。
その時ふと一昨日の電話の件を思い出した――待てよ、駅?
「駅にいたって……じ、時間は?」
「一月六日、午後五時半過ぎだったらしい」
頭がわあん、と鳴った。
――それじゃあ、あの電話は……。
僕は顎に手を遣る。
彼女は、本当にこの部屋に電話を掛けてきたのだ。
僕に、会おうとして。
――嘘だろ……。
茫然となっている僕を田渕が怪訝そうに見た。
「おい? 大丈夫か」
管野さんを想っていた僕を知っている彼の問い掛け。
「あ、うん。大丈夫」
僕が何とかそれだけ言うと、田渕は幾分声に力を込めてこう言った。
「お前も辛いだろうが、水原がもう――メチャクチャで。一昨日からずっと酒浸りらしい」
気持ちは分かる。僕が奴の立場だったら、それくらいでは済まない。
「ほら、お前は水原と仲が良かっただろ? だから、何とかお前に……」
「分かった、行こう」
僕はコートを取った。
「水原!」
僕達は彼のアパートで、ドアチャイムを鳴らす。
どれほどの悲しみに沈んでいるかわからない、そんな相手にどう接すればいいのか、僕にも田渕にも答えはない。それでも何かせずにはいられなかった。
少しして、がちゃ、とドアが開けられた。
中から出てきた、目付きの悪い男と目が合った。男を見た途端、軽い驚きを覚えた。ほぼ同時にその驚きを相手に悟られないように急いで飲み込んだ。
――こいつ……。
目の前に立っている人物は水原のはずだった。けれど、数日前の笑顔や余裕は欠片もなくて、ただ、ぼんやりとそこに立っている。とても水原だとは思えなかった。彼の脱け殻だけが、目の前にいた。
「み、水原……」
恐る恐る声をかけた。管野さんは死の直前、僕に会いに行っていたのだという後ろめたさがそうさせた。
気を落すなよ、とか、彼女のためにもお前が、とか、そんなありきたりな言葉が僕の身体を素通りしていく。
水原は小さく口を開くと、はっきりしない抑揚でこう言った。
「帰ってくれないか」
ぞっとするような声だった。
そして、僕が何か言いかける前に水原は踵を返し、僕の鼻先で乱暴にドアを閉じた。
田渕が、僕の肩を叩いた。
「気にすんな。今は混乱してんだよ。あいつだって、お前が来てくれて嬉しいんだ」
「う、うん……」
そう言ったものの、
――彼女が死んだ駅は、僕のアパートから近い。
水原は気付いているかもしれない。
けれど、いま僕がそれを言ったところで何になるのだろう。
管野さんはもう、ここにはいない。
管野さんにはもう、誰の声も届かないのだ。
僕がささやかな罪の贖いを申し出たところで、一体誰が救われる?
もう、以前の世界ではない。一つの存在が欠けたのだ。
目を閉じると、記憶の中の管野さんの笑顔と目が合った。
彼女と交わした会話の全てが、僕の深いところでオーバーラップする。
――ねえ?
彼女に声をかけた。だが、言葉を返すべき人は、既にない。
それなのに笑顔だけは、記憶にあるのだ。
僕は声を立てずに泣いた。
結局、あの日、管野さんが僕に会いに来ようとしていたことは誰にも言えなかった。僕の心のどこを探しても、その勇気はなかった。
言えぬ言葉を抱いたまま時が過ぎた。いつしか水原とは疎遠になっていった。あの日以来、ろくに会話もないまま。
[私]
目を開けるといつもの風景の広がりを感じる。
大して高くもない天井にぽつんと電灯が一つ。首を転じると妻が寝息を立てていて、その先に二歳になる息子が見えた。
枕元の時計を見ると午前六時。夏の朝、空気はまだひっそりとしている。二度寝の欲求を何とか潰して起き上がる。ふと、妻の寝顔が目に入った。
その寝顔に滲んでいる淡い衰えに、私は顔をしかめた。
洗面台の前に立つ。彼女の顔と、私の顔――鏡に映った私のそれも、昔よりも緩やかに、確実に――衰えていた。
ため息とともに色々なものを追い出そうとしてみる。だが、上手く行かない。
着古したスーツに袖を通し五年以上使い続けている青のネクタイをしめた。
振り返り、二人の寝顔を確かめて家を出る。
駅に着くと、ラッシュアワーを直前に控えて不気味に静まり返っていた。
私は定期を取り出す。
「――さん?」
誰かに自分の名を呼ばれて反射的に振り向くと、見たこともない女性がそこにいた。歳は四十前後だろうか。
「ああ良かった、やっと会えた……突然申し訳ありません、私、森村洋子と言います」
見覚えのない顔だ。
すると女性は、お仕事でしょう、取りあえずホームに上がりませんか、と言って私を促した。
改札を抜け、ホームへの階段を上がりながら森村洋子と名乗った女性は私の前で振り向かずこう言った。
「誰だか、分かりませんか?」
言われた記憶を辿る。私は首を振った。
「そうでしょうね。直接お会いしたことはありませんから」
次の一言で、私は階段を踏み外しそうになる。
「私、旧姓は管野と言います」
思わず立ち止まる。
「かん――の?」
「管野はるかの妹です」
動揺する気持ちを隠し、何とかホームに上がり切る。
改めて隣に立った洋子の顔を見た――言われてみれば、どことなく。こちらの戸惑いを余所に彼女はバッグから一通の封筒を出す。あなた宛てです、と言い添えて。
受け渡されたのはひどく傷んだ封筒。宛名は何処にも書かれていない。
「どうしてこれが私宛てだと?」
洋子は確信めいて微笑む。
「あなたですよ。それは、姉からの最後の手紙ですから」
目をみはる。『ちょっと会えませんか』――管野はるかの声を鮮明に思い出す。
中を見ようと焦るあまり封筒を取り落としそうになる。
封は既に切られていた。黄ばんだ紙片が一枚、折り畳んで入れてあった。
「大介さんが、そこに書いてある人物があなただとやっと教えてくれました。長いこと――大介さんはその手紙を仕舞い込んでいたんです。誰にも、見せず」
思わず紙を見た。そこには懐しい、管野はるかの文字。
「どうして今頃になって?」
「分かりません。ある日、突然教えてくれました――やっぱり、はるかに悪いよな、って」
電車が入って来た。
「あ、どうぞ、行って下さい」私は乗り込む。
「あなたは? 乗らないんですか」
振り返り、私は聞いた。
「この近くが仕事場なんです。あなたを偶然見かけて――」
洋子はそう返事をした。
発車のベル。ドアが閉まる寸前に洋子はこう言った。
「封筒の中に連絡先を入れてあります。もし良ければ、手紙の意味を教え――」
そこでドアが閉まった。ごとん、と動きだして、物理的に彼女の姿が横へスライドした。
私は、森村洋子の姿が見えなくなるまでじっとそこから動かなかった。そして、電車がスピードに乗り切ったところでようやく緊張を解いた。
――今に、なって。
人気の殆どない車内で私は立ち尽くした。
――あの日彼女は、私に会いに来ようと。
その事実を、森村洋子は知っているのだろうか。
座席に腰を降ろすと、私は手紙に目を通していった。
『
すごくあなたに伝えたいことがあったのに。ところが、しばらく会えなかったね。
やっと気が付いたの。天罰は、あたしの中にあるのかなって。
だから遠くに行こうと思います。もう戻れないかもしれないけれど、私だけの旅へ。
そこは。黄昏に満ちた、世界だと思う。
ありがとう。ノクターンを、二回も弾いてくれたね。
残念だけど三回目の約束は旅に出るから。叱られそうだけど、なかった事にしてね。
それが天罰。神様の、リクエスト。
私は最初の夜を目指します。尽きることのない、真っ暗な夜を。
そしてあなたという想い出を胸に暗やみへと旅立ちます。例え、全てが手遅れでも。
』
――嘘だ。
その短い手紙は私を打ちのめすのに十分だった。彼女が私に見せようとしたものは、あまりにも他愛なかった。
私はきつく目を閉じる。彼女の死因が自殺でこれが遺書だったなら、その方がまだ納得できるとさえ思った。
不覚にも涙が出た。わざわざ、こんな下らない紙切れ一枚渡すために彼女は亡くなってしまったというのか? こんな馬鹿げた手紙を、私に見せるために?
電車に揺られながら私は滲む涙を抑えることが出来ない。管野はるかが、どうして私に会いに来ようとしたのか、その全てを理解した。
自殺ではなかった。
やはり、事故で亡くなったのだ。
もういちど手紙を見た。
この手紙を渡すために、彼女は私に会おうとした。
恐らくは今度こそ私に「勝つ」ために。
――甘いよ……。
この程度で勝てると思ったら、大間違いだ……。
私は声を殺し、ただ泣いた。
[はるか]
「姉の遺品でした」
駅前の喫茶店で、私と洋子は向かい合って座った。
「ズタズタになったバッグから、よほど大事にしまっていたのかその手紙だけは無傷で出てきたそうです」
散々迷った挙げ句私は洋子に連絡を取った。幾らか私の罪を贖いたい気持ちに抗えなかった。
洋子がテーブルの上に広げられた意味不明な手紙に目を遣る。
「姉が亡くなって来年でちょうど二十年です。それを前に大介さんは手紙をあなたに見せる気になったのかも知れません」
「水原は、今?」
「小さな商社で課長をしています――独身のまま」
そこで一拍置いて、洋子は次の言葉を言いにくそうに言った。
「遺書、なんですよね? やっぱり」
「いいえ。彼女は自殺なんかじゃありません」
軽い驚きを見せる洋子の瞳。私は居住まいをただした。
「あの日、彼女は」
「あなたに会いに行こうとしていた、でしょ?」
驚いた。そして、やはり水原も気付いていたのだと思った。
「知って――いたんですか?」
洋子は顎を引いた。
「あの路線なら行けるのはあなたのアパートだけだと、大介さんが」
私は俯いた。責められると思ったからだ。どうしてあのとき言ってくれなかったのかと――。
目を閉じる。ウィンドウ越しに差し込む西日が瞼に沁み込んだ。
「姉は」
洋子は淡々と続ける。
「その……大介さんとの結婚ではなく、あなたとの結婚を望んでいたんでしょうか」
あまりに意外なことを言い出した洋子を思わず見返す。
「それは、どういう――?」
「ですから……ですから本当は……あなたのことを?」
私は少し、笑った。
――そんなことは有り得ない。少なくとも管野はるかは、幸せになろうとしていたのだから。
冷めかけのコーヒーを少し飲む。
これから言うことで洋子がどんな表情になるか、殆ど予想はついていた。
「昔、彼女と何度かゲームをやったことがあります」
「ゲ、ゲーム?」
「ええ。ある法則にしたがって文章の中に隠れた言葉を拾いだしてつなげる――一種のパズルゲームです」
「はあ」
「どうしてそんなことをするようになったのか、私もよく覚えていません。私が何回やっても解いてしまうので、彼女はむきになって色々なパターンのものを作っては解けるかどうかを聞きました」
そこで言葉を切って、私は洋子が気付くのを待った。さいしょ何のことか分かっていない様子だった。だが、私がそれ以上何も言わないのを見て考える素振りを見せる。
ほんの少し沈黙があった。
私にとってはひどく長い一瞬だった。
やがて、彼女が小さく息を吸い込むのが聞こえた。
「そんな……」
自分の考えを否定して欲しいのか、洋子は縋るような目で私を見た。
「まさか?」手紙に目を移す。
私は無言によってその問いを肯定する。
「冗談でしょ? そんなことって……」
無言を続ける。
「真実」のあまりの意外さに、彼女は愕然として肩を落とした。
「お姉さんは、私に新しいパズルを見せたかったんだと思います」
「じゃあ……じゃあ、遺書では」
私は首を振る。これはただのパズルです、と心の中で言った。
「嘘……」
呟いて、それきり固まった。
長い間、遺書と思っていたのか、自分の姉は自殺したと、思っていたのか。
――違うんだ。
また沈黙になった。洋子がこの事実を受け入れるための時間だった。無理もない、自分の姉がパズルを見せに行く途中で事故に遇ったなど想像できるはずもない。
「……何て、書いてあるんです?」
ぽつりと彼女が聞いた。
「ご自分で読んでみませんか」
私はテーブルの上の紙片を彼女の方に向けごく簡単に説明する。パターンはシンプルなほうが、ばれにくい――いつか自分が言った台詞を思い出した。
「『。』の次の文字を順番に拾ったあと、『、』の次の文字を、同じように順番に拾うんです」
言われたように洋子は読んだ。私は指定の文字が漢字の場合は平仮名に直して最初の文字だけを拾うんです、と付け加えた。
「トテモタノシカッタ。シアワセニナリマス」
言い終わった洋子の目から、涙が溢れた。
「しあわせに、なります……」
遠い昔、自分の姉が確かに幸せになろうとしていたことが洋子を打ちのめしたのか。幸福は、確かに目の前にあったのだ――そう思えば思うほど、こんな下らないパズルのために落命した姉のことがどうにもやり切れないに違いなかった。
「お姉ちゃん……」
子供のような声で、遠い場所に居る姉を呼んだ。しゃくり上げる。
「パズルだなんて」
もう一度、紙切れを見た。
「そんなことだったなんて……」
ぼろぼろと泣きはじめた。周りにいた人間が私達の方を見て、興味深そうに口元を歪めた。
「そんなこと、いつでもできたじゃない」
もういない、姉に語りかける。
「何も、あんな時に……」
あとは声にならず、ただ、押し殺した嗚咽だけが漏れた。
「ありがとうございました」
喫茶店の前で洋子は頭を軽く下げた。私は複雑な気持ちでそれを見る。
「森村さん」
最後に聞いておきたいことがあった。
洋子が無言でこちらを見つめる。
だが、どうしても私はそれ以上言葉をつなげられない。聞かなくてはいけないという気持ちだけが先走る。結果的に姉を死なせてしまったパズルを仕掛けた私を、妹は責めないのか――その問いが声にならない。
「私」
と、森村洋子が話し出す。
「昔、大介さんのことが――好きでした」
そう言って薄く笑った。
「だから――姉が……」
私を見る。
「――あなたを責める資格なんて、誰にもないと思います」
その、はっきりとした口調に私は幾らか救われる。
「けれど、そんなに姉はムキになったんですか?」
「え?」
「パズルですよ。姉は――そんなに?」
「一度は私を負かしてやるんだって、いつも言っていました」
「そう……」
呟き、ほんの少し遠い目になって、更に呟いた。
「あの人らしいなぁ……」
[エピローグ]
洋子と別れ、私は駅へと歩いた。夕暮どきの暑さがいちばんこたえる。汗だくになるのを予感しながらそれでも暫く歩いていたかった。
水原のことを思った。すぐに気付いたという、あの手紙の相手は私だと。
――なら、ずっと恨んでいたのか?
長年に渡ってあの手紙を封印していた水原の、濃度の高い淀んだ気持ちを思ってみた。自分の婚約者が他の男に会いにいく途中で亡くなったとなれば恨んで当然だろう。実際、私はそのことを誰にも言わなかった。
つ、と苦笑が漏れる。
額の汗をぐい、と拭う。上着に転写された汗が、じっとりとした感覚を倍増させる。
――むしろ、恨んでいたのは。
自分の方ではなかったか。
管野はるかを独占し、私の気持ちを砕いた水原を何処かで恨めしく思っていた。
手紙が私宛てだと聞かされた時、何とも言えぬ高揚を覚え水原に対して溜飲を下げたことを否定はしない。
それだけに手紙の内容には激しく打ちのめされた。
やはり幸せになろうとしていた彼女。
やはり私ではなかった――管野はるか。
――だから。
『とてもたのしかった。しあわせになります』――そこに見える、純度の高い水原への想い。
――あの時も今も、水原の管野はるかだ。お前が密やかに抱いていた暗い影など、初めからなかったんだよ。
遠い昔を偲ばせた彼女の手紙。
結果として、あれが管野はるかの遺書になった。
遺言と呼ぶにはあまりに幸福で、あまりに邪気の無い。
その言葉には淀みがなく、未来が不確定ということを考えてもいない。
洋子の言葉を思い出す。
――あの人らしい、か……。
洋子は晴れやかな顔だった。
幾らかでも救われたのだと、私は信じることにする。
駅に着く。すっかり汗だくになった私はいささか疲労気味に日陰へ身体を入れた。構内の磨かれた柱に自分の姿が映る。
自分の顔が笑っていることに驚いた。
久しくないことだった。
最近では笑うことにさえ疲れていたような気がする。
――帰ったら……。
笑いかけてみようと思った。子供にも――妻にも。
妻の顔を浮かべてみる。
一体何年ぶりだろう、そんなことをしたのは。
記憶の中の妻は、何処か管野はるかに似て見えた。
ポケットから定期を取り出し、改札機にくぐらせる。
一挙動が淀みなく済んで、私は改札の内側にいた。
帰宅の途につく人々が忙しなく行き交う中、私はす、と目を閉じた。雑踏が遠くなる。
『親愛なる人よ』
くっきりと、その文字は閃いた。手紙の主、管野はるかが遺した、おそらくは私に対しての厚意の言葉。彼女が私に仕掛けたとっておきの――切り札。
手紙の左側の言葉を文字数でアルファベットに置き換える。
例えば最初は『すごくあなたに伝えたいことがあったのに』で十九文字だから、十九番目のS――そうやって全て置換すると。
『Sincerely』
――やられたよ。
完全に見落としていた。管野はるかの得意そうな顔が浮かび、それは妻の顔と重なり合って私の中に落ちていく。
最後の最後で負けた自分が心地いい。実際、鈴を鳴らしたような爽やかさが身体を満たしていた。
私はゆっくりと、ホームへ向けて上がっていった。