勘違いの不惑女の恋はスイーツ
夜十時を過ぎているが、駅前にはまだタクシーが数台停まっていた。
ホッとして諒子は車に乗り込んだ。
「朝日町まで」
「かしこまりました」
運転手が丁寧に応対し、車は滑るように走り出した。
深くシートに身を沈め、目を閉じる。
疲れた……。
一日の疲労が一番色濃く出る時間。
メイクもよれ、スーツの着こなしも着崩れている。
しかし、そんなことに構っているだけの心身的余裕は今は全くない。
産婦人科医の諒子は日々、仕事に追われている。
毎日、患者を診察し、お産に立ち会う。
休日もないに等しい。
それに見合う収入はあったが、今年四十歳にして独り身の自分が生活するには余りある額だ。
学生時代から学業優秀だった諒子は当然のように医学部に進んだが、女性の自分が選ぶ診療科は産婦人科だと自然と思った。
しかし、聞きしに勝る激務だったのは諒子の予想の範疇を超えていた。
毎日を必死で過ごす内に、二十代の時の初めての恋人とはすれ違い、別れてもう十年。職場には女性医師・看護師か既婚の男性医師しかおらず、出逢いはない。
そうして懸命に職責をこなしていたら、いつの間にかこんなくたびれたアラフォー女になってしまった。
そんな自分を自嘲気味に諒子は振り返る。
「……あ。次の交差点を右折して角のコンビニの前で停めて下さい」
諒子は運転手に指示を出し、コンビニ前で車を降りた。
コンビニに入る直前。
店の陰で諒子はコンパクトミラーを取り出して、軽く口紅をひきなおした。淡いピンクベージュの色味は、メイクが落ちて疲れた顔でも浮きはしない。
よし!
「いらっしゃいませー」
店内に入ると、いつもの声が響いた。
諒子は籠を持って、まず惣菜コーナーに向かう。
明日の朝食のおにぎりと二個とパックサラダを買う為だ。一人でする食事は味気なく、自炊なんてしなくなって久しい。
諒子はいつものように好きな明太子と鮭のおにぎりを二個、ポテトサラダと一緒に籠に入れ、ドリンクコーナーで『タリーズ』の缶コーヒーを二缶とペットボトルのお茶を一本、そして低脂肪乳をひとパックも入れた。
それから、スイーツコーナーへと向かう。
何か美味しそうなのあるかな。
そんなことを考えながら眺めていると、『お芋さんの団子』が目に入った。『新商品』のシールが貼られている。
それをひとつと、カカオ72%のチョコレートも一箱、籠に入れ、諒子はレジに向かった。
「毎度ありがとうございます」
レジの二十代後半と思われる若い男の店員が人懐こい笑みを諒子に向けた。
「この『お芋さんの団子』美味いですよ。餡がしっとりしたこし餡なんです」
「嬉しい。私、粒あんよりこし餡が好きなんです」
「俺もです。こし餡、口溶けが堪りませんよね」
店員は、白い歯を見せて笑う。
「他にお勧めのスイーツはありませんか?」
「そうですね。今時分なら、やっぱりモンブランですかね。先日、限定でモンブランクリームのバケツパフェが出たんですよ」
「わ! それはカロリーが」
「お客さんならカロリーは気にしなくても」
無邪気にその店員……『渡海』は言った。
「この年になると代謝がねえ」
「またまた」
そんな他愛ない会話を交わしながら、会計を済ませると、
「ありがとうございましたー」
渡海の愛想の良い声を背に諒子は店を出る。
なんとなくウキウキした気分で、諒子はそのコンビニの隣のマンションの七階へと続くエレベーターに乗りながら、今し方交わした渡海との短い会話を反芻していた。
しかし、1LDKの部屋に帰り、暗い室内に電気をつけると……。
『独り身』の自分を一番感じる瞬間。
ベッドとローソファにパソコンデスクと医学書が並んだ本棚、ステレオがあるだけの殺風景な部屋。片付いていると言えば聞こえが良いが、花一輪もなければ可愛らしいぬいぐるみの類いも全くない。自分には女らしさが足りないのではと諒子は思う。
数年前までは、実家の母親から「結婚は?」「いい人は?」と折に触れ、しつこく尋ねられていた。
しかし、全く男っ気のない諒子に「あんたには仕事があるから、結婚しなくてもいいのかねえ。孫なら、お兄ちゃんとお姉ちゃんのとこに五人もいるし」と、いつしかどこか達観したような淋しそうな言葉を漏らすようになっていた。
諒子は兄と姉が無事結婚し、子宝にも恵まれたことに安堵している。
冷蔵庫に買ってきた物をしまい、スーツを脱ぐとハンガーに掛け、浴室へと向かった。
バスタブにお湯を張る間に頭を洗い、トリートメントを塗布する。
髪を蒸しタオルで巻いて、カモミールのアロマオイルを垂らしたお湯にゆっくり浸かると体中が弛緩する。そのお気に入りのフローラル系の香りに束の間、疲れが癒える。
うとうとと寝入りそうになりながら、ハッとして湯船からあがるのはいつものことだ。
肌なじみの良いブルーのストライプ柄のネルのパジャマに着替え、冷蔵庫から買ってきたばかりのお茶と『お芋さんの団子』を取り出すとローソファに座った。
「んー、美味しい!」
諒子は誰に言うともなく、独りごちる。
そんな自分の癖にも目をつぶっている。
「あー、渡海さんの言う通りだった。このこし餡、最高」
『渡海』という名は、直接聞いたわけではない。コンビニの制服の胸につけられている名札で知ったのだ。
諒子が渡海のことを意識するようになってもう一年近くが経つ。
一年前、マンションの隣にコンビニができ、そこの開業当時からの店員の一人が渡海だ。渡海は深夜シフトらしく、諒子が病院からの遅い帰宅時には大抵、勤務している。だから、ほとんど毎日、顔を合わせている。
渡海は男だがスイーツ好きらしく、諒子がスイーツをよく購入するせいか、いつの間にか新商品などの情報を諒子に教えてくれるようになった。
「あの季節限定のケーキは甘さ控えめで美味いっすよ」「でかいバケツプリンが出たんです」……それは他愛ない会話だが、諒子には楽しい癒やしのひとときだ。
だから、仕事帰りのくたくたに疲れた体でも元気をもらえる気がする。
ただ、問題がひとつあった。
どう見ても十歳は年下だよね……。
渡海の顔を思い浮かべる。
血色の良い肌。優しく甘いフェイス。
ぱっと見、二十七、八歳だと諒子は見当をつけている。
私なんて収入はあっても、家事はろくに出来ないし、干物女だし。
そんなことばかり考え、この静寂な真夜中の時間帯は結局、暗くなる。
あー、明日も仕事だし、もう寝よ。
そうやって、一人ベッドへと入る。
それが諒子の日常だった。
◇◆◇
ある朝。
諒子は目覚めて冷蔵庫を開けたが、前日、好きなおにぎりが全種類売り切れていて買えなかったことを思い出した。
今から買いに行くしかないか。おにぎりはやっぱり明太子だよね。
そんなことを考えながら身支度を整え外に出ると、秋の涼しい空気がひんやりしていて、目が覚める気がする。
コンビニの近くまで来て、諒子はドキリとした。
勤務が終わった直後なのか、ラフな私服姿の渡海が外の喫煙コーナーで煙草を吸っていたのだ。
黒いスリムパンツにGジャン姿の渡海はやはり、若々しい。
どうしよう。無視するのも、声をかけるのも、どっちも不自然だよね……。
そう思っていたら、バッチリと目が合った。
「おはようございます」
しかし、渡海の方は屈託ない様子で諒子にそう声をかけてきた。
「おはようございます……」
そう言って通り過ぎようとして、諒子はなんとなく足を止めた。
「お仕事いつも大変ですね。深夜からこんな時間まで」
「いやあ。女性であの時間帯まで毎日働いているお客さんの方こそ、大変でしょう」
諒子は曖昧に笑んだ。
「いつもお勧めのスイーツ教えて頂いて、ありがとうございます」
「いえ。俺も好きなんですよ、甘いもん。そうだ。昨日、『和栗の最中』が入荷したんですけど、めっちゃ美味かったですよ。お勧めです」
「それ美味しそう」
そう笑んで、一礼すると諒子は店内へと入った。
いつものようにこだわりの厳選米の明太子おにぎりと梅のおにぎり、それに缶コーヒーとお茶のペットボトルを籠に入れると、和菓子コーナーに回った。
渡海の言った『和栗の最中』がひとつだけ残っていた。
諒子はそれを大事に籠に入れると、レジへ向かった。
帰りに喫煙コーナーを横切ると、もう渡海の姿はなかったけれど。
『和栗の最中』どんな味かな。
そんなことを考える諒子の気分は軽かった。
◇◆◇
日々は瞬く間に過ぎてゆく。
季節はいつの間にか、クリスマスのホリデーシーズン。
その日は久しぶりの休日だった。
諒子はいつもならだらだらと家の中で通販のカタログを見たりして過ごすのだが、その日は違っていた。
シャワーを軽く浴びるとメイクをし、黒のワイドパンツに白いカシミヤのVセーターの上からグレーのウールのコートを羽織り、諒子は街へと出かけた。
ストリートは幸せそうなカップルで溢れている。
街は華やいだ雰囲気で、誰しも浮き足立っているように感じる。
そんなことは意識の外へと追い出して、諒子は百貨店に入った。
紳士小物のコーナーをじっくり見て回る。
ライターを扱っている売り場で諒子の足は止まった。
「お客様、何かお探しでしょうか?」
若い女性店員が声をかけてきた。
「あ、あの。プレゼントになるようなライターが欲しいんですけど……」
「さようでございますか。それなら、こちら『ZIPPO』など如何でしょう。ライターのブランドとして有名ですし、間違いはありません」
店員が勧めてきたのは、シルバーの四角いライターだった。そのシンプルさが一見して気に入った。
「それをプレゼント包装で」
「包装紙は赤と青、白。何色になさいますか?」
「青で」
「かしこまりました」
そうして、諒子はその『ZIPPO』のライターを購入したのだ。
それを渡海へのクリスマスプレゼントとして渡すべく……。
◇◆◇
しかし、問題は、クリスマスプレゼントを買うことは出来ても、諒子には渡海へとそのプレゼントを渡す勇気がないことだった。
(は。アラフォー女がブランドライターで気を引こうってかよ)
そんな幻聴が聞こえてきそうだ。
悶々と十二月の一日、一日が過ぎていく。
そして、迷っている間に早くもクリスマスイブが来た。
その朝、前日の仕事があまりにきつく、朝食を買い損ねていた諒子は重い体で服を着替えた。いつものように隣のコンビニに朝食を調達に行くのだが、まだ渡海が勤務している時間帯かも知れなかった。そう思うと、そうそうメイクも怠れない。四十女にはそういう心配りが必要なのだ。
コンビニへと行くと、レジにはいつものように渡海がいた。
「おはようございます」
挨拶を交わす。
「寒いっすね。お客さんも冷えには気をつけた方がいいですよ」
そんな愛想を渡海は振りまく。
きっと若くて可愛い彼女がいるんだろうな……。
若々しく、人懐こい渡海の笑顔を盗み見ながらそんな感情に諒子の心はうちひしがれる。
そんなことを考えながら、いつものようにプリペイドカードで払おうとすると警告音が鳴った。
「あー、料金不足ですね。チャージします?」
「あ。ちょっと待って下さい」
諒子は急いで財布の中を確認し、
「三千円お願いします」
と言った。
その時、諒子は確かに慌てていたのだ。
「ありがとうございましたー」
声を背に受け、諒子はマンションへと引き返す。
渡海の笑顔を思い出す。
それは甘くとろけそうだ。
ああ。やっぱり、渡海さんにクリスマスプレゼントなんて。渡せるわけがない……。
そんな悲観的な物思いに耽っていたのも一瞬だった。
「鍵がない?!」
部屋の前に来て、諒子は自分が鍵を持っていないことに気付いて呆然とした。
落とした?!
ええと。
家を出るとき、財布と鍵だけ持って出たよね。
コートのポケットには……入ってない。
どうしよう。家に入れないなんて……。
そうパニクっていたその時。
「加賀さん!」
後ろから声をかけられ、振り向くと
「渡海さん……」
渡海がそこに立っていた。
「どうして……」
呆然と自分より10㎝は背の高い渡海を見上げる。
「お客さん。料金チャージするとき、レジ台に鍵を置き忘れたでしょ。俺、少し経って気付いたんですよ。それで、届けに来ました」
「で、でも。どうして私の家を……」
「あ。お客さん、公共料金とか通販の支払い、いつも払込票で支払いしますよね。それで払込票に書かれた個人情報を……いつの間にかマンション名と部屋番号に名前……すみません。覚えていたんです」
渡海は少し恥ずかしそうに横を向いた。
確かに、高収入とはいえ無駄遣いが嫌いな諒子は家計を管理するために、カードは使わず現金払いをモットーとしている。
そんなことが、こんなところで表目?に出るなんて……。
「はい」と、渡海から優しく鍵を手渡され、諒子は決意した。
「ちょ…ちょっとだけ。待っていて下さい!」
諒子は部屋に戻ってこの数週間、ローソファのテーブルの上に置いて眺めていた『ZIPPO』のクリスマスプレゼントの紙バッグを手にした。
ふられたって当たり前。
でも、この気持ちを渡海さんに伝えたい……。
その一心で渡海の前にプレゼントを差し出した。
「ごめんなさい……。こんなアラフォーおばさんからなんて嬉しくないと思いますが……日頃の感謝です」
真っ赤になりながら、諒子は俯きながら呟いた。
けれど、諒子は途端に羞恥心と後悔の念に襲われ、絶望的な気分になった。
「渡海さんならもっと年に相応しい若くて可愛い彼女さんが、いますよね……」
やっぱり、こんな”らしくないこと”するんじゃなかった……。
しかし。
果たして、渡海はその紙バッグを大事そうに受け取ると言ったのだ。
「俺、彼女も女房もいませんし年に相応しいと言えば、加賀さん。貴女のような大人の女性の方が俺に合っていると思うんですが」
「え?」
「俺、何歳だと思ってます?」
「え、えーと。二十七、八歳くらい?」
「あー、それよく言われるんです」
渡海は破顔一笑した。
「俺、今年で四十歳ですよ」
「え、え、え……!?!」
嘘だ。私と同じ年?!
どう見たって、二十代か三十そこそこにしか見えない。
「童顔で年より十歳は若く見られるんです。それにコンビニ店員なんかしているし、余計ですね」
渡海は屈託なく笑った。
「俺、すげー嬉しいです。加賀さんみたいに素敵な女性からクリスマスプレゼントなんて」
「本当……ですか?」
「加賀さんがスイーツの話するときの顔、めっちゃ可愛いです。大人なのにこんな素直な笑顔が優しい女の人、滅多にいないな、て。俺、加賀さんがいつも一人分の食料やスイーツしか買っていかないから、きっと旦那や彼氏はいないんだろうけど、職場とかにライバルがゴロゴロいるんじゃないかって、気が気じゃなくて」
信じられない気持ちで、諒子は渡海の話を聞いていた。
「俺、収入は少ないですけど、加賀さんへの愛情はたっぷりあります。証明してもいいですか?」
「どうやって……?」
「こうやって」
そう一言囁いた渡海を不思議そうに見つめる諒子を、渡海は優しく抱き寄せると、
「好きです。諒子さん」
ふわり諒子に口づけた。
それは、聖なる日の朝、『不惑女』に期せずして訪れたスイーツのように甘い二度目の恋だった。