第1章 発車
「なんだ、あれ…」
冷えた夜。
そんな夜空はまるで誰かがミルクを溢してしまったようなたくさんの星たちが散らばっている。
そんな星空を走る列車。
「さぁ、準備はいい?」
制服を着たクラスメート、天野真冬。
列車は俺たちの前に止まるとドアが開き、黒い大きな影が降りてきた。
「ノル…?」
「うん、乗るよ」
天野は黒い影に切符を見せる。
黒い影は「カワイソウ…」と一言言った。
「ひどーい」
と天野は笑う。
「あ、天野」
「水瀬くん、さっきの切符出してよ」
「え…うん」
胸ポケットから切符を出すと黒い影はまじまじとそれを見て一言。
「ソレ、ダレノ?」
「彼のおばあさんのだよ。忘れていっちゃったみたい。届けようかなって」
「レッシャ、ニハ、イナイ」
「知ってる。でも、死者の行く所はこの列車を使わないと行けないでしょ?彷徨ってたら寂しいよ、きっと」
「コノコ、ノッチャ、ダメ」
「えぇ〜、いいじゃない。彼はジョバンニだよ」
俺がジョバンニ?
何故だろう。俺はいじめられてなどいないし、貧しいわけでもない。
黒い影は唸って俺たちを列車に入れてくれた。
「さんきゅー。ほら、水瀬くん」
天野は俺の手を取り列車の席に座る。
俺は背負っていた黒いケースを横に置いた。
他にも乗客がいて不思議な人ばかりだった。
どちらかというとお年寄りが多いような。
「ねぇ、天野。そろそろ説明して欲しいんだけど。なんだ、この列車。空飛ぶなんておかしい」
「…」
天野は少し首を傾げる。
列車のベルが鳴る。
『本日はご乗車頂きまして誠にありがとうございます』
アナウンスが流れると列車は出発した。
ガタンゴトン。ガタンゴトン。
信じられないけど、列車は空を飛んでいた。
どんどん地から離れていく。
「水瀬くん、『銀河鉄道の夜』が好きだと言ってたね」
「…あぁ」
「内容は?」
「覚えてるよ」
天野はにっこりと笑って「それは話が早い」と言った。
「どういうことだ?」
「つまりね、この列車は銀河鉄道なのさ」
「…はぁ?」
事の始まりは今日の朝、俺と天野が空き教室で授業をサボったところからだ。
10年前から一緒に暮らしてた曽祖母が夏を迎えることなく、亡くなった。
ひとりぼっちになってしまった俺は思ったよりも変わらない生活にびっくりした。変わったことと言えば、美味しいご飯が食べられないことと家に俺しかいないことだけだ。
いないことはわかってはいるけど、静かな夜曽祖母の部屋を訪れた。部屋には曽祖母の匂いがまだ残っていて、つい先ほどまで曽祖母がいたようだった。
「…なんで、いつも……」
俺の言葉を受け止めてくれる人はもういない。暗い部屋の中に蛍の光が彷徨う。
間違えて入ってきてしまったのだろうか。
蛍の不安定な導きである所へ辿り着く。
月光と蛍の光がその存在を教えてくれる。
「…切符……?」
水色の様な緑の様な色の切符。
「水瀬チヨ様」と曽祖母の名前が綴られていた。
なんの切符だろう。
蛍がまた不安定に飛び始める。
月光が冷たく俺らを包むんだ。
「…ん……」
日光に顔をしかめる。
どうやらいつの間にか眠っていたらしい。
時計をボーとする頭で探す。
人間とはすごい。
本当に焦ると思わず走って家を飛び出すとかじゃなくて「あ、無理だな」と思い二度寝するらしい。
でも、俺は遅刻してもいいから二度寝はやめよう、と食パンをトースターに突っ込んだ。
テレビをつけるとどこかの小説家が亡くなったらしい。本屋でよく見かける名前だ。俺も何作か読んだことがある。
トースターに呼ばれて行くととてもいい匂いが鼻を通る。サク、サク、と食パンをかじりながらテレビの前に戻るとサイダーのCMが流れていた。
少し前からテレビに映るようになった俳優が笑顔で映っている。
さ、爽やか〜。
演技力が高いと評判が良く、俺も彼が出ている映画やドラマがテレビに流れると思わず観てしまうほどだ。
彼を初めて観たのは11年ほど前だろうか。
当時19歳だったはずだから、もう30歳。
時の流れというものは恐ろしい。
まだ、30歳なのかもしれない。これからどんな役をしていくのだろう。楽しみである。
というか今になって19歳であの演技力ということにも驚く。
才能だな。
「ここまで面白いくらいにうまくいくと人生楽しいんだろうなぁ…」
俺は食パンをくわえて学校へ向かった。
だいたい、夏休みのくせに講習があるだなんておかしいだろ。クーラーのない学校で勉強とか。生徒はもちろんそんな大変な仕事を抱えている教師たちにも敬礼。
学校に着く頃には食パンは無くなっており、時計を見る為に上を見上げると4階の窓から頬杖をついている懐かしい人物の顔が見えた。
特に仲良くない。話したことはある。
何故か分からないけど、授業が億劫になったのか俺は自然と4階へ向かっていた。
ドアを開けると奴はゆっくりと振り向く。
「ここ、空き教室だろ」
「そうだよ」
クラスメートの天野真冬。誰とでも仲良くしている印象がある。いつもニコニコしていて嫌いな奴はいないと思う。頭も良かった気がする。
「よぉ、久しぶり」
「久しぶりだね。水瀬くん、遅刻かい?」
「そ。天野は何週間も学校休んでて、講習にも出てないから夏の暑さで溶けたと思ってたぞ」
「溶けてないよ。氷菓じゃあるまいし」
天野は薄ら笑って俺の手に触れた。
「ほらね。ここにある」
驚いて反射的に離れると天野はいたずらっ子のように笑う。少し恥ずかしくて目を逸らした。
「サボり?」
「そんなとこかな」
「サボりだろ」
「水瀬くん、君もでしょ?」
「…まぁな」
窓を開けると少し涼しい風が入ってきた。
「今日は風が冷たいや」
天野の隣に座ると天野はニコッと微笑んだ。
「天野、お前…」
「ん?」
「顔色悪くねぇ?」
「…そうかな」
元々色白の奴だったが、あまりにも青白い顔をしていた。それだけではない。夏服から覗く細い腕や細い腰のシルエット。鎖骨もくっきりとでている。それはまるで死者のような。
「具合悪いなら保健室行けよ。こんなとこじゃなくてさ」
「なんかさ、特別な感じがしないかい?」
「え?」
「みんな授業を受けているのに、僕たちだけここで涼しい風で夏を感じている。同じところにいたはずなのに、別の所にいる。ワクワクするね」
確かに風邪で休んだ日とかみんなが学校に通っているのに自分だけ通っていない感覚と似ているような気がした。
「何読んでるんだ?」
天野の手の下にある文庫本に目が向いた。
「…宮沢賢治」
「…え……?」
「って知ってる?」
「…知ってる」
「『銀河鉄道の夜』は?」
「…好きだよ」
ふふ、と笑うと天野は文庫本を閉じて俺に差し出す。
開くと最初のページに大きく『こころ』と書かれていた。
「夏目漱石じゃねぇか」
「詳しいね」
「常識だろ」
天野に返そうとすると天野は文庫本を押し返した。
「あげるよ」
「いらんよ」
「僕はもう読んでしまったから」
にこにこと天野は笑っていた。
よく分からないけど、こいつは引かないなと思ってカバンにしまうと天野はもう一冊取り出した。
「これは『銀河鉄道の夜』」
「本、好きなのか?」
「…や、そんなことはないと思うけど」
天野が開いていたノートに勉強しているのかと思いきやそうではなかった。整った字で物語が広がっている。
「小説書いてるのか?」
「あぁ。これは物語の続きだよ」
「物語の続き?」
「物語は必ず終わるものでしょう。なんか寂しくてね。こうやって続きを書いてるのさ」
「へぇ。今何書いてんの?」
「『走れメロス』」
「太宰治か。『人間失格』とかの方が描きやすそうだけどな。で、どうなるんだ?」
「妹が婚約者に逃げられる」
「最悪だな」
「他にも見る?」
頷くと天野はノートを見せてくれた。
思っていた以上に面白く、夢中になって読んだ。
芥川龍之介の『羅生門』では下人が老婆を追い剥ぎした後、他の奴に追い剥ぎされた。天野曰く、
「この世は弱肉強食なのさ」
梶原基次郎の『檸檬』は本当にレモンが爆発した。彼はその後病なんてなかったかのように元気になって、せっかく長くなった時間を死んだ人たちのことを考えることになる。天野曰く、
「誰だって後悔と隣り合わせで生きるんだよ」
森鴎外の『舞姫』は1度その時の人生が終わって、来世の話になる。そして再び豊太郎とエリスは出会い、悲劇を繰り返す。天野曰く、
「悲劇は繰り返されるものだよ。過ちもね」
全てを読み終え、何か心が空っぽになったような気がした。そうか、これが終わりか。
「自分で書いてても終わっちゃうから寂しいことに変わりないんだ」
「やめるのか?」
「いいや、結局は自己満足なんだろうねぇ」
天野はノートを閉じると少し辛そうに立って、窓に腰掛けた。
「あ、ぶなっ!」
「ははっ。大丈夫大丈夫」
白い半袖。青い空。天野の柔らかそうな艶のある綺麗な黒髪。
「ねぇ、水瀬くん」
「…なんだ?」
「今夜、君の時間を頂戴?」
「何、その告白みたいな…」
「僕と旅をしないかい?」
薄ら笑う顔。
俺は天野のこういう顔しか見たことがない。
「ダメかなぁ?」
八の字の眉。少し傾げた首。長いまつ毛。
もしかしたら天野真冬という人間に興味が湧いたのかもしれない。もしかしたら夏の暑さにやられたのかもしれない。俺はそういう人間だ。
「や、いいよ。行こう、旅」
「やった」
「んで、どこ行く?」
「列車に乗るよ」
「列車?」
「うん。あ、でも君切符ないからダメかもなぁ」
「切符?買えばいいじゃないか」
「…んー。まぁ、いいや」
天野はうーん、と唸りながら伸びると骨が少し音を鳴らす。
「最近、寝たきりだったからなぁ。歩こうかなぁ」
天野は「あっ」と嬉しそうに声を上げる。
「どうせサボるなら今から君の家に行こうよ」
「え、や、待って。うち、今きたな…」
俺の言葉なんて聞こえないかのように天野は鼻歌を嬉しそうに響かせてカバンを持って俺の腕を引っ張った。
天野はあまり強くない力で俺の手首をずっと掴んでいた。駄菓子屋の前を通り過ぎるとすぐに踵を返して中へ入っていく。
中ではおばあさんが扇風機の前で猫を撫でていた。
「おや、こんな時間に珍しいお客さんだね」
「どうも。ラムネ2本と氷菓ください」
「あいよ〜」
天野は俺から手を離すとしゃがんで猫を撫でた。猫は嫌嫌と逃げるが天野がなんとしてでも撫でたいのか触りまくった。
「しつこい男は嫌われるぞ」
「えー?いいじゃない。嫌がってる姿も可愛いでしょ」
こいつ、変な性癖持ち合わせてないだろうな…?
「…そ」
「ん」
「はい、お待たせ〜」
「わぁ、ありがと〜。はい、これ」
天野は500円玉をおばあさんに渡す。
「お釣りは要らないよ」
「お金を大事にしない男は嫌いだよ」
「こりゃ参ったね」
天野がお金を受け取るとおばあさんは満足そうに頷いた。天野の黒い髪に白い何かが踊っていた。
「あ、天野。糸が髪に…」
「う、わっ!」
天野は多分反射的に俺の手を振り払った。
「取ってやるから大人しくしてくれ」
「…いや、いいよ」
「なんだかあんた猫みたいだねぇ」
「僕が?」
「人にはぐいぐい行くくせに、自分の場所に踏み込んで欲しくないんだろう。それがまた寂しい」
「…そんなことないと、思うケド」
「まぁ、いいさ。でも勝手に1人になって勝手に死ぬのだけはやめな。猫の嫌いなところさ」
「…はぁい」
天野はひらひらとおばあさんに手を振る。
「ばいばい。僕、かえるね」