エピローグ/2
「兄さん、ちょっと出かけてきますね」
夜子がリビングを覗いてみると、ソファでは琴浦が横になってくつろいでいた。外出の旨を伝えると、琴浦は「よっこらせ」と体を起こし、夜子と壁掛け時計を交互に見る。
「こんな時間にか?」
時計の針は、夜の七時を回っていた。
「善知鳥さんにお食事に誘われているので。火之さんも来ます」
「ふうん……。まあ善知鳥さんの誘いなら……、しょうがないか」
「帰りは車で送ってくれるそうなんでご心配なく。――ではいってきます」
「あいよ」
玄関の鍵を閉め、夜子は軽い足取りで駅へと向かう。善知鳥との食事は心から楽しいと言えるわけではないが――何せ毎回わざと神経を逆なでしてくるのだから――、それでも同業と労をねぎらうのは悪い気分ではない。
そう――。今夜は善知鳥主催の人狼事件慰労会だ。
◇◆◇
店の外へ一歩出ると、ひやりとした風が夜子の頬をくすぐった。外の気温はまだ寒いというほどではないはずだから、夜子の体が火照っているのだろう。それだけ店内は熱かった。
「善知鳥さんも、こういうお店に来ることがあるんですね」
善知鳥を見やると、彼は「まあね」と短く答える。今日の会場は、安さが売りの焼肉店で――夜子からすれば、意外としか思えなかった。
(そういえば、この事件の慰労会を焼肉屋にするってことが、私達への嫌がらせだったりするんでしょうか?)
善知鳥の真意はわからないが、夜子はぼんやりそう思う。失礼極まりない――が、夜子にとって善知鳥は「そういうタイプ」の人間だ。
「――……」
すん、と髪の匂いを嗅ぐと、髪に煙の臭いが移っていた。
「何してるんだ?」
火之が不思議そうに訊くが――それに答えたのは夜子ではなく、なぜか善知鳥だった。
「年頃の女の子だからね。匂いはデリケートな問題さ。焼肉は嫌だったかな?」
「別にお風呂に入れば済む話なので、気にしてないです。お肉、美味しかったですし。ごちそうさまでした」
「うん。満足してくれたならよかったよ」
「そういうものなのか……」
火之は小首を傾げ――そういえばと口を開いた。
「なんで今日はおれ達だけなんだ? 事件に関わったのは、つかさ警備でいえば葵殿や羽田殿、協会からは辰巳もいるというのに」
「ついでにうちからも兄さんや鈴切が出てますよ」
火之の言葉に、夜子も横から名前を追加する。――と、善知鳥は喉の奥から押し殺したような笑いを漏らした。
「……なんですか?」
「いや、なんでもないよ。――まあ答えは簡単だ。僕が君達とただ食事をしたかったからだよ。慰労会というのは……、口実みたいなものさ」
これを聞き、火之と夜子は何とも言い難い顔をした。
別の者が言ったのなら、好意的に思っているのだろうと考えるところだが――。他ならぬ善知鳥のことだ。何やら思惑があるのかもしれないと、過去の経験からつい身構えてしまう。
「それそれ、そういうところだよ」
善知鳥は目を弓なりにさせ、ほくそ笑む。
「ま、いいや。そろそろ帰ろうか。車もちょうど来たところだし」
善知鳥はいまだ納得のいかない様子のふたりから目線を外すと、道路へと首を振った。
善知鳥の視線につられ近くの信号――色は赤だ――に目をやれば、先頭で止まっている車の運転席に、見たことのある顔が座っている。あれはつかさ警備の社員だ。
「火之君も乗っていくかい?」
「いや、いい。おれは歩いて帰る」
「そう。じゃあ御守君――」
「はい、お願いします」
信号が青に変わると、つかさ警備の車は三人のすぐ隣に停車した。
ハザードランプが点滅し、三人の顔を橙色に照らす。
「今回は面白い事件に引き合わせてくれてありがとう」
「私が連絡しなくても、そのうち協会から話がいっていたと思いますけどね」
「おれは特に何もしていない。ただ仕事をまっとうしただけだ」
ふたりの言葉に、善知鳥は口角をわずかに持ち上げた。――この世には奇奇怪怪を引き寄せる性を持つ者がいるというのを、ふたりは理解していないのだろう。
「それじゃ、また何かの事件で」
車に乗り込む直前、ひとりその場に残る火之に向かい、善知鳥は言った。火之はこれには答えず、ただ黙って一礼する。
夜子も「それではまた」と火之に挨拶をした――が、善知鳥とは違い、会う場所については言わなかった。
探偵が顔を突き合わせる時――。それは大抵がろくでもないことが起こっている場合だ。
ならばあえて言う必要もないだろう。それに言霊というものを信じるのならば――これもまた口にするべきではない気がした。
扉が音を立てて閉まり、車は火之を置いて走り出す。
夜子は後部座席に深く沈み込み――ネオン輝く夜の街を眺めた。
夜子がいくら事件現場で会いたくないと思っても、三人が探偵であり続ける限り、きっとまた顔を合わせることになるだろう。――しかも、凄惨な事件の捜査で。
それが夜子達三人を繋ぐ、奇妙な縁なのだろうから。