辰巳勇人/2
玄関の鍵が開く音が聞こえ、辰巳は読んでいた雑誌から顔を上げた。
「よっ、おかえり」
玄関でスニーカーを脱いでいる男に向かって言うと、男は腰を曲げたまま「おう」とそっけなく返事をする。
「他の仕事もあるのに悪いね~、毎晩来てもらってさ」
「別に。どうせ自分の家にいてもなかなか寝つけねぇんだ。同じ起きてるんなら、隣の奴を見張ってるほうが有意義だろう」
男は狭いワンルームに上がると、部屋の真ん中にぽつんとある折り畳みテーブルの上に、スーパーのビニール袋を置いた。
辰巳は床に直接敷いた布団から身を起こすと、ひとつ伸びをしてから袋の中を確認した。
「なに? 火之、焼きそば食いたかったわけ?」
言われて火之は、「そういうわけじゃないが」と辰巳の向かい側に座布団を置き、胡坐をかいて座る。
「シールが貼ってあったから」
「ふーん」
なるほど。確かに三食パックの焼きそばには『お買い得』のシールが貼られている。
「――ま、いいや。飯作るわ」
「辰巳も食べるのか?」
「俺はもう食った」
「……悪いな、わざわざ」
「いーよ。でも作ったらすぐ寝るから」
言って、辰巳は大きな欠伸をする。
「あいつ朝早いんだもんな~。合わせて起きるのも大変だわ」
辰巳勇人――彼の仕事は、『対異形探偵協会』の窓口だ。
毎日何件も舞い込んでくる、異形の者に関する依頼。それらを適任な探偵に差配するのが、辰巳の役割だ。昔はある事務所で探偵の助手をしていたのだが――紆余曲折を経てこの仕事に転職した。
辰巳は今でこそパソコンや書類と睨みあい、電話対応に追われる極々一般的な日々を送っているが、かつては現場で探偵の捜査から戦闘までサポートし――ヒヤリと緊迫する場面に遭遇することも日常的にあった。
けれどそれはもう昔の話で。すっかりそんなスリリングな生活からは離れてしまった。
――というのが、探偵協会員の多くが思っている辰巳の今だ。
「隣の、今日はどうだったんだ?」
「いつも通り会社に行って、いつも通り帰ってきた。特に変わったところは無し」
キャベツを手際よく切り分けながら、辰巳が答える。
火之がそうか、と相槌を打つと、辰巳はフライパンに肉を放り込み、「でもなぁ」と呟いた。
「なんだ」
「あいつんちのゴミ。今日ゴミの日だから漁ってみたんだけどさ、あいつの出したゴミ」
「ゴミを……。それで?」
「ぜーんぜん生ゴミとか無いわけ。食事は自炊派だって言ってたのにおかしいだろ。もったいない精神で野菜の皮ごと食べる奴なんだとしてもさ、ヘタのひとつすら出ないのはどうよ? あいつ、白米をおかずにして白米を食べてるわけ? ゴミの中にふりかけやお茶漬けの空き袋も無いんだぞ。それだけじゃない、食べ物に関するゴミはゼロ。これまであいつが出したゴミで唯一あった食べ物のゴミは、俺が渡したパスタの空き箱だけって……」
フライパンの中身を菜箸でかき混ぜながら、辰巳は火之を横目で見やる。何が言いたいのか――と火之が目線を投げると、辰巳は「んー」と口を尖らせた。
「あいつ、絶対別の『何か』食ってるだろ」
「――――……」
その『何か』を、辰巳は言葉にしなかった。だが、火之にはしかと伝わり――。火之は忌々しげに顔を歪めた。
辰巳は、火之の発する不愉快そうな空気を背に感じながら話を続けた。
「――あいつ、異形の者だよ」
『助手としてあんなに有能だった辰巳も、今では協会の事務員か――』
数年前の辰巳を知る者は、今の彼を見てそう残念そうに言う。
憧れていた探偵への道が閉ざされ――辰巳に探偵の《才能》は無かった――、辰巳は助手を辞めてしまった。
頭がよく機転も利く。どこの事務所に行っても、助手としてなら十分にやっていけるのにもったいないことだと、人々は勝手なことを口さがなく言った。だが――。
実は辰巳は、助手をやめた今も異形の者に関する事件に携わっていた。
それは探偵協会会長から直々に依頼されたからであったり、気になる事件があるから独自で捜査をしてみたりと、関わり方は様々だったが。
辰巳は一見すると軽薄な男だ。
だが、かつて探偵を目指した自身の正義感と――そして助手として探偵を支えることに辰巳は誇りを持っていた。
対異形探偵協会の窓口――それはそれでやりがいある仕事だ。だが自分の助手としての経験や能力を必要とする者がいるならば。辰巳はすぐに現場へ向かう。
それが夢を諦めた辰巳の、新たな道だからだ。
――そして現に辰巳は、今もあるサラリーマンを見張っていた。
話を持ってきたのは、対異形探偵協会の会長だ。なんでも、『自分の目』になって代わりに見てきてほしい事件があるとのことだった。
「つかさ警備の《善知鳥君》から連絡があったのだが、どうやら集団で人間を襲っている異形の者がいるようだ。君にはその集団の構成員と思しき人物を調査してもらいたいんだ。
――なに、君ひとりで全員を調べろというわけじゃない。
そんな効率の悪いことはさせられないし、何よりひとりずつ叩いても意味が無いからね。ひとりを相手しているあいだに、他の者に逃げられてしまうだろうさ。
だから私は考えた。事務所の垣根を越えた、大規模捜査を行おうと。人員はもうピックアップしてある。
まずは話を持ってきたつかさ警備。彼らはすでにこの件に着手している。気になることがあれば話を聞いてみるといい。それと、御守探偵事務所にも声をかけてある。君も知っているように、信頼に足る探偵達が揃っている。きっと仕事がはかどることだろう。
そして協会からは――火之君と辰巳君に参加をしてもらいたい。
――この案件では場合によって、大規模な排除作戦が行われるかもしれない。だが君達なら迅速に解決してくれる、そう信じているよ」
会長から言われ、辰巳と協会の探偵である火之は、この捜査に加わった。
――辰巳と火之が捜査を担当することとなったのは、『あるサラリーマン』だった。
ふたりは異形の者の集団の一員とみられる男の隣に引っ越し、彼の行動と話から異形の者かどうかを探り始め、そして。
数週間にわたる捜査の結果、辰巳はサラリーマンを『クロ』だと判じた――。
「で、どうするんだ? すぐに動くのか?」
言って火之は、「いただきます」と目の前に置かれた焼きそばに手を合わせる。
「どーぞ、召し上がれ」
辰巳は欠伸混じりに言うと、布団の中に潜り込む。隣人の見張りは日中は辰巳が、夜は火之が行っている。明日も隣人の動きを観察しなければならないと考えると、そろそろ眠らなければ仕事に差し支えそうだ。
布団で丸まった辰巳は、
「まだ動かなくていいんじゃないかな」と火之に背を向けて言う。
「今すぐ何かしようっていうのは感じられないし。――なーんか待ってるような気がするんだよなぁ、あいつ」
「待ってる?」
「確信があるわけじゃないけど。ま、もう少し様子見てもいいんじゃん」
火之はふむと頷き、箸を口に運んだ。
「そういえばさ、火之は明日の夜こっちに来れんの? 何か昔馴染みに会うとか言ってなかったっけ?」
「時間までには話を済ませる」
「りょーかい。じゃ、俺は明日もちゃんと夜寝られるわけね」
辰巳は布団脇に置いていたアイマスクをつけると、「おやすみ」と呟いた。十分もしないうちに、小さな寝息が聞こえてくる。
「……寝つきが良くて羨ましいこった」
火之はふっと息を零すと、壁にもたれかかった。当然、隣人の部屋があるほうの壁だ。
――薄い壁を通して、時々物音が聞こえてくる。隣の男はまだ起きているようだった。
異形の者の集団……。彼らは何を思って集まっているのだろう。群れて何をするつもりなのだろう――。
火之は頭を振り、ゆっくりと瞼を閉じた。相手の考えていることはわからない。
――だが、好きにさせてなるものか。