辰巳勇人/1
このところ毎日、俺の家のチャイムを鳴らす奴がいる。
最初に鳴らされた時は居留守を使った。通販で荷物を頼んでいるわけでもないし、突然訪ねてくるような知り合いもいない。皆、俺がアポ無しで訪ねてもドアを開けないことを知っているからだ。
だってそうだろう。単身者向けアパートのチャイムを鳴らす人間なんてろくな奴じゃないと決まっている。たいてい受信料の契約か宗教だ。そんなの面倒くさくて構っていられない。
だから二回目に鳴らされた時も、俺は無視した。
そして三回目のチャイムが鳴った日――どんな奴が来ているのか、興味本位でドアスコープを覗いてみた。
「…………」
ドアの前に立っていたのは、俺と同じ年頃の男だった。男は集金カバンでも聖書でもなく、菓子折りのような紙箱を手にしている。
そこで俺はようやく、「ああ、隣に引っ越してきた奴か」と合点がいった。今まで空いていた隣の部屋に、数日前から人の気配を感じるようになっていたのを思い出す。
――だが。
引っ越しの挨拶なんてこれまでされたことがなかったし、したこともなかったら。俺はどう対応すればいいかわからず、その日も無視した。
――それでも男は、四回目のチャイムを鳴らしてきた。
俺はいい加減うっとうしくなって、ついに玄関ドアを開けた。
「……はい」
口から出た声はあからさまな不機嫌さが滲んでいた。わざとではない――が、面倒に思っていることは間違いない。
「あ、こんばんはー。隣に引っ越してきた者ですー」
男はへらりと気の抜けた声でいうと、同じくしまりのない笑顔を見せる。――女にモテそうな顔をしているな、というのが第一印象だった。
「《辰巳》と言います。多分すぐ引っ越すことになると思うんですけど、よろしくお願いしますー」
辰巳は、「これパスタセットなんで。よかったら食べてください」と箱を差し出すと、また人の良さそうな笑みを浮かべた。
すぐ引っ越すとわかっていて挨拶にくるなんて、若いくせに律儀な奴だ。
「どうも、わざわざ」
「短い間ですが、よろしくお願いします」
辰巳が帰ったあと――俺は晩飯がまだだったことを思い出した。
ちょうどいい、と辰巳から貰ったパスタセットを開けてみると、小麦のいい香りが部屋に広がる。
今日はいつも通り、親父から貰った肉をそのまま食おうと思っていたが、このパスタに入れてみるのもいいかもしれない。料理なんてろくにできないが、肉には味がついているから、ただカリカリに焼いて混ぜるだけでも美味そうだ。
「やっべ……」
想像するだけで、唾液がじゅわりと湧き上がる。
(いいもんくれるじゃん)
自分でも単純だと思うが、いい感じの奴が越してきた――そう思った。
それから辰巳とは毎朝顔を合わせた。
朝会社に行こうとドアを開ければ、辰巳も必ずアパートの廊下にいるのだ。どうやら生活サイクルが被っているらしく、奴もちょうど出勤時間なのだという。
一度家に来た奴を無視するのはどうも忍びなく。
「おはよーございますー」
「……はよざいます」
そうやって毎日挨拶するようになると、だんだん俺達の距離は縮まっていき――時々世間話をするようになった。
話してわかったのが、まず名前。辰巳の名前は勇人――《辰巳勇人》というらしい。
仕事は事務職で、前に住んでいたところが急にリフォームをすることになり、しょうがなく一時的にこのアパートに住むことになったそうだ。
前の家ではルームシェアをしており、うちのアパートにはその同居人と一緒にやって来たという。
「でも、うちは独り暮らし専用だったと思うけど?」
「そこは大家が融通してくれたんだ。向こうの家とここ、大家が同じでね。急に決まったリフォームだし、短期間だから特別にいいよって」
「へえ……」
――辰巳の同居人には、実は一度も会ったことが無い。
いつも夜中に帰ってきている、というのは足音でわかるのだが――それだけだ。
別に辰巳の同居人に興味はない。どんな暮らしをしているのか知る気も無いし、好きにしてくれと思っている。だが――、そいつに関して、ひとつだけ許せないことがあった。
――いわゆる『飯テロ』というのを仕掛けてくるのだ、あいつは。
仕事終わりで腹が減っているんだろうから仕方ないが、夜中ぷんと漂ってくる料理の匂いはたまらない。それが特に、肉の香りだった日には――。
俺はもう我慢ができなくて、つい冷蔵庫を開けてしまう。
大事に食べている肉の香草漬け――最近料理をするようになった親父の特別製だ――に手を伸ばしてしまう。
次に親父に会った時、親父はまた肉を土産に持たせてくれるだろうが……。それまではうちに残っている分で凌がなきゃいけない。そうならないよう、俺はいつも『何日まで持たせられるはず』というのを計算して大切に食べている。
だから夜食に食べる、なんて想定外の消費をしてしまうと、その計算が狂ってしまうのだ。
無くなったって他のものを食べればいいだけ、と言われたらその通りなのだが、一度親父の作る料理の味を知ってしまったら、もう適当な食べ方をするなんて考えられなくなった。
「くっそ……。とんでもない飯テロ野郎だな……」
今晩も俺は、窓の外から入ってくる脂の焼ける匂いを嗅ぎながら、肉しか入っていない冷蔵庫を開けた。




