Balaclava
9世紀――地球。
インド南部、デカン高原にある町、夕焼けに沈むコーラルで、一人の農夫が運命的な出会いを果たした。
有象無象、没個性の中にありながら放たれる一際の輝き。藍よりも鮮やかな青、その微笑みは真夏の晴天に似た光を帯びて、農夫の瞳を、そして心を一瞬で虜にし、香が如く甘い口調で語りかける。
「ああ、旦那様。あぁ旦那様。私は此処にございます。この日を長いことお待ち申し上げておりました、どうかその御手にて私をお救い下さいませ。どうか私を陽の下へ、どうか私を貴方様の御側へ。それだけが私の望みでございます故」
それは神の与えたもうた奇跡。
農夫は静かに息を吞み、彼の両の手が、流るる水に浸る。
やがて恐れ多く、水底よりゆっくりと掬い上げられたのは世界最大の青き輝石。両手に収まりきらない原石は不思議な光を放っており、『彼女』を通して見る朱い世界は、一転、蒼く様変わりする。
「ああ、感謝いたします旦那様。この御恩、例えこの身が砕かれようとも決して忘れまは致しませぬ。どうぞ御身に寄り添わせて下さいませ。乾きには水を、作物に実りを、山羊も餓えを知らず暮らすことでしょう。災厄を退け、貴方様の未来に祝福を約束いたします」
言葉にならず喉を鳴らし、農夫は震える首で頷く。すると、『彼女』は語りかけた。
「但し、宜しいですか旦那様。片時も私を手放さぬよう願います。もしも遠く離れてしまえば……いえ、これ以上は申しませぬ、申せませぬ。どうかお尋ねにならないで下さいませ、旦那様を良き道へと導くことこそが、私の幸せなのですから。このささやかな願いをお聞き入れください。そしてくれぐれも宜しいですか旦那様、くれぐれも出会いを伏せて下さいませ。貴方様との距離が離れることは、万に砕かれるよりも悲しいことなのです」
日が沈み、夜がやってくる。
農夫は懐に『彼女』を仕舞い家路についた。
――数日後、農夫は腕を切り落とされて見つかり、以降、八百年間『彼女』は行方知れずだった。史料に姿を現したのは1660年、ヒンドゥ教の寺院からフランス人冒険家が盗み出したとされている。しかも女神像の片目からくり抜いて。
『彼女』は大海を渡りヨーロッパへ。そして当時のフランス国王であったルイ十四世のお気に入りとなった。世代を超えて受け継がれ、だが決して『彼女』は祝福を与えはしなかった。いつしか祝いは呪いに変わり、『彼女』を手にした者は悲惨な、或いは不可解な死を遂げていった。ギロチンの音を皮切りに――。
王の冠を飾り、王妃の首を飾り、所有者を彩ってはその首を狩った。
商人の欲を反り勃たせ、女優の臓腑を蕩けさせ、絶頂と共に身体を蝕む。
男性の野心を唆し、女性の見栄を煽り、誘惑を囁いては精神を狂わせる。
老若男女をとっぷり破滅に導く、青き輝き。
祝福から変身を遂げた『彼女』は呪いの奇蹟を軌跡として、人から人へと世界を巡り、終の棲家は博物館のショウケース。最後に鬼籍に名が刻まれたのは、もう百年近く前になる。




